世界最大の時計市場といえば、久しく香港がその地位を占めていた。アジアの金融センターでもあり、多くの投資家や富裕層、そして買い物好きの旅行者たちを惹きつけてきた。だが2020年、その地位が大きく揺らぎ始めた。果たして、世界の時計市場は今後、どのように変貌を遂げていくのだろうか?気鋭の経済ジャーナリスト、磯山友幸氏が最新の統計データから考察する。
安堂ミキオ:イラスト
「自由都市」香港が世界最大の時計市場から陥落?
新型コロナウイルスの蔓延に伴うロックダウン(都市封鎖)や移動自粛の影響で、世界の高級時計市場が大打撃を被っている。
スイス時計協会(FH)が毎月発表しているスイス時計の輸出統計によると、全世界向け輸出額は、1月の前年同月比9.4%増から2月には一転9.2%減になって以降、3月21.9%減、4月81.3%減、5月67.9%減と、未曾有のマイナスを記録している。1月から5月までの累計では、30カ国・地域のうち28カ国・地域でマイナスを記録、合計で35.8%減となった。
販売店の営業自粛
高級時計の需要を支えている旅行者が激減していることもあるが、都市封鎖によって小売店が営業自粛に追い込まれたことが大きく響いた。
スイス時計最大手の時計製造グループ、スウォッチ グループが発表した2020年上期(1-6月期)の決算は、売上高が21億9700万スイスフラン(約2500億円)と46.1%も減少。最終損益は3億800万スイスフラン(約350億円)の赤字と、半期決算で初めて赤字になった。最悪期には世界の直営店・提携販売店の80%が営業できなくなったとしている。
同社は下期の急回復を見込み、通期では黒字を維持するとしているが、新型コロナの蔓延は収まる気配を見せておらず、時計販売の先行きに影を落としている。
新型コロナの影響は世界全体に及んでいるが、世界の高級時計市場の地図を塗り替える激変となっている。
各国の立ち位置の変化
中でも象徴的なのが、世界最大の時計市場として長年頂点に君臨してきた「香港」の凋落だ。
スイス時計の輸出額を見ると、2019年の年間における香港向けは26億5930万スイスフラン(約3040億円)であった。香港での「逃亡犯条例」改正案を巡る民主派の反対デモの影響で、2019年は観光客が激減。時計市場をも揺さぶった。2位の米国が8.6%増、3位の中国本土が16. 1%増、4位の日本が19.9%増と、大きく増加する中で、トップの香港向けは11.4%減となった。それでも辛うじて首位を保ったが、2位の米国向けは24億910万スイスフランと追い上げていた。
そこに新型コロナの蔓延が加わった。当初は中国・武漢で発生したこともあり、中国の都市封鎖などが先行。香港も厳戒態勢となった。この結果、1月単月では米国に抜かれて香港は2位に転落、中国本土にも追い上げられた。
さらに、そこに中国による「国家安全法」に向けた動きが一気に加速したことで、香港向け時計輸出はピタリと止まる状態に陥った。これまでは「一国二制度」の下、中国経済圏でありながら、欧米型のルールが通用するという特殊な立ち位置が香港を「自由都市」として発展させてきた。
通貨の香港ドルは米ドルに「ペッグ」して連動するため、香港の事業者は大きな為替リスクを負わずに欧米諸国と取引ができた。その特異な立ち位置が大きく変化する可能性が出てきたのだ。
1月から5月のスイス時計の輸出合計額では、香港向けは52.5%減って、米国、中国本土に次ぐ3位に転落。国家安全法が施行された6月末以降の状況次第では、さらに大きくランクを下げる可能性も出てきた。
世界の時計市場動向
もっとも、米国がすんなり世界最大の時計市場に躍り出るかどうかは微妙だ。米国は経済再開を急いだ結果、新型コロナの蔓延が再拡大。死者が累計で14万人を突破するなど、世界最悪のダメージを受けている。5月単月のスイス時計輸出額を見ると、米国向けは79.2%減と主要輸出先で最も減少率が大きくなった。一方で、中国は感染拡大を封じ込めたとされ、経済再開が進んでいる。
この結果、5月は全市場がマイナスになる中とはいえ、中国がトップ、2位が香港、3位がドイツとなり、米国向けは4位に転落した。2020年はどこが世界最大の時計市場になるのか、読み切れない混沌とした情勢になっている。
新型コロナの蔓延が長引き、国境を越えて移動する旅行者が激減した状況が続けば、時計市場は壊滅的な影響を被ることになりかねない。経済再開を急いで人の動きが増えれば感染拡大が起きるというジレンマに直面している。人々の生活が一変したことで消費スタイルにも大きな変化が起き、高級品への需要が落ち込む可能性も考えられる。もちろん、世界経済が収縮して景気が悪化すれば、世界の高級品消費自体が減少することになりかねない。
磯山友幸
経済ジャーナリスト。1962年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞社で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、『日経ビジネス』副編集長・編集委員などを務め、2011年3月末に独立。著書に『「理」と「情」の狭間 大塚家具から考えるコーポレートガバナンス』『ブランド王国スイスの秘密』(いずれも日経BP社)など。現在、経済政策を中心に政・財・官界を幅広く取材中。
http://www.hatena.ne.jp/isoyant/
https://www.webchronos.net/features/43181