2020年6月10日は、時の記念日制定から100周年を迎える。これを記念した特別連載を全3回にわたって掲載する。最終回である今回は、新しい学問である「時間学」に迫る。執筆は、山口大学 時間学研究所 所長の藤沢健太氏だ。時間学研究所は現在35名の研究者で構成されており、研究者の学問分野は、生物学・医学・工学・物理学・心理学・哲学・社会学・経済学・文学・文化人類学など多岐にわたる。自身が宇宙物理学の教授でもある藤沢氏は、時間学の意義をどのように捉え、未来へつなごうとしているのだろうか。
手のひらに乗る宇宙の時間
時計は宇宙と私たちをつなぐ装置である。
朝起きて時計に目をやり、昼になれば時計を見て昼ご飯を食べ、夜には目覚まし時計をセットして寝る。毎日、私たちは特に意識することもなく、時計を見て時間を使っている。時計が知らせる時間が私たちの生活を律しているのだ。
時計の時間は太陽の日周運動にもとづいて決められている。太陽が南中(真南に来ること)してから次に南中するまでが、1日という時間の基準だ。この1日を24等分して1時間を決め、それを60等分して1分、さらに60等分して1秒を決めたのであるから、私たちが使う時間の基準は1日という太陽の周期的な動きである。
長い時間に目を向けると、1年という別の周期が私たちの生活を律していることに気づく。1年は太陽が天球を1周する時間であり、1年の周期で太陽の南中高度が変化するため季節が生じる。
天文学の観点に立てば1日は太陽に対する地球の自転の時間であり、1年は地球が太陽を公転する時間である。私たちは太陽と地球という天体の現象に従って生活している。これは人類が地球上に誕生して以来、受け継いできた生活のリズムだ。
人類が農耕を始めると、暦が重要な役割を持つことになった。1日と1年を基本とする時間の規則を決め、社会で共有する形としたものが暦である。農村社会では季節という自然のリズムに従った労働が営まれ、自然の動きを読み取ることは生きていく上で重要な意味を持っていた。そのため世界各地でさまざまに工夫された暦が作られ、使われてきた。暦には祝祭などの行事が組み込まれ、暦に従って構成員が共通の行動を取ることで社会に一体感とリズム、すなわち社会的な時間の流れを生み出した。
人類が文明を作り始めてから近代に至るまで、時間と暦の作成は統治者の独占物だった。だが20世紀に入って市民が社会の主役となり、工業が発達して時計は市民ひとりひとりの持ち物となった。かつて宇宙=神々の世界のものだった時間は、時計によって知ることができる個人の時間となったのである。それでもなお、私たちは1日と1年という宇宙の現象にもとづいた時間と暦を使って暮らしている。私たちが使う時計は、宇宙と私たちを結び付けているのである。
時を研究する
山口大学時間学研究所は2000年に当時の学長だった広中平祐先生の主導で設立された、時間を研究し、時間学という学問を構築することを目指した研究所である。時間を研究するとはどういうことだろうという疑問にお答えするために、まず時間の多様性について紹介しよう。
人間は太陽の動きによって時間を決め、時計を作った。そして時代とともに時計は高精度になり、きわめて均質で客観的な時間を社会に提供できるようになった。高精度な時計がもたらす時間は現代文明の一部をなしており、それに慣れた私たちは、時間といえば時計が知らせてくれる時間だけを思い浮かべる。
しかし高精度な時計で計る時間のほかにも、さまざまな時間が存在する。例えば現代日本の鉄道は世界一正確に運行され、私たちはそれに慣れて暮らし、1分1秒単位の時間を正確に守ることが当然であると考えている。このような意識を時間意識というが、時間意識は世界共通のものではなく、文化的にも歴史的にもさまざまである。たとえば明治維新直後の日本人の時間意識は今とは比べ物にならないほど悠長であった。これは明治初期に日本を訪れた西洋人の日記によって知られており、日本人の時間に対する「悠長さ」はしばしば外国人を苛立たせ、失望させたという。西洋人の時間意識と日本人のそれは異なっていたのだが、これは日本人だけで暮らしていると意識されない。異なる時間意識の文化で暮らすということは異なる時間を生きているということであり、言い換えれば私たちが思い浮かべる時間は唯一絶対のものではなく、さまざまな時間があることを示している。
