ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信
前々回のこのコラムではポルシェの名を冠した2種類の時計をめぐる歴史と現在、その違いについてまとめたが、今回はひとりのスイス人ドライバーをきっかけに生まれた、タグ・ホイヤーとポルシェの長い関わりの始まりについて紹介したい。
https://www.webchronos.net/features/61310/
(2021年4月3日掲載記事)
タグ・ホイヤーとポルシェ、その長い関係の始まり
2021年2月4日、時計業界と自動車業界の最強タッグ、タグ・ホイヤーとポルシェの新たなパートナーシップの締結が発表され、スペシャルモデルが登場した。だが、このパートナーシップのはるか以前から、この両社には深い関わりがあった。そのきっかけになったのは、ひとりのスイス人ドライバーである。
そのドライバーの名はジョー・シフェール。これはフランス語読みで、英語読みだとジョー・シファートになる。筆者がこの名を知ったのは小学校低学年の時に読んだ雑誌『オートスポーツ』。そこでの表記は「シファート」だった。
“Seppi(セッピ)”や“クレージー・スイス”と呼ばれたジョー・シファートは、1960年代から活躍し、1968年にスイス人で初めてF1優勝を果たしたトップドライバーである。しかし、1971年にわずか35歳でレース中の事故で夭折している。当時から、なぜかその名をハッキリ覚えていることを考えると、その名を知ったのは事故死の記事を読んだから、なのかもしれない。
時計愛好家ならご存じだろうが、タグ・ホイヤーのモータースポーツとの関わりを築いたのは、創立者エドワード・ホイヤーの曾孫で1958年に4代目社長に就任した、現在はタグ・ホイヤーの名誉顧問を務めるジャック・ホイヤーだ。
ジャック・ホイヤーの自伝『THE TIMES OF MY LIFE Jack Heuer autobiography』には、その経緯が詳細に書かれている。
1968年7月、ジョー・シフェールは、ロブ・ウォーカーレーシングがエントリーしたロータス49Bに搭乗し、イギリスのシルバーストーン・サーキットで開催されたF1プリティッシュグランプリに出走。初のF1優勝を遂げた。ちなみにこれはF1史上、最後のプライベーター(スポンサーのないチーム)による優勝とされている(1969年からはチームスポンサーが認められた)。
この優勝からしばらく後、ジャック・ホイヤーは家族ぐるみの付き合いをしていた、スイス・ビール「カーディナル」の醸造所を経営する友人とゴルフ練習場に行き、そこで「ジョー・シフェールのスポンサーになるべきだ」と勧められたという。ジョー・シフェールはその友人の地元、フリブール(スイス西部の都市でカーディナルの産地)の酪農家の息子で、友人はスイス人として初のF1優勝を成し遂げた、地元出身の有望な若手レーサーの将来性に着目していたのだ。
ホイヤーとレーシングドライバーが結んだ初のスポンサー契約
感心するのはジャック・ホイヤーの素早い決断だ。数日後に、彼はジョー・シフェール本人に会い、その場で2年間のスポンサー契約を交わす。自伝によればその内容は、①レーシングスーツにホイヤーのロゴを付け、腕にタグ・ホイヤーのクロノグラフ、できれば「オータヴィア」を着けること。②レースに出走するマシンのフロント、あるいはサイドにホイヤーのステッカーを貼ること。③シフェールはホイヤーの製品を卸売価格で購入し、レース関係者に販売する権利を持つこと。④ホイヤーはスポンサーとして年2万5000スイスフランを支払うこと。この4つだった。
実はこれがホイヤーとレーシングドライバーの史上初のスポンサー契約だった。翌1969年には、ジョー・シフェールはホイヤー初のアンバサダーに就任。シフェールのセールス活動で、F1やスポーツカーレースで活躍するトップドライバーなど、レース関係者の多くがホイヤーのクロノグラフを着用するようになり、ホイヤーとモータースポーツの親密な関係がサーキットで築かれていったのだ。
さらにジャック・ホイヤーはフェラーリとのレース計時システムに関する契約をきっかけに、モータースポーツ界との関係をさらに深めていくことになる。
ジョー・シフェールは当時、F1以上にスポーツカーレースで活躍、それもポルシェワークスのトップドライバーとして活躍しており、この年、1968年にはポルシェのモンスターマシン「ポルシェ907」をドライブして、デイトナ24時間では2位(ただし優勝車もドライブして優勝ドライバーのひとりでもある)、セブリング12時間では見事に優勝を遂げている。そのうえ、スイスでポルシェのディーラーも経営していた。
ジャック・ホイヤーとポルシェの出合い
面白いのは、ジョー・シフェールがポルシェのディーラーとしてジャック・ホイヤーにこのスポンサー契約の場でポルシェ911を売り込み、購入させたことだ。シフェールはアルファロメオのカブリオレに乗ってやってきたジャック・ホイヤーに「あなたは私のスポンサーで、私はポルシェのディーラーなのだから、あなたもポルシェに乗るべきだ」と言い、その言葉に促されてジャック・ホイヤーはポルシェを社用車として導入。1975年に事故を起こすまで、ずっとこのクルマに乗っていたのだという。
ジョー・シフェールは、レース関係者にタグ・ホイヤーのファンを増やしただけではない。名優スティーブ・マックィーンが映画「栄光のル・マン」の劇中で「ホイヤー モナコ」着用のきっかけを作るという重要な役割を果たしている。
だが、残念なことにシフェールは1971年10月24日、イギリスのブランズハッチサーキットで開催されたF1によるノンタイトルレース「ロスマンズ・ワールドチャンピオンシップ・ビクトリーレース」でポールポジションからスタートしながらメカニカルトラブルでクラッシュ。火に包まれたBRMのマシンから脱出できずに命を落としてしまう。今からは信じられないことだが、当時のマシンやレースの安全性は驚くほど低く、レースでの死亡事故は珍しくなかった。そのため、多くのトップドライバーが犠牲になっている。アグレッシブなドライビングで知られたジョー・シフェールも、その犠牲者のひとりになってしまったのだ。
ジャック・ホイヤーはそのレース当日、このニュースをラジオで聞いて大きなショックを受け、レーシングドライバーとの契約の是非についてまで考えたという。
ジョー・シフェールはスポーツカーレースでは大活躍したが、F1レースでの優勝はわずか2回。レース好きでも、今やその名を知る人は少ない。
だが彼は「スイスの誇り」として今も地元で語り継がれている。冒頭の写真のように、国際高級時計サロンSIHHの会場であったジュネーブのパレクスポ・アリーナには、彼の胸像が設置され、シファート通りと名付けられている。
そして、ポルシェとタグ・ホイヤーのパートナーシップは間違いなく、ジョー・シフェールとジャック・ホイヤー、1968年のこのふたりの出会いから始まったのだ。
渋谷ヤスヒト/しぶややすひと
モノ情報誌の編集者として1995年からジュネーブ&バーゼル取材を開始。編集者兼ライターとして駆け回り、その回数は気が付くと25回。スマートウォッチはもちろん、時計以外のあらゆるモノやコトも企画・取材・編集・執筆中。
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