ムーブメントの径や厚さを大きく変えずに、パフォーマンスを引き上げてこそ、正常進化の名に値する。特にスリーデイズを標準値とするロングパワーリザーブ化は、もはや実用機の必須項目と言えるだろう。開発の主眼となるのは、脱進機形状の見直しと軽量化、そして香箱形状の最適化だ。
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鈴木裕之:取材・文 Text by Hiroyuki Suzuki
次世代基幹ムーブメントの熟成術
手っ取り早くムーブメントのパフォーマンスを向上させたいならば、大径化は極めて有効な手法だ。しかしムーブメントのサイズアップ=時計自体のオーバーサイズ化が大前提である以上、諸刃の剣であることは間違いない。本来的な正常進化とは、適正サイズをキープすることが絶対条件。つまり旧世代機と変わらないスペースの中に、いかにハイパフォーマンスを盛り込むかが設計上の要点となってくる。
2015年初出。登場から27年を経たCal.3135を置き換える新設計機。約90%のパーツが新規に作り起こされており、新規特許は14件にのぼる。歯形の変更と軽量化で、脱進機効率を高めたクロナジーエスケープメントを搭載。また31系と32系では、リュウズの回転方向に対する針回しの向きが逆になっている。直径28.5mm、厚さ5.37mm。31石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間(編集部調べ)。
1988年初出。当時としては珍しい、非常に肉厚な実用ムーブメント。1960~80年代初頭まで生産されCal.1570からフリースプラング仕様が登場し、続く30系でマイクロステラ・スクリュー式を採用。Cal.3135ではさらにマイクロステラ・ナット式となる。ルビー色のリバーサーも15系から受け継がれたディテール。直径28.5mm、厚さ5.37mm。31石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約48時間(編集部調べ)。
こうした正常進化に、真正面から挑み続けてきたのはロレックスである。同社はムーブメントの詳細な寸法を公表していないので確実とは言えないのだが、筆者が見る限りでは、初めて両方向巻き上げローターを搭載した1000番台(キャリバー1030/1954年初出)から、12ハーフリーニュの基本サイズをまったく変化させていない。その最新の系譜をつなぐのが、2015年から導入が開始された「キャリバー3235」(以下32系)である。前作「キャリバー3135」(31系)の初出が1988年であることを考えれば、実に27年振りとなる世代交代だ。
耐衝撃性と耐磁性に優れるブルー パラクロム・ヘアスプリングなど、32系に用いられている技術の一部は、2005年頃から31系の後期モデルに導入されていたものの、キャリバー3235でロレックスが新規に取得した特許は14項目にものぼる。実際32系は、まったく新規に設計されたブランニュームーブメントであり、31系とのパーツ共有率は10%にも満たない。特に大きく変わったのはパワーリザーブだ。31系のパワーリザーブは、当時としては標準的な約48時間だったが、これが32系では一気に約70時間にまで延長された。実用機としてのロレックスの性格を考えれば、週末の2日間を放置して、翌週の月曜日にもそのままハイパフォーマンスを発揮するには、最低3日分のパワーリザーブが必要となる。
この〝3日巻き〞というスペックは、現代的な基幹ムーブメントの必須条件とも言えるものだ。ロレックスでは香箱径を変えずに、香箱の壁を薄くすることで内部の容積を拡大し、従来よりも長い主ゼンマイを収めている。もっともこれだけで、まるまる1日分のロングパワーリザーブ化が成し遂げられたわけではなく、約10時間の延長に留まるという。
もうひとつのキーとなるのは、スイスレバー脱進機に対して約15%の効率アップを果たしたクロナジーエスケープメントである。アンクルの形状変更と薄型化、LIGAプロセスによる微細加工(スケルトナイズを含む)で軽量化されたニッケル・リン合金製のガンギ車が、脱進機効率アップのカギだ。また、先述したパラクロム(ニオブ、ジルコニウム、ハフニウムを主とする合金)製のヒゲゼンマイに加え、ニッケル・リン製の脱進機も、耐磁性の向上に大きく寄与している。両素材ともに、それ自体が磁性体であるため、強い磁場に晒された場合にも金属特性が変化しにくいのだ。細かな変更点になるが、焼結によって作られるモノブロックローターがベアリング受けとなり、テンプの縦アガキを調整する両持ちバランスブリッジのアジャスターも、2本から1本に変更されている。
