ジャガー・ルクルト「レベルソ」の名前の由来をひもとく

どんなものにも名前があり、名前にはどれも意味や名付けられた理由がある。では、有名なあの時計のあの名前には、どんな由来があるのだろうか? このコラムでは、時計にまつわる名前の秘密を探り、その逸話とともに紹介する。
今回は、ジャガー・ルクルトを象徴するアイコンである傑作時計「レベルソ」の名前の由来をひもとく。

福田 豊:取材・文 Text by Yutaka Fukuda
(2021年9月4日掲載記事)

ジャガー・ルクルト「レベルソ」

 2021年、ジャガー・ルクルトの「レベルソ」が誕生90周年を迎えた。「レベルソ」は、誰もが認める歴史的名作時計。ジャガー・ルクルトのいちばんの代表作だ。

「レベルソ」が歴史的名作と言われる最大の理由は、言うまでもなく、ケースの革新的な反転機構にある。誕生以来不変のケース縦横の黄金比も大きな特徴。それを基にした、やはり誕生以来変わらない、アールデコ様式のデザインも魅力だ。

 しかし、そんな時計好きなら誰もが知る「レベルソ」だが、実は、いろいろとわからないことが多い。

ジャガー・ルクルト レベルソ

レベルソ オリジナルモデル(1931)
1931年に誕生した「レベルソ」のオリジナルモデル。激しいポロ競技中に衝撃によって風防が破損することを防ぐため、ケース自体を裏返して風防を隠すことで保護するという画期的な着想を具現化した名作時計。初期のムーブメントにはタバン製のCal.064を採用。ステイブライト(STAYBRITE/ステンレススティールの一種)製のケースはジュネーブのA&Eウェンガー社製。手巻き。非防水。ジャガー・ルクルト所蔵。

「レベルソ」は、インド駐在のイギリス軍将校から「ポロ競技にも耐えられる時計が欲しい」という依頼を受けて誕生した、というのが定説とされる。この依頼を受けたのが、セザール・ド・トレーという人物だ。

セザール・ド・トレー

ケースを反転させ、裏返して風防を守るという「レベルソ」の独創的な機構を考案したセザール・ド・トレー。そのアイデアを形にするため、複雑なケースの設計をフランス人技師、ルネ・アルフレッド・ショヴォーに依頼し、ショヴォーが1931年3月4日に特許を申請した。

 ド・トレーはイギリスのデンタルケア産業で成功したスイス人実業家で、1920年代中頃からスイス時計の輸出・販売にも携わり始める。ジャガー社とルクルト社(ジャガー社とルクルト社が合併したのは1917年。社名がジャガー・ルクルトとなるのは1937年からだ)とは、両社が最初に自社名を刻んだ時計の販売を手掛けるなど早くから親密な関係を築き、ことに「デュオプラン」の世界的成功では大きな役割を果たした。

 そのド・トレーが1930年にインドに出張した際にポロ競技を観戦。試合後のパーティーで選手のひとりであったイギリス人将校から、試合中にガラス風防の割れてしまった時計を見せられ、競技中の衝撃に耐えられる時計を製作できないかと相談されたのが、そもそもの始まりとされる。また、ド・トレーがたまたま試合後に壊れた時計を見たのがきっかけ、という説もある。

(左)レベルソが誕生した1930年代のポロ競技の様子。イギリスの伝統競技であるポロは古い歴史を持ち、同国およびインドなど、かつてのイギリスの植民地で今なお高い人気を博す馬に乗って行われる団体競技。
(右)レベルソ初期の広告。レベルソを着用したまま、そのケースをキャリアプレート上でスライドさせ、裏返すプロセスが分かりやすく表現されている。

 ともあれ、ケースを裏側に回転させてガラス風防を守る、というのはド・トレーの考案のようだ。そのアイデアを基に、ケースの設計をフランス人技師のルネ・アルフレッド・ショヴォーに依頼。ムーブメントの開発をルクルト社のジャック・ダヴィド・ルクルトに依頼する。

ジャック・ダヴィド・ルクルト

レベルソ誕生当時、ルクルト社の取締役であったジャック・ダヴィド・ルクルト(1875~1948年)。創業者アントワーヌ・ルクルトの孫である彼は、さらなる躍進を期すため、パリの時計職人エドモンド・ジャガー率いるジャガー社と提携し、ジャガー社製のケースにルクルト社製のムーブメントを搭載して、ルクルト銘の時計を販売していた。ジャガー社とルクルト社は、1917年に合併し、1937年に社名が「ジャガー・ルクルト」に変更された。

 別の資料には、ド・トレーはヨーロッパに戻ると、まずジャガー社とルクルト社にアイデアを持ち込んだというのもある。まぁ、その方が理屈に適っているようにも思う。前記した「デュオプラン」は、ジャガー社がケースを、ルクルト社がムーブメントを、それぞれ製造した成功例であるからだ。ただし、いずれであっても、特殊なケースの設計は当初からショヴォーに託すことが決まっていたようだ。