2020年、本誌はグランドセイコーの試作機である「T0 コンスタントフォース・トゥールビヨン」を日本の時計産業が至った究極、と評した。それから1年半――。グランドセイコーの開発チームは、ムーブメントのほとんどを再設計し、さらに新しい外装を加えた完成形をリリースした。それが「Kodo コンスタントフォース・トゥールビヨン」だ。グランドセイコーならではの実用性と、視覚と聴覚を刺激するムーブメントの組み合わせは、いまだかつてない統一感をもって、見る者すべてを圧倒する。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2022年5月号掲載記事]
視覚と聴覚を刺激するCal.9ST1の秘密
2020年にコンセプトモデルとして発表され、世界の時計業界関係者の注目を集めたグランドセイコー「T0 コンスタントフォース・トゥールビヨン」。美観という視覚だけでなく、高精度トゥールビヨンの規則正しい刻音にコンスタントフォースの作動音を見事に同期させ、聴覚をも刺激してやまないこのT0を、さらに高い次元へと昇華させたのが、最新の複雑系ムーブメントCal.9ST1である。その秘密をキーパーツに注目して研究・解説する。
機械式時計で可能な限り高精度を出せないか? それに対するグランドセイコーの回答が2020年に発表されたコンセプトモデル「T0 コンスタントフォース・トゥールビヨン」(以下T0)だった。トゥールビヨンと同軸に、動力を一定にして供給するコンスタントフォースを重ねることで、このムーブメントは理論上も実際も、極めて優れた精度を誇った。加えて、このムーブメントには、コンスタントフォースの作動音を時計の刻音にシンクロさせるという、時計業界としてはかつてない試みが盛り込まれたのである。
T0はあくまでプロトタイプだったが、時計愛好家を魅了するには十分だった。グランドセイコーは20年9月にT0の市販化プロジェクトを開始。そのわずか1年半後に、T0の完成形とも言えるキャリバー9ST1を完成させた。
肉抜きしたムーブメントに、強いトルクを持つツインバレル、トゥールビヨンと同軸に置かれたコンスタントフォースという構造は、T0とまったく同じ。しかし、T0に続いて9ST1を完成させた川内谷卓磨は「結局、部品の90%以上を変更した」と語る。主な狙いは3つ。小型化、仕上げのさらなる洗練、そしてコンスタントフォースの改良である。
川内谷は語る。「グランドセイコーにとって、機構を見せるムーブメントは初だった。だから設計にもデザイナーが必要だった」。白羽の矢が立ったのは、デザイナーの石原悠である。「市販化に向けて設計を見直す際、石原が3次元の模型を持ってきた。ムーブメントの直径は36.3mm。検討の結果、ムーブメントサイズを小さくする必要があるという結論に至った」。石原との協業により、9ST1は小型化され、市販化への第一歩を踏み出した。その成果のひとつが文字盤側8時位置のパワーリザーブ表示だ。T0では外周に向いていたパワーリザーブ針を内側に向けることで、ムーブメントの小径化に成功。腕時計としての快適な装着感と視認性実現のため、こういった見直しを重ねた結果、9ST1は超複雑なムーブメントでは小ぶりな直径35㎜というサイズに収まった。
仕上げもさらに洗練された。T0の部品を仕上げたのは、技能者でもある川内谷である。しかし、新たに加わったセイコーウオッチの彫金師たちは、その仕上げをさらに進化させた。「今回は彫金師ふたりに手法を伝えて、9ST1の仕上げに携わってもらいました。彼らはやり方を洗練させて、たった2カ月で僕のレベルを超えました」(川内谷)。興味深いのは、9ST1には古典的な仕上げに加えて、新たな手法が盛り込まれたことだ。そのひとつが、地板と受けの側面に施された絹目仕上げである。普通はやすりで筋目を施すが、9ST1の絹目仕上げは、彫金に由来する類を見ないものだ。マイクログラインダーを用いて手作業で少しずつ筋目を付けるため、表情にはわずかに強弱と方向性が生まれる。加えて、部品のエッジに施す面取りの幅をわずかに太くすることで、スケルトン化したムーブメントのメリハリはいっそう際立った。
トゥールビヨンの外側を囲む秒インデックスにも、新しい仕上げが盛り込まれた。秒インデックスの内側に並んだクシ歯を見ると、エッジが鏡面に輝いているのが分かる。鏡面の幅はわずか100分の4mmしかない。そしてエッジとの差異を強調すべく、円錐状の斜面には手作業で筋目仕上げが施された。平板な部品ならともかく、内側がくぼんだ部品に筋目仕上げを施すのはかなり難しい。しかし、視覚に訴えかけるムーブメントを作るべく、開発チームは、あえて困難な仕上げに挑んだのである。
「9ST1は手作業を自慢するためのムーブメントではない」と語る川内谷。しかし、ムーブメント全面に施された仕上げは、老舗メーカーの高級時計に比肩する。
併せて開発チームは、唯一無二の個性であるコンスタントフォースの刻音にも手を加えた。テンプに安定したトルクを供給するコンスタントフォースは、1秒に1回作動するよう設計されている。理論上、作動のインターバルは常に正確な1秒を刻むが、実際にはわずかにずれる場合があったと川内谷は語る。理由は、部品のわずかな偏心だった。対して彼はコンスタントフォースの心臓部であるストップ車を改良し、軸に真鍮のブッシュを噛ませることで偏心を抑えた。また、トゥールビヨンの軸の工作精度を通常の倍の厳しさにして穴石とのクリアランスを詰め、トゥールビヨンとコンスタントフォースの偏心を数ミクロンのレベルに抑えたのである。その結果、コンスタントフォースの作動音は、完全に同期するようになった。
使えるサイズにまとまっただけでなく、視覚と聴覚に訴えかけるというT0の狙いをさらに高次元で実現した9ST1。それを証するのが上に並べられたそれぞれの部品である。
Cal.9ST1キーパーツ徹底解剖
グランドセイコーの開発陣は、際立った完成度を誇っていたT0を、さらに洗練させようと考えた。どうすれば、より視覚と聴覚に訴えかけられるムーブメントになるのだろうか? 結論は、ひとつひとつの部品を、さらに研ぎ澄ませることだった。変更された部品はなんと9割以上。ほぼすべてを見直すことで、Cal.9ST1は、日本製のムーブメントとしてはかつてない地平へと到達した。