協定破りの「中国化」でどうなる? 時計都市・香港の未来

ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信

2019年まで長年にわたってスイス時計の対外輸出額において世界の頂点に君臨してきた「時計王国」香港。だが近年、中国の政治的な支配が強まるとともに、香港の時計業界における地位が揺らいでいる。これまで国際金融センターとしても大きな役割を果たしてきた香港。その礎であった経済的な優位性は今後、中国との政治的な結び付きがますます強まることが予想される中、維持されるのだろうか? そして、時計業界における香港の未来はどう変わっていくのだろうか?

Photograph by Yasuhito Shibuya
2015年9月30日、第3回のWATCHES & WONDERS HONG KONGのオープニングセレモニー。各ブランドのCEOに囲まれている中央の女性は、2020年春までSIHH(現WATCHES & WONDERS GENEVA)の代表でマネージング・ディレクターを務めていたファビエンヌ・ルポ氏。
渋谷ヤスヒト:取材・文 Text by Yasuhito Shibuya
(2021年1月17日掲載記事)


世界最大の時計都市であった香港

 スイス時計にとって香港は特別な場所だ。多くの時計ブランドがアジアの最重要拠点としてオフィスを設けており、スイス時計協会(FH)が発表している「スイス時計の年間輸出額」では、香港は2000年以前から常にトップ3に入る存在であった。しかも高級時計ブームが中国でブレイクした2010年前後からは、中国輸出の、また中国における時計部品調達のゲートウェイとしての重要度が一気に高まり、香港向けのスイス時計の輸出額はさらに拡大。2019年まで世界No.1に君臨してきた。中国市場と合わせたスイス時計の輸出額は2019年実績で全体の21.5%と2割を超え、スイス時計業界にとってアメリカとともに、世界で最も重要な市場のひとつであることは間違いない。

 2013年から2015年には、スイス2大時計フェアのひとつであったSIHH(通称ジュネーブ・サロン)のスイス国外版であり、かつ参加型の新形態として「WATCHES & WONDERS HONG KONG」が、香港の新世界中心で開催されたことは、時計業界における香港市場の重要性を示す出来事であった。昨年2020年に続き、今年2021年もすでにデジタルでの開催が決定したスイス・ジュネーブ発信の「WATCHES & WONDERS GENEVA」は、この名称を引き継いだものだ。


縮小続く香港時計市場

 ところが時計業界における香港のプレゼンスは、2018年からのこの3年間で激的に低下した。まだ2020年12月の統計データがFHから発表されていないため、1月〜11月という期間での比較だが、FHによるスイス時計の国・地域別輸出額において香港は、中国、アメリカに次ぐ第3位。2020年のスイス時計の香港向け輸出額は、2018年と比較するとマイナス45%。市場がほぼ半減してしまったことになる。

スイス時計の対外輸出額は、2019年まで長年にわたって香港が首位に君臨していたが、2020年1月〜11月までのデータでは、中国が第1位でアメリカが第2位、香港は第3位に陥落した。
(http://www.fhs.jp/scripts/getstat.php?file=mt3_200111_a.pdf)

 2015年にも香港の不況、プレゼンス低下は時計業界では大きな問題だった。2000年頃から一気に膨張を続けてきた中国の時計市場は、習近平政権の「汚職追放キャンペーン」と中国の景気後退で一気に収縮。さらに、2014年に起きた「雨傘運動」という民主化要求運動も影響したのだろう。「WATCHES & WONDERS HONG KONG」は2015年が最後となった。開催前に当時タグ・ホイヤーを率いていたジャン-クロード・ビバー氏が同ブランドの香港ブティック閉鎖を検討中との情報もあり、会期中にすでに「2016年は開催ナシ」との情報が囁かれていたほどだ。だが、2018年には景気は回復したように見えた。


政治的混乱で「時計王国」終焉か!?