時間と文化の関係を示す身近な例は他にもある。時間が流れると私たちは表現するが、時間はどちら向きに流れているのだろうか。これを言語学的な観点で捉えると、私たちは過去の方向と未来の方向を向いた時間の流れの表現を混在させていることが分かる。「3日前」という表現では、3日間離れた過去の時間が自分の前方に位置しているので、私たちは過去を向いており、時間の流れに流されて次第に遠ざかっていく昔の出来事を見つめている。しかし「1年先」というときは1年離れた未来の時間が私たちの前方にあり、私たちは流れに乗って未来に向かって進んでいる。これは日本語を使う人の時間のとらえ方の例である。
時間の多様性は文化的なものに限られない。楽しい時と退屈な時では、時間の流れ方が大きく違うことは誰でも経験することである。楽しいイベントに参加したとき、何かに集中しているときに驚くほど速く時間が経過するのに、退屈な話を延々と聞かされるときになかなか時間が進まないのは心理的な現象であり、これは心が感じる時間の性質と言える。心が感じる時間の性質は古くから心理学の研究対象であり、また近年の脳神経科学の発展に伴ってますます深いレベルで研究されるようになっている。心の時間は、精密な時計が教えてくれる客観的な時間とは別の、個人個人が持っている時間なのだ。
生物学的な観点に立つと、ひとりひとりが個人的な時間を感じるというだけでなく、実際にひとりひとりが生物学的時計を持っていることが明らかになる。
多くの動植物は1日周期で行動がリズミカルに変化する。人間は夜になると眠くなり、朝になれば自然に目が覚める。マウスは逆に夜に活発に活動し、昼には活動が低下する。外部の刺激を遮断した実験室にマウスを入れておくと、日光のような1日周期の刺激がまったくなくても、活動・睡眠のリズムがほぼ1日で繰り返されるのである。これは人間でも確かめられており、外部の刺激を遮断しても、人間はほぼ1日周期で覚醒と睡眠の周期を繰り返す。それだけでなく、体温の上下、内分泌物質など、さまざまな生理的現象がほぼ1日周期で変動するのである。これを概日リズム(サーカディアンリズム)という。いわゆる体内時計である。
この概日リズムが生じる機構は、遺伝子のレベルで解明されつつある。その名も時計遺伝子という多数の遺伝子が存在するのだ。細胞のひとつひとつの中で、ある時計遺伝子が働いてタンパク質を作り、それが別の遺伝子に作用して活動を発現・抑制し、それがまた別の作用を持つという複雑な機構が働き、結果としてほぼ1日の周期でさまざまな産物の量が変化する。つまり細胞ひとつひとつが時計として機能する。多数の細胞の時計を同調させ、生物の個体として時計を働かせる機能もある。人間の場合は、脳の中にある視交叉上核という神経の小さなかたまりが全体を統合する中枢の時計として働き、結果としてひとりの人間が1日周期の時計として機能しているのである。概日リズムは明らかにひとつの時計だ。多くの人に共通の時間をもたらす機械式時計や原子時計とは異なり、その個体(個人)に固有の時間を刻んでいる時計なのである。
時間には到底ここに書き尽くすことができない多様性の広がりがある。その理由は単純で、自然現象、文化的な事象、経済活動、心の動き、人の生き方など、およそこの世のあらゆる出来事に時間が関わっているからである。この時間の多様性を明らかにすること、また多様性の起源を理解することが、時間学の目標のひとつである。
さまざまな時間
さまざまな場面で、さまざまな観点で、多様な時間が現れる。例えばベンジャミン・フランクリンの言葉とされる「時は金なり」では貨幣に交換される労働の時間であり、H.G.ウェルズの小説『タイム・マシン』では人類の未来として描かれる時間であり、ニュートンによれば世界の変化を記述するための一様に流れる絶対的な時間である。多彩な文脈において多様な姿で時間は現れ、これらを同一の「時間」として扱うことはおよそ無理なことのようにも思われる。
