ウォッチジャーナリスト渋谷ヤスヒトの役に立つ!? 時計業界雑談通信
先日、取材で訪れたある時計店の方から「ロシアのウクライナ侵略は時計業界にどんな影響があるのですか?」という質問を受けた。なぜか日本のメディアはこうした状況をまったく報道しない、というか興味がない。海外の専門メディアの報道と時計グループの公式発表を紹介し、今、ロシアやヨーロッパの時計業界で何が起きているのかを解説したい。
(2022年3月5日掲載記事)
ロシアで高級時計の売り上げが急上昇
「まさかそこまで愚かではないだろうと思っていた……」と長年ロシア政治や軍事を研究してきた学者やアナリストが最も驚愕したロシアのウクライナ侵略。
意外と思うかもしれないがその結果、まず起きたのが「ロシア国内での高級時計やハイジュエリーの売り上げ急上昇」だ。このコラムでも何度も紹介したイギリスの時計専門サイト「WATCHPRO」が、「売り上げが上昇傾向にある」という高級時計ブランドのCEOのコメントを紹介。さらにブルームバーグもニュースサイトで同様の取材記事を報じている。
戦争で多数の人命が失われているのに、売り上げが上がる。こうしたニュースは時計ブランドにとって、あまり報じられたくないニュースだ。でも間違いなく起きている。しかも実際には「上昇」などという大人しいものではないだろう。筆者は間違いなく「爆買い」が起きていると考えている。
ではなぜ「爆買い」が起きているのか。それはロシアの通貨であるルーブルの価値が大暴落したからだ。中でもルーブルの大暴落に直結したのが、ロシアとそのほとんどの銀行が、SWIFT(国際銀行間通信協会)による国際送金システムから排除され、同システムを介した送金が困難になったことである。その結果、ロシアの中央銀行によるルーブルの価値下落抑止のための為替市場への介入ができなくなった。ルーブルはダダ下がり、「紙クズ」状態に近づいている。
誰が「爆買い」しているのか?
いったい誰が、何のためにロシアで高級時計やハイジュエリーを「爆買い」しているのか?
それはロシアのエリートなど、こうしたモノを買う財産を持つ準富裕層、富裕層たちだ。暴落し価値がなくなるルーブルを、持ち運びやすく換金性の高い現物資産である高級時計やハイジュエリーに換え、自分の財産を守ろうとしているのだ。これは当然の行動だろう。
ただ、こうした動きをしている人の中にも、擁護し難い人たちもいる。オリガルヒと呼ばれる、旧ソビエト連邦崩壊後に急成長して一気に富裕層になった、政治的影響力を有する新興財閥たち。彼らの多くは、ソビエト連邦崩壊時に国有企業が民営化された際、混乱に乗じて国有企業を買収し、あまり褒められない方法でその利権を手に入れた人々だ。
プーチン大統領がロシアの権力を掌握して約22年。あの時、プーチンをエリツィンの後継者に押し上げたのは、他ならぬオリガルヒたちだ。彼らはプーチンの承認の下、豊富な資金力でビジネスを展開し、プーチンと持ちつ持たれつの関係にある。このことは欧米のメディアでは常識だし、日本でもこの関連の書籍がいくつも出版されている。
彼らはその莫大な資金力で、たとえばイギリス・プレミアリーグの名門サッカークラブを買収するなど、さまざまなビジネスを展開。時計業界でも彼らはこの30年あまり、豊富な資金力で時計業界を動かしてきた。
ところが、今回のウクライナ侵略に対する経済制裁の中で、プーチンを支えてきた彼らオリガルヒの海外でのビジネス活動にもメスが入りつつある。財務状況が調査され、凍結される動きが広まっている。
ブルームバーグは2022年3月4日、「オリガルヒ時代の終焉近づく、プーチン大統領のウクライナ誤算で」という見出しで、彼らが追い詰められていることを報じた。これはプーチン大統領が追い詰められているということでもある。この記事で、かつてロシアで活躍していたが、国外追放された外国人投資家は「(米国やEUなど西側諸国による)オリガルヒへの制裁後、彼(プーチン大統領)は核戦争の警告に踏み切った」と述べている。
資金力のある彼らは今、ロシア国内に限らず、また高級時計やハイジュエリーの購入に留まらず、あらゆる方法で自分たちの財産を守ろうとしているに違いない。
ロシア国内時計ビジネスも大混乱必至
ロシア国内の高級時計やハイジュエリー専門店はまだ営業していると伝えられている。だがスウォッチ グループはロシアへの製品出荷を停止したし、LVMHグループやエルメスもロシア国内のビジネスを一時閉鎖すると表明している。
ロシアは2020年、スイス時計にとってサウジアラビア、オーストラリアに次ぐ第17位の輸出先で、総輸出額は1億9140万スイスフラン(239億2500万円、1スイスフラン=125円換算)。
ロシアとウクライナの戦争がどうなるかにかかわらず、ルーブルの大暴落や経済制裁で、ロシア国内の高級時計ビジネスは壊滅的な打撃を受けることは免れない。何年間も混乱が続くことになる。これは時計ブランドにとって大きな痛手だ。
筆者のように旧ソビエト連邦の「鉄のカーテン」時代とその崩壊、崩壊後の混乱について多少なりとも知っていれば、どんなに情報統制をしても、70歳近くで健康にも大きな問題を抱える独裁的な指導者が率いる今の体制が、世界最大の国土を持ち、民族も複雑なこの国で、このまま長続きするとは思わない。それが収まるまで、ロシアにおける時計ビジネスは混乱が続くだろう。
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