高級時計は新型コロナウイルスより強し! 「心配」と「希望」で2021年の時計業界を振り返る

ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信

2021年は時計業界にとってどんな1年だったのか?
12月17日にスイス時計産業を代表するスイス時計協会FHが初めて開催したメディア向けセミナーの内容を紹介しつつ、筆者が考える2021年の時計業界を「心配」と「希望」に集約して語ってみる。

渋谷ヤスヒト:写真・文 Photographs & Text by Yasuhito Shibuya
(2022年1月5日掲載記事)

スイス時計協会FHの公式ウェブサイト「スイス時計協会FHとは」より。
http://www.fhs.jp/jpn/whoweare.html


スイス時計協会とは?

 いきなりで恐縮だが読者のみなさんはスイス時計協会、略称FHをご存じだろうか? FHとは「Federation de l'industrie horlogere Suisse」。フランス語の正式表記をそのまま訳せば「スイス時計産業連盟」になる。

 発足は1982年だが、そのルーツは何と19世紀、日本では明治の初めにまでさかのぼる。スイスの時計関連企業の90%以上、約500社が加盟する時計産業の業界団体で、スイスの対外輸出No.1の座を占める機械産業の一角を占めている。だから、スイス政府とも深い関係にある。

 現在はスイスに本部、そして香港と日本にブランチがあり、独自の情報発信によるスイス時計の輸入促進やスイスの時計産業全体のプロモーション、さらに偽造品対策に取り組んでいる。

FHが毎月発表するスイス時計の輸出データ。上は2021年11月分のデータである。なお、毎月のデータは英文で提供される。

 2021年12月17日にFH東京は、日本橋のマンダリンオリエンタルホテルで、筆者が知る限り初のメディア向けセミナーを開催した。出席したメディア関係者の中には、セミナーを開催したスイス時計協会FH東京センターの中野綾子所長の説明で、初めてFHがどんな組織かを知った人もいたのではないだろうか?

 さらにFHは毎月、政府の貿易統計を元にスイス時計の対外輸出額や価格別、種類別の輸出本数などのデータを発表している。スイスの時計ブランドは基本的に生産、出荷の金額や数を発表しないため、筆者のような人間にとって、このデータは「スイス=世界の時計産業」の動向を知る上で欠かせないものだ。

 

コロナ禍が味方した!? 2021年はスイス高級時計の販売が好調

 セミナーでは、FH東京センターでこの統計発表、分析を担当する前林京子氏からスイス時計業界の、次のような興味深い現状が報告された。

1、2020年はスイス時計の対外輸出が金額ではマイナス21.8%という大幅な落ち込みに見舞われたものの、2021年は一気に反転して好調で、出荷本数は減少しているのに、金額ベースではコロナ禍前で好調だった2019年のレベルにまで回復した。つまり、スイスの高級時計輸出が好調なこと。

2、2019年までスイス時計の対外輸出額が常にトップだった香港が凋落し、2021年10月時点の推計ではアメリカが首位に躍り出て、1位がアメリカ、2位が中国、3位が香港というランキングになったこと(ちなみに日本は2019年と同様の4位)。

3、日本国内でも、2021年10月に、スイスから日本への輸出額が史上最高だった2019年のレベルに回復したこと。しかも販売価格300万円クラスの高級時計が2019年と比較してプラス10.9%と大幅に伸びていること。

 つまり2021年、日本の時計マーケットでは、300万円を超える高級時計はコロナ禍以前よりも売れた。その背景には異次元の金融緩和から起きた2020年の株価等の急騰で資産が増加した人々の消費が、コロナ禍のため時計に向かったと推測される。すなわち、このコロナ禍は、2020年後半から2021年に入ってスイス高級時計にとってマイナス要因になるどころかプラス要因、むしろ味方したということだ。

 

時計市場でも「決定的な分断」が!?