2004年初出。直接の原型機であるCal.315 S Cは1991年に開発。巻き上げ車を変更したCal.315/190、主ゼンマイのトルクを増強し、輪列にSPYRを導入したCal.315/290を経て、ハイビート化された2004年にCal.324となる。薄型化が見込めるオフセット輪列+3番車による秒カナ駆動という構成のため、運針を安定化させるためには、銅合金製の秒カナ規制バネが必須だった。直径27.0mm、厚さ3.30mm。29石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約45時間。
基本骨格の約90%を新造したロレックスに対し、従来機の熟成改良でハイパフォーマンスを発揮させたのがパテック フィリップだ。同社が2019年に発表した「キャリバー26-330 S C J SE」は、04年初出となる「キャリバー 324 S C」の正統後継機。そのルーツを辿れば、1991年の「キャリバー315 S C」まで遡る。巻き上げ車の歯数を変更した315/190、主ゼンマイのトルクを増やした315/290と熟成改良を重ね、高振動化(8振動/秒)された04年に、324のニューナンバーが与えられている(06年以降はシリコン製ヒゲゼンマイのスピロマックスを搭載)。
2019年初出。ナンバリングのルールが、往年の「直径+厚さ」に戻り、地板の径も1mm小さくなっているが、間違いなくCal.324に連なる発展改良機である。最も大きな違いは3番車。歯先をバネ状にして弾性を持たせたアンチバックラッシュ歯車を採用したことで、摩耗しやすい秒カナ規制バネが不要となった。石数が極端に多いのは、53週カレンダーのモジュールを含むため。直径26.0mm、厚さ3.30mm。50石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約45時間。
26-330が初搭載された「カラトラバ・ウィークリー・カレンダー」が、セミインスタンテニアス(半瞬転式)の53周カレンダーモジュールを備えているため末尾にサブナンバーが付記されているが、注目すべきはベースムーブメントの部分である。新しい26-330では、03年初出の315/290から採用されたSPYR(スピール)に加えて、LIGA成形によるアンチバックラッシュ歯車を積極的に導入し、運針のさらなる安定化を図っている。
そもそも315系〜324系のムーブメントでは、2番車/4番車を共にオフセットさせたうえ、3番車で秒カナを駆動することでセンターセコンド化されていた。そのため秒針の動きを安定させるには、秒カナの規制バネ(ベリリウムカッパー製の板バネ)が必須だったのだ。歯先のひとつひとつをバネ状に成形することで、アガキを実質的にゼロにできるアンチバックラッシュ歯車を3番車に使うことで、摩耗しやすい秒針規制バネをオミットすることが初めて可能となった。これは伝統的な片方向巻き上げローターの巻き上げ車にも使われており、同様に空転時のバックラッシュをゼロにできる。また手巻き機構には減速車を追加し、より安全性が高められた。ユーザーフレンドリーな改良点としては、ストップセコンドが追加された点も嬉しい。
2005年初出。ベースムーブメントはCal.899で、Cal.925はムーンフェイズモジュール付き。直接の原型機としては1983年に登場したCal.889まで遡ることができ、テンプのフリースプラング化/高振動化と、片方向巻き上げへの変更を受けてナンバリングがCal.899に一新された。巻き上げ機構の変更に伴い、ローターはMPS社製のセラミックボールベアリング受けとされている。直径26.6mm、厚さ4.90mm。30石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約38時間。
基幹ムーブメントのロングパワーリザーブ化、秒針規制バネのオミットによる安全性の強化という点では、ジャガー・ルクルトが19年に発表した「キャリバー925/2」も同様だ。これも初搭載されたモデルが「マスター・ウルトラスリム・ムーン エナメル」であったため、ムーンフェイズモジュール付きを意味する925ナンバーとなっているが、実質的にはベース機である「キャリバー899改」と呼ぶべき内容だ。
2019年初出。現状ではベースムーブメント単体でのラインナップが存在しないが、実質的には“Cal.899改”と呼ぶべき内容を持つ新型機。軽量なシリコン製のガンギ車+アンクルに換装されたことにより、約10時間のパワーリザーブ増を実現。さらに香箱内の容積を見直すことで主ゼンマイの高さを増し、合わせて約85%増にも達するロングパワーリザーブ化を果たしている。直径26.6mm、厚さ4.90mm。30石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。
