ヒゲゼンマイはテンワとともに機械式時計にとって心臓そのもの。精度を左右する存在として、まさに生命線を握っている。時計業界において事実上、ヒゲゼンマイ供給の独占的地位に立つニヴァロックス・ファー社。同社が投げかけた供給制限という爆弾発表によって、どのような急変が起きていたのだろうか。
市川章子:翻訳 Translation by Akiko Ichikawa
[クロノス日本版 2012年11月号初出]
サイズも質量も極少でありながら、それがなくては機械式時計が成立しないのがヒゲゼンマイだ。繊細な線条針金の金銀細工のようにちっぽけなこの部品は、厚さが100分の3mm程度と人間の髪の毛よりも明らかに細く、その重さはおよそ2.5mgにすぎない。しかし、チクタクと脈打つミクロコスモスからヒゲゼンマイを取り除いてしまうと、一瞬のみじろぎの後に、時計は静寂に包まれる。この部品とペアを組んでいるのがテンワだ。ヒゲゼンマイがそこに固定されて初めて、スウィングという己の使命はようやく成し遂げられる。同様に歯車の輪列も、休むことなくエネルギーを送り出すしなやかな渦巻きの存在なしに動くことは不可能だ。古典的スタイルに則った時計において、ヒゲゼンマイが“時計の魂”と敬意を込めて称されるのも、何ら不思議なことではない。
過去何十年間もの間、幾人かの野心的な時計師と技術者たちは、この小さな部品に集中的に取り組んできた。そのため、今や秘匿されている事柄は、ほとんどないに等しい。現在、ヒゲゼンマイの主流を成しているのは、合金の“ニヴァロックス”製のものだ。ニヴァロックスという言葉は、“不可変の(nicht variabel)、酸化しない(nicht oxidierend)”という特性に由来する。この素材は1931年にラインハルト・シュトラウマン(1892〜1967年)によって開発され、時計の精度に飛躍的な向上をもたらした。ニヴァロックスを構成するのは、鉄、ニッケル、クロムに加え、ベリリウムほかの元素もわずかに含む。シュトラウマンが1930年代に特許を取得した製法では、金属の配合割合に幅を持たせ、作り手のオリジナリティに委ねるものになっている。つまり、シュトラウマンは配合の詳細を明かさなかったのである。現在、そのレシピは、スウォッチ グループ傘下のニヴァロックス・ファー社をはじめとするわずか数社のみが握っているのが現状だ。とはいえ、かつて提携会社であったドイツ企業のカール・ハース社には、配合量を具体的に示した製法書が残されているという。そしてH.モーザーの姉妹会社であるプレシジョン・エンジニアリング社も、シュトラウマンが遺した技術に2001年から集中的に取り組んでいる。シャフハウゼン郊外のノイハウゼンに本拠を置く同社は、取引先12社とともに、ヒゲゼンマイ用素材のPE3000を開発している。
ところで、モノメタルテンワとして広く普及しているグリュシデュールは、ベリリウム、銅、真鍮、ニッケルから成る合金だが、これはほとんど完璧に近いと言っていい性質を持っている。では、テンワの動きの生命線であるヒゲゼンマイの合金についてはどうだろうか。機械式小型時計におけるムーブメント駆動の理論上の基盤については、どの時計書籍でも行数を割いて説明しているのが常だ。曰く、揺さぶり、磁界、気圧、気温変化などの異なる外的要因に対して、テンワとヒゲゼンマイは可能な限り同じ振動を保とうとする。すなわち、等時性である。その中でも、気温変化はヒゲゼンマイの有効長および弾性係数に大きく影響する。銅合金製の単純なヒゲゼンマイの場合、気温が摂氏1度上昇あるいは加工しただけで、日差に10秒もの誤差が出るという。それに対し、ニヴァロックス製ヒゲゼンマイの場合は、摂氏1度当たり0.5秒ほどしか日差に影響しない。
秘法に非ず、されど容易に非ず
素材の特性が秘匿されていないのと同じように、ヒゲゼンマイの製造方法についても、秘法が守られているという類のものではない。製造の最初の段階では、ニヴァロックス製の針金は直径0.5mmほどの太さがある。そのままではヒゲゼンマイとして製品に仕上げるには太過ぎるため、中が空洞になっているダイヤモンド製の伸線機にかけ、一定の力を加えてゆっくりと引っ張り伸ばしていく。元の直径の10分の1ほどの太さになったら金属製のローラーにかけ、0.046mmの厚さまで伸ばして整える。ムラが出ないよう、極めて慎重さを要する作業だ。この時、厚さに1000分の1mm以上のムラが出来てしまうと、もう使いものにはならないという。