Photograph by Yasuhito Shibuya
2014年9月29日、「WATCHES & WONDERS HONG KONG 2014」の際に遭遇した雨傘運動。香港中心部の道路に座り込む学生や一般市民たち。この年、中国本土からの招待客のほとんどがイベントへの来場を取りやめたという。

 だが、香港のプレゼンス低下は止まらない。その理由はもちろん、2019年の中国の習近平政権による「逃亡犯条例の改正案」に始まる香港民主化運動の激的な盛り上がりと、その弾圧で起きた政治的混乱にあるのは言うまでもない。逃亡犯条例改正案は、香港市民たちの大規模なデモでいったんは撤回されたものの、2020年5月からの、新型コロナウイルス危機に乗じたとも言える習近平政権の香港に対する支配強化によって、「香港の自由」は悲劇的な状況を迎えた。

 2020年6月30日には中国政府と香港政庁が反政府的活動だと判断した人物を逮捕・拘禁し、最大で無期懲役の罪を課す「国家安全法」(香港国家安全維持法)が香港で施行された。この法律は2047年までは保障されていたはずの「一国二制度」つまり香港の民主的な自由を完全に否定するものだった。しかも、この国家安全法は外国人にも適用される。つまり、外国人でも「反中国政府的だ」と中国当局にレッテルを貼られれば、逮捕・拘禁して裁判にかけることができるのだ。さらに驚くべきことに、この法律は香港ばかりでなく、国外での行為にも適用されるという。

 この法律の施行直後から、香港で海外移住の動きが加速。経済情報誌やウェブサイトでも「香港からオフィスを移すならシンガポール」という特集記事が溢れた。ただ施行はされたものの、すぐに大規模な民主活動家の逮捕がなかったこともあり、2020年10月末のある有名経済メディアのアンケートでは「オフィス移転は考えない」との回答が多く、「経済に関して香港は従来通り」という雰囲気になっていた。

 だが、2021年1月6日、香港はさらに悲劇的な状況となった。香港特別行政区政府を「転覆しようとした」容疑で、アメリカ人弁護士ひとりを含む民主活動家や政治家約50人が相次ぎ逮捕された。国家安全法がついに発動され、香港は事実上完全に「中国化」されたと考えていいだろう。


各時計ブランドはどうする?

 弾圧が政治的なものだけに留まる、つまり経済的な制約が課されないのであれば、香港の中国に対するゲートウェイとして役割は維持されるので、そのままオフィスを置く価値はある。だが今のところ、その保障はまったくない。国際金融センターとしての香港の地位にも暗雲が垂れ込めている。香港を訪れる観光客も中国本土以外からは激減するだろう。このことを考えれば、香港にブティックやオフィスを置き続けることに価値があるのだろうか? 香港に拠点を置く企業は、移転するか否かの決断を迫られている。

 いずれにせよ2021年は、“アジアの時計王国”的な存在だった香港の地位は今後、下がることはあっても向上することはないだろう。政治的に「中国化」された今、経済的にも香港が完全に「中国の一部」になる可能性も一気に高まった。すでにスイス時計の輸出額は、中国本土が香港を超えてNo.1になっている。統計上、「中国」「香港」とマーケットを分ける必要はなくなりつつある。

 1月14日、香港では当局が反政府的とみなしたウェブサイトへの接続遮断が、当局からプロバイダーへの要請で始まったという。これは、ネット環境の自由もなくなったということだ。

 こうした香港の現状に、スイスを筆頭とする世界の時計業界のコングロマリットや他の時計ブランドは今後、どう対応するのだろうか? 香港はスイス時計産業にとって、ただの市場ではない。商品企画から生産体制にまで大きく関わる特別な場所だ。だが、その地位はこのままであり続けるのか?

 それは、今後の香港情勢と各ブランドの対応にかかっている。



渋谷ヤスヒト

渋谷ヤスヒト/しぶややすひと

モノ情報誌の編集者として1995年からジュネーブ&バーゼル取材を開始。編集者兼ライターとして駆け回り、その回数は気が付くと25回。スマートウォッチはもちろん、時計以外のあらゆるモノやコトも企画・取材・編集・執筆中。


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