それにも関わらず、これらはみな「時間」とされているのである。それはなぜか。多様な時間に共通する性質があるから、より詳しく言えば人が時間について考えるときに思い浮かべる時間の性質が、さまざまな場面で共通しているからである。時間はあらゆる事象の変化を記述する指標である、時間の流れに逆らうことはできない、過去のことはすでに生じたが未来のことはまだ生じていない、こういった時間の性質である。多様な時間に共通なこの性質を取り上げてさまざまな角度から検討することで、逆に時間に対する理解が深まるのではないかという期待が生じる。
時間の流れに逆らうことができないという性質を取り上げて検討してみよう。
言語学的な考察はすでに述べたとおりで、私たちは時間を流れるものとして認識している。これは時間を自由に移動することができず、またその場にとどまることもできず、あらゆるものが例外なく一様に時間によって変化する、あたかも大河の流れのように感じられることに由来すると考えられる。時間が流れるということは、実は物理学的には完全には理解されていない。時間の流れの方向を決めるとされるエントロピー増大の法則と、私たちがありありと感じる現在、そして時間の流れの関係はまだすっきりと理解されているとは言えず、近年物理学に新風を吹き込んでいる情報理論との関係で研究が深められているところである。
時間の流れが大河のごとく私たちの意思に関わらずに流れることは、経済的、社会的に重要な意味を持っている。もし時間の流れに逆らうことができて、過去の自分に今日の株価を教えるようなことができたら、経済のシステムは大混乱である。またある人が未来に行き犯罪を行って現在に戻ってきたら、その人は犯罪をすでに行ったのかまだ行っていないのか、法律も大混乱である。逆に言えば、時間が大河のごとく流れて、そこから逸脱することができないことを前提として、私たちは社会の規則を作っているのである。
一度過ぎ去った過去を取り戻すことができないという事実は、悔恨や追憶という形で人の心を動かす。あの日に帰りたい、あれをやり直したいといった気持ちは、多かれ少なかれ誰しも持っている願望であり、しばしば文学をはじめとする芸術の主題となる。逃れられない時間の流れが人間に最も強い影響をもたらすのが、人間の一生、すなわち誕生、成長、老化、そして死という一連の変化である。これが生きることの意味という問いを生み、宗教を生み出した。
人間が現れる前、時間について考える生物は地球上にはいなかった。約140億年の宇宙の歴史、約46億年の地球の歴史の中で生物が誕生し、約20万年前のホモ・サピエンスの出現、約1万年前の農耕と文明の始まりを経て現在に至る時間の大きな流れに、私たちは乗っている。上に挙げた社会的、芸術的、宗教的な時間観は、生物としての進化、そして人類の歴史および文化のなかで獲得されたものと考えられる。
あらゆる事象に関係する時間とは、社会と人間と自然を理解するひとつの手がかりである。これまで哲学に言及しなかったが、この世界のとらえ方は哲学そのものと言ってよいだろう。
上で述べた流れる時間という性質のほかにも、循環する時間、未来と予言、社会基盤としての時間、時間意識、時間知覚など、さまざまな特徴あるいは観点がある。時間が持つ興味深い特徴を基軸にして、様々な時間の関係を考察し、理解することは、すなわち時間を研究することである。これが時間学のもうひとつの目標である。
著者
藤沢健太(ふじさわ けんた)
山口大学教授・時間学研究所所長
東京大学大学院理学研究科修了。理学博士。専門は宇宙物理学、電波天文学。宇宙科学研究所COE研究員、通信・放送機構国内招聘研究員、国立天文台助手、山口大学助教授・准教授を経て、2010年より現職。著書に、『時間学概論』(共著)。
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