1983年に開発されたキャリバー889系の流れを汲んで、そのフリースプラング版として2005年に発表されたハイビート機がキャリバー899。同時にローター受けのベアリングが、MPS社と共同開発したセラミックボールベアリングに変更されている。新しい899改系ではパワーリザーブを約70時間に延長し、秒カナをパテック フィリップと同様のアンチバックラッシュ歯車に改めている。
なお両社がほぼ同時に、この歯車を用いたのには理由がある。この技術はもともとモジュールサプライヤーのアジェノーが開発したもので、一部の愛好家の間では〝アジェノー歯車〞として有名だったもの(正式名称はAgenEse)。しかし同社代表のジャン-マルク・ヴィダレッシュは、これをスイス時計産業全体のパフォーマンスを向上させる共有財産として、16年度の国際クロノメーター学会を通じて特許フリーを宣言。それから約3年を経て、その成果が波及しだしたということだ。
899改系で驚異的なのは、ロングパワーリザーブ化の比率である。旧899系のパワーリザーブ約38時間に対し、新しい899改は約70時間。先述したロレックスが、約50%のパワーリザーブ増だったのに対し、ジャガー・ルクルトは薄型の899系をベースに、85%に近いパワーリザーブ増を成し遂げている。軽量なシリコン製ガンギ車/アンクルへの変更で約10時間増。残る約20時間分は、すべて香箱の構造変更による。具体的には、主ゼンマイの長さを増すのではなく、高さを増やすことでロングパワーリザーブ化を成し遂げている。同社テクニカルディレクターとマーケティングディレクターを兼任するステファン・ベルモンは「香箱内にあった〝何か〞を取り外したことで、外径寸法を変えずに容積を増やした」と明言する。その実際の手法は古くからあるものの応用で、改めて興味を持って使ってみたのだという。
2019年初出。地板や受けに18Kムーンシャインゴールドのコーティングを施したリミテッドエディション用のスペシャル。パワーリザーブ公称値の約50時間はクロノグラフ作動時の数値で、実際には約60時間にまでロングパワーリザーブ化を成し遂げている。直径27.0mm。26石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50時間。
2019年初出。月着陸50周年の節目と、オメガ全機種マスター クロノメーター化を目して、Cal.1861にコーアクシャル脱進機を搭載。その他、天真やホゾなど15パーツを非磁性のニヴァガウスに変更し、1万5000ガウスの高耐磁性を実現。直径27.0mm。26石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50時間。
1996年頃初出。原型は68年に登場したCal.861で、再生産の際にナンバーが変更されているが、実質的な内容は同じ。アルバート・ピゲ設計によるCal.321(ピラーホイール式)を作動カム式に変更したもので、独立したブレーキレバーを備える。直径27.0mm、厚さ6.87mm。18石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。
ムーブメントサイズにほとんど変更を加えず、驚異的なパフォーマンスアップを果たした最も顕著な例は、19年にオメガが発表した「キャリバー3861」だろう。ベースとなったのは1996年頃に登場した「キャリバー1861」。その原型は68年発表の「キャリバー861」にまで遡ることができる。機構的には861と1861の間に大きな差はないため、実質的にはおよそ半世紀を隔ててのフルリニューアルになる。発表初年の現状では、まだまだリミテッドエディションに搭載されるに留まるが、オメガは近い将来、1861を完全に置き換えてゆくはずだ。開発を主導したグレゴリー・キスリングによれば、3861の主眼はマスター クロノメーター化。すなわち1万5000ガウスの磁気に耐える手巻きクロノグラフを実現させることが狙いだった。
最大の変更点は、シリコン製のヒゲゼンマイと3層コーアクシャル脱進機の搭載だ。ただしNASA御用達であるムーンウォッチへの搭載が前提にある以上、時計としての仕様は絶対に変更できない。つまり50年以上も昔にレマニアが設計したプラットフォームに、コーアクシャル脱進機(しかも簡易型の2層ではなく、最新の3層バージョン)を収めなければならなかったわけだが、これは意外にも難なく運んだようだ。シリコンヒゲゼンマイを搭載するためにフリースプラングを採用した結果、緩急針の高さが相殺されたのだろう。そのうえ3861では、地板の壁ギリギリまでテンワの径を拡大し、厚みも倍近くまで増やしている。さらに香箱真を細くしてトルクの強いヒゲゼンマイを搭載。また通常輪列の歯形を新しくして伝達効率を向上させるなどの相乗効果によって、テンワの慣性モーメントは1861の13㎎・㎠から、24㎎・㎠までアップしている。これは現行クロノグラフの中でも、最大級のスペックである。これこそ最先端のインナーパーツに換装された、現代基幹ムーブメントが示す真の実力だ。