 この状況が、コロナ禍による外出自粛やインバウンド需要の消失で苦しんだ時計ブランドや時計専門店にとって、福音なのは改めて言うまでもない。

 ただこの状況が好ましい「表」だとすれば、好ましくない「裏」の面もある。筆者はそう考えている。FH東京のデータでは、スイスでも日本でも、販売価格300万円以下の需要が大きく減少している。特に販売価格6万円から15万円前後の落ち込みが著しい。閑散とする家電量販店の時計売り場を歩くたびにそんな印象、懸念を筆者は個人的に抱いている。

 改めて振り返ってみるとコロナ禍は、金融緩和の恩恵を一方的に受けている富裕層と、2021年に入って進む物価高で可処分所得の減少が加速する普通の人々の「経済的な分断」を決定的にした。

 富裕層の消費が好調な一方で、日本全体での個人消費は一向に伸びる気配がない。むしろマイナス傾向にある。収入が伸びないのに物価高が起き、いわゆるスタグフレーションが起き始めていると指摘する学者もいる。その結果、時計どころではない、という人が増えているのではないだろうか? 高級時計を積極的に購入する人々がいる一方で、「時計には興味がない」という人が、残念だが実は増えているのではないか?

 この傾向はすでにクルマの世界では何年も前から起きている。販売価格が数千万円もするスポーツカーや高級セダン、SUVは絶好調であり、コロナ禍の移動需要の増加で自動車需要は堅調だが、実は見えないところで着実にクルマ離れが進んでいる。かつてクルマは若い男性ならぜひとも所有したい憧れのアイテムだった。だが今、クルマに特別な関心と情熱を持つ若者は少ない。ただの実用の足になりつつある。

 そしてこの「足」の役割は現在、軽自動車が担っている。だがEV(電気自動車)のインフラが10年先に日本国内でも整ったとすれば、軽自動車は中国のように低価格なEVにシフトして行くだろう。

中国・上汽通用五菱汽車が2020年7月に発売した最低価格2万8800元(1元=約17円換算で約48万9600円)の格安電気自動車(EV)「宏光MINI EV」(公式ウェブサイトより)。
https://www.sgmw.com.cn/E50.html

 しかも最近の高級時計人気の背景には、このコラムで何度も取り上げてきた「時計投機」ブームが間違いなくある。このままだと高級時計は高級スポーツカーのように、一般の人々にとって「別世界の贅沢品」になってしまうのではないか? 時計の投資価値には興味津々だが、時計自体には何の興味もない人々のものに。

 そんなことは起きるはずがない、という意見もあるだろう。だが都市部では自動車は、必要なときだけシェアして使えばいいもの。もはや所有する情熱の対象ではなくなっている。クルマすらそうなるのだから、時計がそうなっても不思議ではない。

 これが、筆者が抱いた2021年の時計業界の「心配」だ。

 何しろ2021年は、いくつものテレビ番組が「時計投機」を煽ったし、海外の時計オークションの結果は、そんな心配を抱かせる常軌を逸したレベルのものだったからである。

 

「希望」は「良心的な傑作時計」

 その一方でこんな、妄想と言われても仕方がない筆者の「心配」を笑い飛ばす大きな「希望」も2021年の時計業界にはあった。それは時計ブランド各社から続々と発売された、これまでなら考えられないプライスパフォーマンスを持つ、素晴らしいメカニズムと高い品質を実現しながら手頃な価格を実現した「良心的な傑作時計」だ。

 まさか、これほど「文句なくオススメ」したい新作時計が2021年、ここまで勢ぞろいするとは期待していなかった。

2021年の新作の中でも、プライスパフォーマンス最高モデルのひとつ「ティソ PRX オートマティック」。約80時間パワーリザーブを持つ最新機械式ムーブメントを搭載して8万2500円(税込み)は驚きだ。ティソの公式ウェブサイトより。
https://www.tissotwatches.com/ja-jp/news-japan-prx-automatic.html/

 個人的な思い込みだが、筆者は人間にとって時計は他のアイテムとは別格の「特別な魅力」がある、と考えている。時計には実用性を超えた魅力があると信じている。

 そして今年2021年の新作のほとんどが、実用性では語れない圧倒的な魅力を備えている。こうした時計が作られ続けられれば、その魅力をきちんと伝えることができれば「時計離れ」など、絶対に起きるはずがない。

 2022年は2021年に引き続き、それ以上にこんな「希望」そのものの新作時計が各社から続々と発表されるだろう。もちろん、その魅力をできる限り、ひとりでも多くの人にしっかり伝えていきたい。

 2021年、時に時計業界的過ぎる、ニッチ過ぎるこのコラムにお付き合いいただき、ありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。



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