この極細テープ状の針金は、最終工程で、例えば0.09mm×0.018mmなどのように、決められた幅と厚さに仕上げられる。そして、厳密に同じ長さに切り分けられた後、巻き取り器の中心軸に3本か4本、あるいは5本取り付けられ、巻き込んでいくというのが伝統的な手法だ。渦巻きを正しい形状に作り上げるには、複数の針金を取り付けて、針金同士がお互いに重なり合って巻き込まれるようにすることが肝心だ。そして、一定の温度が保たれた真空焼成窯で形状を固定化し、一旦洗浄されて出来上がりとなる。
しかし、これではまた最終工程終了とは言えない。ヒゲゼンマイに不可欠なのは、正確に曲げられたエンドカーブである。その曲線は、それぞれ適合するテンワのアームのサイズに合うものにしなくてはならない。この工程は等級分けと呼ばれ、20種のテンワがあればヒゲゼンマイも20種に振り分けられることも少なくない。例えば、第5等級というクラスのものは、バランスが厳密に整えられたテンワにのみ組み合わせるべく調整された専用カテゴリー、といった具合だ。
次なる工程には別部品の取り付けが控えている。ヒゲゼンマイの渦巻きの内側の端は、ヒゲ玉に差し込んで固定されるか、新仕様のものに見られるようにレーザーで溶接されるかのどちらかである。この組み立ての段階で信頼に足る高品質を導くべく、ひとまず調整される。ここで日差120秒まで仕立て上がるのが普通だ。それからの追い込みが、各時計師の腕の見せどころとなる。
エキスパートの君臨
時計界にはヒゲゼンマイをテーマにした討論が起こりはじめてまだ日が浅いが、時計愛好家が興味を持ってその経過を追ってみると、あまりに苛烈な進行ぶりが理解しかねるかもしれない。それは多くの時計メーカーにおいてもまったく同じだ。
圧倒的生産量を誇るヒゲゼンマイメーカーの最大手ニヴァロックス・ファー社(Nivarox-FAR)は、1933年創業のニヴァロックス社(Nivarox SA)が、1984年に企業グループのファブリク・ダソルティマン・レユニ(Fabriques d'Assortiments Réunis)と統合して発足した。現在、スイス時計会社の90%から95%は、何らかのかたちでスイス・ジュラ地方西部に本拠地を置くニヴァロックス・ファー社に大きく依存していると言われる。もし同社で、たった数時間でも製造機械が止まってしまったならば、スイスの機械式時計ムーブメントの生産は、たちまち総じて中止せざるを得ないだろう。つまり、言い換えると、ニヴァロックス・ファー社は、(今のところは)ほとんど独占企業のように機能しているのだ。アナログ手法をもって格段にリーズナブルな価格で迫り、ETAムーブメントに並ぶ商品力を持つまで発展を遂げたこのメーカーは、欧州では向かうところ敵なしである。
ちなみに、調速脱進機を構成する部品一式(ヒゲゼンマイ、テンワ、アンクル、ガンギ車)は、最低取引単位が1000セットであり、1セット当たり12スイスフラン、つまり約10ユーロである。しかし、その価格を最終的に決定するのは品物のレベルだ。メジャーなクロノグラフムーブメントであるETA7750に搭載されるクロノメーター級ムーブメント用のテンワとヒゲゼンマイの2点セット(エグゼキュシオン・クロノメトル)は、通常仕様の2点セット(エグゼキュシオン・ノルマリゼ)の倍近い価格設定になっている。
ニヴァロックス・ファー社が商品を廉価に製品化し、提供できるのは、ある意味、長年の伝統によるものと言っていい。それは、とてつもないほど多くの経験と、基本素材であるニヴァロックスに関する豊富な知識に基づいている。また、大量生産のノウハウがずば抜けて高度であることも大きな要因だ。それには製造機械群を積極的に導入してきたことも功を奏し、減価償却も終えていると思われる。この企業は、手作業や少量生産では持ちこたえられるような規模ではないのだ。
2011年の中頃、スイス時計業界を震撼させる通達があった。スウォッチ グループに、政府機関であるスイス公正取引当局(略称WEKO=日本の公正取引委員会に相当)の監査が入ったのだ。目的は、「機械式ムーブメント用部品群の一括納入が、カルテル法(カルテル及び他の競争制限に関する連邦法)に抵触していないかどうか」の調査であった。つまり、前述の調速脱進機を構成する部品群をバラ売りせず、ワンセットで販売していることにほかならない。WEKOとニヴァロックス・ファー社のそれぞれの主張が一致を見せないのは明らかで、当然ながらその攻防がもたらした爆発力たるや、スイス時計業界にとって凄まじいものとなった。スウォッチ グループに関しては、2002年にも傘下企業のETA社がエボーシュ供給の方法変更に踏み切ったことについて、大いなる論争が繰り広げられたが、今回はそれを上回る規模なのだ。
加工前材料の仕入れ段階でも難問が
