2020年6月10日は、時の記念日制定から100周年を迎える。これを記念した特別連載を全3回にわたって掲載する。第1回は、和時計の解説だ。1969年、セイコーは世界に先駆けてクォーツ式腕時計「クオーツアストロン」を開発し、人々の生活に大きな影響を与えた。そこに至るまでには、日本の時計の原点とも言える和時計より育まれてきた技術があった。室町後期、西洋の機械時計に出会った日本人。江戸時代には自分たちの暮らしに合わせた不定時法の時計を生み出し、その技術を豊かに発展させた。明治の改暦とともに終焉を迎えるまでの、和時計の短くも華やかな歴史を贅沢に凝縮してお届けする。執筆は、久能山東照宮の置き時計をはじめ多くの重要な時計の調査内容を論文にまとめ国内外に紹介してきた、国立科学博物館名誉研究員の佐々木勝浩氏だ。
西洋の時計との出会い
日本へもたらされた最も古いヨーロッパの機械時計の記録。『大内義隆記』に、琴を自動演奏し1日を24等分する定時法の時刻を示す時打ちの機械時計と思われるものが記されている。フランシスコ・ザビエルが、1551年(天文20年)に周防山口の戦国大名、大内義隆に贈ったものだ。
戦国時代末期、織田信長や豊臣秀吉はすでにヨーロッパの機械時計に接していた。信長は、1569年(永禄12年)に二条城でルイス・フロイスと会見し、小型の目覚時計を見せられている。また秀吉は、1591年(天正19年)に聚楽第で4人の遣欧少年使節を謁見し、その際に機械時計を献上されている。
日本国内に現存する最古のヨーロッパの置時計。久能山東照宮に保存されているこの時計は、1609年(慶長14年)に千葉県沖で難破したスペイン船救助に対する謝意を表するために、スペイン国王フェリペ3世から徳川家康に贈られたものだ。時計正面には、鋲で貼りつけた銘板にラテン語で「ハンス・デ・エバロが、1581年にマドリッドで私を作った」と刻まれている。時計自身の立場で、私(時計)を作ったのはハンス・デ・エバロだ、という表現が興味深い。
2012年(平成24年)に久能山東照宮で行われた置き時計の分解調査。大英博物館キュレーター、デービッド・トンプソン氏は、時計に関して極めて重要な事実を指摘する。彼によれば「ヨーロッパの時計の銘は本体に直接刻むもので銘板を貼り付ける習慣はない」という。
果たしてと銘板の下に別の銘が存在するか。数ヵ月後に実施されたX線透視試験。結果は、新たな銘と製作年の発見という衝撃的なもので、正面ではなく底面の1581という製作年を刻んだ板の下から発見された。"NICOLAVS DE TROESTENBERCH ME FECIT ANNO DNI 1573 BRXELENCIS"、文意「ニコラウス・デ・トロエステンベルクが西暦1573年にブリュッセルで私を作った」から、時計の製作者はニコラウス・デ・トロエステンベルク(?~1556年)で、製作年も8年前の1573年に溯った。ここに、なぜ正しい製作者の銘の上に異なる製作者ハンス・デ・エバロの銘板が貼りつける必要があったか、という新たな謎が浮上した。
日本の時計師の誕生
1844年(天保15年)。深田正韶が編纂した『尾張誌』には、朝鮮から家康へ献上された時計が破損した際に、京都の津田助左衛門がこれを修理し、それを手本に1台時計を製作して家康に献上したことが紹介されている。この功績によって助左衛門は1598年(慶長3年)に尾張徳川家の時計師として召し抱えられた。正韶は助左衛門を機械時計製作の嚆矢と称えている。
一方、16世紀末期には、安土、京都、有馬、長崎など各地に設置されたキリスト教の神学校(セミナリヨやコレジオ)では、時計の製作技術の教育を行っていたことが知られている。シリングの『耶蘇会の学校制度』は、セミナリヨがキリスト教の教義だけでなく、語学から、歴史、音楽に至る幅広い教養を身に着ける総合教育機関だったと伝えている。セミナリヨには、実業学校が付属し、油絵、水彩画、銅版彫刻、印刷技術の他、オルガン製作、時計製作、天文機器製作を教えていた。
『イエズス会日本報告』「1601-2年の日本の諸事」では、長崎のセミナリヨで製作を指導した、太陽と月の運行を示す天文時計が家康ほか主な大名に贈られていたことが記されている。また、生徒の何人かは単純な機構の時打ちの時計を製作して生活費を稼ぐ者さえいたという。これは、すでに17世紀の初めには職業としての時計師が誕生していた事実を示すものだ。しかし、1612年(慶長17年)にキリスト教の禁止によって、間もなくセミナリヨは廃止され、機械時計の実務教育は終了した。
平和で安定した社会を迎えた17世紀の江戸時代。京都、江戸、名古屋、仙台、長崎など日本の主要都市で時計師の活躍が目立つようになる。1685年(貞享3年)に出版された名所案内『京羽二重』には、京で活躍する「時計師」として平山武蔵、法橋元佐、三宅勝次などの名前が見え、また1690年(元禄三年)出版の地誌『増補江戸惣鹿子名所大全』には江戸の「土圭師」として弓町時計屋理右衛門、鍛冶橋河岸近江守元信、弓町田中市兵衛、神田乗物町北横丁藤原正次が記載されている。時計師は職業として確立していただけでなく、むしろ花形の職業だった。
機械時計の改良と和時計の成立
ヨーロッパでは不定時法から定時法への移行を促したといわれる機械時計の発明。日本では逆に定時法の機械時計をわざわざ不定時法に合わせて改良する方向へ進んだ。時計師たちがまず行ったのは、文字盤の時刻名の変更と時打ちの数を制御する切り欠きのある輪「雪輪(数取り)」の改造である。さらに時計師たちは、不定時法に対応する機構を発明して、時計に組み込んだ。それらの機構が二挺天符機構と割駒式文字盤だ。
昼用と夜用の棒天符および雁木(がんぎ)車を2組取り付け、これを明け6つ、暮れ6つで自動的に切り替える二挺天符機構。この機構によって、毎日2回行っていた調整は各節気の変わり目すなわち15日毎に行うだけで済み、労力は著しく軽減された。
円盤の円周に掘った溝に時刻名を刻んだ金属片をはめ込んだ割駒式文字盤。金属片をスライドさせて不定時法時刻を表示する可変式の回転文字盤だ。金属片は将棋の駒に似ているので「割駒」と呼ばれ、これが割駒式文字盤の言葉の由来である。
二挺天符機構は、江戸中期(17世紀後半)以降の掛時計や櫓(やぐら)時計に多く採用され、割駒式文字盤は、江戸末期の台時計や枕時計にほとんど採用されている。台時計や枕時計は、技術的に進んだひげぜんまい付き円天符が調速機に採用されている。二挺天符のような天符の切り替えが構造上不可能なため、文字盤の方で対応して割駒式文字盤が工夫されたのではないか。
このように主に江戸時代、日本で、日本の時計師によって製作された不定時法対応の機械時計が和時計だ。なお、和時計という言葉は、昭和初期(1930年代)に研究が始まってから使われるようになった言葉で、江戸時代は、「自鳴鐘」、「時鳴盤」、「土圭(時計)」などと呼ばれた。