時計経済観測所/ついにインフレへ。物価上昇見込みが高級時計の駆け込み需要生む?

2022.07.07

2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発して以降、円安の流れが止まらない。この円安に物価高が重なって、エネルギーや食料品など、身の回りのさまざまなものが値上がりはじめている。高級時計も例外ではなく、多くのブランドで価格改定が行われている。こうした状況下において、我々、時計関係者はどう振る舞えばよいのだろうか?気鋭の経済ジャーナリスト、磯山友幸氏がその影響を分析・考察する。

磯山友幸:取材・文 Text by Tomoyuki Isoyama
安堂ミキオ:イラスト Illustration by Mikio Ando
[クロノス日本版 2022年7月号掲載記事]


ついにインフレへ。物価上昇見込みが高級時計の駆け込み需要生む?

磯山友幸

 日本の消費者物価指数が4月に前年同月比で2.1%の上昇となった。日本銀行の黒田東彦総裁が2013年の就任以来、大規模金融緩和の「ターゲット」として掲げてきた「2%の物価上昇」が、図らずも実現したことになる。2%を超える上昇は、消費増税直後の一時的なものを除くと13年半ぶりのこと。

 だが、黒田総裁の顔色は冴えない。これで「デフレからの脱却」が終わり、景気好転につながるかというと、そうとは言えないからだ。足元で起きている物価上昇が、輸入物価の上昇によるもので、円安によってさらに拍車がかかっている。安倍晋三元首相が掲げた「経済好循環」、つまり、円安が企業収益の増加に結び付き、それが賃上げにつながって、消費を押し上げるという循環。その結果としての物価上昇ではないからだ。新型コロナウイルスの蔓延が低調となり、猛烈な好景気に沸いた結果、消費者物価が大幅に上昇している米国とはまったく状況が違うわけだ。

円安による輸入物価の高騰

 黒田総裁は「円安は日本経済にプラスだ」と言い続けてきたが、さすがにここへきて口を濁らせている。企業間取引の価格である「国内企業物価指数」は4月に前年同月比10.0%も上昇。1980年以来の2ケタの伸びになった。輸入原材料価格の上昇がまだ消費者物価に転嫁されていないことを示していて、今後もそう簡単には物価上昇、つまりインフレは収まりそうにない。

 さらに、日本銀行が大規模金融緩和の政策を維持するとしているため、金利引き上げに動いている米国との金利差が広がり、さらに円安が進む懸念が出ている。それぞれの国内物価などを勘案した「実質実効為替レート」で見ると、50年ぶりの円安水準に当たる。50年前は1ドル=300円を超えていたが、今の円はその当時並みに「弱い」というのだ。1ドル=130円といっても米国がインフレでドル自体の価値が落ちているため、日本人が気が付かないうちに、円は価値を失っているわけだ。輸入物価が急騰している背景には、海外でのドル建て価格の上昇もあるが、円安の影響も大きい。

 決して良いかたちではないものの、輸入に依存している品目に関してはデフレの時代が終わったということだろう。四半世紀にわたってデフレに慣れてきた日本人にとって、衝撃的な変化とも言える。何せ、同じものが半年後には値段が上がっている、ということが皆の共通認識になってきたのだ。「物価は下がるもの」という前提が一変し、「物価は上がり続ける」というマインドに急速に変わりつつあるのだ。

高級品市場の一時的なブームの可能性

 この物価見通しへの変化が、高級品市場に一時的なブームをもたらす可能性がある。買おうと思っていた高級時計の価格が上昇するのは確実となれば、値上がり前に買っておこうという動きが現れるのは間違いない。消費税率が5%から8%に上がった時の、猛烈な駆け込み需要を覚えている人も多いだろう。3%分の値上がりを避けるために一気に顧客が殺到、高級宝飾品売り場からめぼしい品物が消えた。今回の円安による価格上昇はおそらく3%%では済まないと多くの人たちが感じている。買えるうちに買っておこう、と思う人が増えるだろう。

 高級時計をポンと買えるような富裕層には、円の価値の崩落をひしひしと感じ始めている人も少なくない。今後、海外に出かける機会がさらに増えれば、米国などでの物価上昇を痛感することになる。円の弱さを実感するわけだ。

実物資産としての高級時計

 では、それにどう対抗して資産を保全するか。今や、ドル建て資産や、金などの実物資産への投資が大きな流れになっている。円のキャッシュを今のうちに価値が下がらないものに交換しておこうというわけだ。その対象に高級時計も入るだろう。国際的に流通するトップブランドの高級時計なら、中古品のリセールバリューも物価上昇と共に上がる。すでにそうした価格上昇は始まっている。資産価値に注目するブランド品専門誌の記事も増えている。

 もちろん、悪いインフレは消費者全体にとってはマイナスだ。だが、新型コロナ禍で消費が減っていた分、余裕のある人たちの貯蓄は増え、消費余力も増している。格差がますます広がる消費者の高級品志向を捉えられるかどうかが、時計業界の課題ということになるのだろう。


磯山友幸
経済ジャーナリスト/千葉商科大学教授。1962年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞社で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、『日経ビジネス』副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。政官財を幅広く取材している。著書に『国際会計基準戦争 完結編』『ブランド王国スイスの秘密』(いずれも日経BP社)など。
http://www.isoyamatomoyuki.com/



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