ロンジンが展開する「スピリット」コレクション。飛行士向けのディテールを備えたこの時計は、ロンジンと名高きパイロットたちの、1920年代から始まる長い歴史が結実したものである。かのチャールズ・リンドバーグや、美しき女性パイロットたちとともに進化を遂げてきた、ロンジンのパイロットウォッチのストーリーをひもといていこう。前後編にわたってお届けする。
Text by Ruediger Bucher
2021年8月31日掲載記事
ロンジンと記録を樹立したパイロットたち
凍てつく寒さ、耳をつんざくような騒音、鉛のような疲労感。大西洋上を飛行して約11時間、夜のとばりが下りようとしていた。着陸には、あと倍の距離を飛ばねばならない。チャールズ・リンドバーグは孤独だった。ロングアイランドのルーズベルト飛行場を飛び立った時、彼はすでに起床から23時間が経っていた。今、彼は目を開けているのに必死だ。寒さは彼の味方だ。コックピットは開いており、極寒の風が耳元で鳴り、絶え間なく機体を揺らしていた。分厚い手袋をはめているにもかかわらず、彼の手はほとんど感覚がなかったが、リンドバーグはなんとか耐え抜くことができるだろうと思った。ニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグがニューヨークからパリの間をノンストップで飛行した最初の人物に贈るという2万5000USドルの賞金のためだけでなく、生きる伝説となるために。リンドバーグがようやくパリに着いたのは現地時間の午後10時22分。熱狂した何万人もの観客が彼を迎え、彼の飛行機「スピリット・オブ・セントルイス」の周りを取り囲んだ。
離陸から着陸までに、このアメリカ人パイロットが要した時間は33時間と39分。リンドバーグの飛行時間は、国際航空連盟(FAI)の依頼を受け、スイスのジュラ地方、サンティミエに拠点を置く時計メーカーが記録したものだった。そのメーカーとは、飛行士の間ではすでに有名なブランドであったロンジンである。これにはロンジンの時計をニューヨークで販売していたウィットナー社の社長、ジョン・P・V・ハインミュラーに負うところが大きい。ハインミュラー自身も熱心なパイロットであり、多くのパイロットと個人的に親交があり、彼自身も1920年代に多くの飛行記録を樹立していた。ロンジンの本社を何度となく訪れたハインミュラーによって、当時のパイロットが機内で使用するクロノメーターや腕時計に求めていた特別な技術について、貴重な情報がロンジンに寄せられていたのである。
記録的なフライトや新記録の達成に向けて、ロンジンの時計を携行した最初のパイロットのひとりに、スイス人パイロットで写真家のヴァルター・ミッテルホルツァーがいた。ミッテルホルツァーは1924年から25年にかけた冬の4週間をかけてチューリッヒからテヘランまでフライトを行い、その機内にロンジンのクロノメーターを持ち込んだ。ミッテルホルツァーはその後も、1926年12月から1927年2月にかけて行われたチューリッヒからケープタウンへの飛行でも、再びロンジンの時計を愛用した。ロンジンの名声はスイス国内にとどまらず、世界各地に広がっていた。ロンジンは1919年からFAIの公式計時を担当し、第2次世界大戦が始まるまでに34回もの記録的なフライトを計時していたのだ。ロンジンは1915年、アルミニウムケースに納められたコックピット備え付け用のクロノメーターを作り上げた。1913年に初めて製造されたキャリバー13.33Zを搭載したクロノグラフをはじめとするロンジンの腕時計もまた、パイロットたちに人気があった。ラチェットホイール採用の手巻き式シングルプッシュクロノグラフで、30分までの経過時間を5分の1秒単位で計測できるという高精度が評価された。
ミッテルホルツァーのすぐあとにも、パイロットのパイオニアたちが記録樹立を目指して滑走路を走る時にロンジンのクロノメーターを携行していた。イタリア軍人のアントニオ・ロカテリは、1925年にイタリアのゲーディからアイスランドまで飛行した。その直後には、同胞のフランチェスコ・デ・ピネドが数カ月間にわたって水上飛行機で4大陸を訪ねる飛行を成し遂げている。リンドバーグの大西洋横断飛行から間もない1927年6月には、アメリカ人パイロットのクラレンス・ダンカン・チャンバーが、ニューヨークからドイツのアイスレーベンまでの直行便に世界で初めて乗客を乗せて飛行した。ロンジンの時計は1928年、オーストラリア人パイロット、チャールズ・キングスフォード・スミスが操縦するF.VIIb/3m「サザンクロス」でも時間を刻み、これによりスミスはアメリカ合衆国からオーストラリアまで太平洋を横断した最初のパイロットとなった。