ヒゲゼンマイの大量生産を取り巻く一連の出来事を複雑にしているのは、組織の肥大化である。問題の発端は、ヒゲゼンマイの素材そのものにすでに見られる。ニヴァロックスという素材は、各原料の配合の許容誤差が公開されていないのだ。ヒゲゼンマイが身近にある状況に置かれている者は、許容誤差について無頓着だと、製造時の溶融成形の難しさは通過したとしても、その後に、極めて重要な鍵を握る調整や耐久性の問題に突き当たってしまう。1923年、ドイツ中部のハーナウに創立した金属加工業のバキュームシュメルツ社によるメソッドはあるものの、それに則るかどうかは各社でまちまちである。バキュームシュメルツ社は、数世代にわたって厄介なニヴァロックス製造の変遷に精通している企業だ。それだけに、同社の躍進はいいことばかりではない。バキュームシュメルツ社には、これまで取引先各社に知らせていた同社製ニヴァロックスの基本的な配合レシピを競売にかける計画が持ち上がっている。これが実現すると、今後、取引企業は合金ニヴァロックスの製品注文に際して、おまかせの発注ができなくなり、配合割合を事細かに指示しなくてはならない。さらに問題なのは、その際に合金に使用する素材は半トン単位での発注が課せられるということだ。これで出来上がるニヴァロックス製の針金は約350kg。その価格は優に50万ユーロはする。これはおよそ2億8000万個のヒゲゼンマイが出来上がる量だ。現在のスイスにおける機械式ムーブメントの年間生産量からいくと、これだけで40年も賄える計算になる。少なくとも今の段階では、大量生産をしていない中小メーカーが、今後どんどん苦境に立たされてしまうのは明らかだ。
ドイツ発のニヴァロックス
同じくドイツ企業のカール・ハース社は、かつてニヴァロックスという素材の開発時に協力関係にあったという強みから恵まれた立場にあり、バキュームシュメルツ社からいわば漁夫の利を得た格好だ。カール・ハース社は創立以来、独自の素材を使用した溶融技術を擁しており。その品質の高さには定評がある。それを考慮すると、バキュームシュメルツ社も、ニヴァロックス受注に関する前述の計画は、当然ながらまだすぐには発動できないのが実状だ。
カール・ハース社の若社長ハンネス・シュタイムは、このように語っている。「今のところ、当社は第1等級と第2等級の高品質ニヴァロックスワイヤーを、倉庫にまだ80kgは確保してあります。当社はワイヤー1kgあたり80万個のヒゲゼンマイの製造が可能なのですが、製品は5段階の等級の中からご要望に合う物をお選びいただいています」。
ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトに本拠地を置く老舗企業カール・ハース社は、現在はユンハンスも経営下に置いている。ドイツ産業界の中核を成すバネ製造のトップメーカーだが、ヒゲゼンマイの製造をニヴァロックス・ファー式の大量生産で行うのはまだ夢物語だという。「しかし」とシュタイムは強調する。「当社のヒゲゼンマイ生産量はめきめきと上昇しています」。
実際、カール・ハース社は1930年代からニヴァロックス製造のパイオニアとして知られており、かつてはヒゲゼンマイの主要メーカーでもあった。しかし、創業から40年ほど経過した頃、クォーツ革命が勃発。それをもって、ドイツの一大時計産業地シュヴァルツヴァルトでも、機械式時計の生産は終焉を迎えるに至った。そこで方向転換を行い、とりわけ自動車のタコメーターに使われるリセット用のバネの製造に力を注ぐようになる。結果として、ヒゲゼンマイ製造で培われた基本技能が役に立ったのだ。
もっとも、これはドイツ国内の話だ。同社はポルトガルにも工場を持ち、時計の部品のセット生産の拠点としている。2009年からは、ドイツの本拠地シュランベルクの工場でヒゲゼンマイの生産が再び始まり。ドイツおよびスイスの顧客に供給を行っている。現在、ヒゲゼンマイの年産は約30万個。ヒゲ玉とテンワは他社製のものを仕入れ、レーザー溶接で加工の上、製品化している。ブレゲエンドカーブに仕立てたクロノメーター級品質のものや、ニヴァロックス素材ではスタンダードではないが、人気のある青色仕立てのものも取り扱っている。
しかし、製造機械が揃っていても、それを扱える専門技術者はわずかだ。先頃、カール・ハース社は、かつてヒゲゼンマイのスペシャリストとして活躍した70歳から74歳の人材を雇用し、現在3名が従事しているという。業界はさまざまな問題をはらんではいるが、シュタイムは将来を恐れてはいない。スイス南西部、つまりジュラ地方に、ドイツによるヒゲゼンマイの一大事業を立ち上げる計画もあり、スイス国内に提携者がいるという。「今はまだメイド・イン・ジャーマニーでは通用しません。当社でも、大抵の顧客はスイスメイドが好ましいと考えていますから」。
シュタイムの展望は、客観的な分析に基づいているようだ。(文中敬称略)