女性パイロットのパイオニア
男性だけでなく多くの女性も冒険飛行へと挑んでいった。その中でも特に有名なのがアメリア・イアハートだ。イアハートは1928年に飛行機で大西洋を横断した最初の女性になったとき、すでにロンジンの時計を身に着けていた。その4年後には、カナダから北アイルランドまでの大西洋横断を15時間弱で単独無着陸飛行した初めての女性として、より重要な記録を打ち立てた。その時に彼女が身に着けていたのは、1928年と同じロンジンの時計だった。
エリノア・スミスもまた、航空史に名を残した女性である。15歳で単独飛行を経験した後、このアメリカ人パイロットは1年後には世界最年少でパイロット免許を取得した。彼女はその後もいくつかの記録を打ち立てた。例えば17歳の時には、13時間16分の単独飛行を行い、女性の世界新記録を樹立した。1930年には、女性はもちろん、男性も経験したことのない高度2万7418フィートまで飛行機を操縦した。このフライトでも彼女はロンジンの時計を使用した。着陸後、彼女はサンティミエのロンジンに感謝の手紙を書き、時計は常に完璧に機能していたと述べた。
女性パイロットによる記録樹立はこれだけではない。アメリカ人パイロット、ルース・ニコルズは1931年、に高度(8761m)、速度(339km/時)、長距離飛行(3182km)の世界記録を同時に達成した唯一の女性として有名になり、現在もその記録を保持している。この年以来、ニコルズは重要なフライトでは常にロンジンの時計を使用した。イギリス人パイロットのエイミー・ジョンソンも同様に、「ウィームス」を腕に着けて、1932年にイギリスからケープタウンまでわずか4日と6時間54分で飛行し、夫のジム・モリソンが持っていた同ルートの記録を10時間半も更新した。
秒設定のできる時計「ウィームス」
ロンジンの知名度を着実に高めたのは、アメリカの極地探検家リチャード・バードだ。バードは1926年、チーフパイロットのフロイド・ベネットとともにパイロットとして初めて北極点上空を飛行することに挑戦した。バードはこの偉業を達成することはできなかったが、1929年末には南極上空で同様の偉業を達成した。完璧主義者のバードは、南極大陸探検の際、クロノメーター取得のロンジンの時計をいくつも携行していた。その後バードはサンティミエに電報を送り、「ニューヨークのウィットナー社から提供されたロンジンの計器とクロノメーターウォッチは最高に役に立ってくれました」と伝えた。
バードが書いた時計の中には、コレクターの間で「ウィームス」として知られる時計があった。これは、アメリカ海軍将校のフィリップ・ヴァン・ホーン・ウィームスの名前にちなんだものである。彼はパイロットのための腕時計を設計し、それはパイロットが時計の秒針をかつてない速さで無線の時報と同期させることのできるものだった。ウィームスの発明以前には、パイロットは飛行用の手袋を着用したままリュウズを引き出して時刻を調整せねばならず、ウォッチの正確さは分単位が精いっぱいだった。しかし飛行機では、その速度にもよるが、たった4秒のずれで機体は航路を1.6km以上狂わせる可能性があり、これは致命的な結果を招くものだった。そこでウィームスは、60秒スケールを備えた回転するインナーディスクを設計した。パイロットが時報を聞いたとき、時計の精度を失わずに、また秒針を動かすことなく、2枚目のディスクの0を合わせることができるようにしたのである。このウィームス考案の「セコンドセッティング・ウォッチ」をロンジンは1929年より製造開始した。バードが南極探検を成功させ、この時計を賞賛したことで、世界の航空業界にロンジンの名は知られるところとなった。
(後編へ続く)
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