時計デザインの第一人者、ジェラルド・ジェンタ。名機ノーチラスやロイヤル オークを生み出した彼の時計人生を知り、ベストセラー商品を生み出す鍵に迫る。また彼の妻エベリンの言葉なども紹介しながら、約3400点に及ぶデッサンなど遺産の今後についても見ていきたい。
Text by Sky Sit
2022年8月15日掲載記事
創造性と現実的な目線を最大限に融合させたジェラルド・ジェンタ
ジェラルド・チャールズ・ジェンタは、20世紀を代表する時計デザイナーとして多くの人に認められている。長い生涯を通じて多作であったジェンタは、その妥協のない芸術性により、デザイナーとして国際的な名声を獲得した。
彼の最も有名な作品には、ユニバーサル・ジュネーブの「ポールルーター」(1954年)、オメガ「コンステレーション」(1962年)と「シーマスター・ポラリス」(1982年)、オーデマ ピゲのロイヤル オーク(1972年)、パテック フィリップの「ノーチラス」(1976年)、そしてIWCの「インヂュニア」(1976年)などがある。その他にもカルティエ、ヴァン クリーフ&アーペル、ハミルトン、セイコーなど数多くのブランドともコラボレーションしてきた。最近ではブルガリの「オクト」がカルト的な人気を集めているが、これはオリジナルのジェラルド・ジェンタのオクトに由来している(ブルガリはジェンタの会社を2000年に買収している)。
ジェンタは一夜にして成功を手にしたわけではなく、その始まりは地味なものだった。自身のブランドを立ち上げる20年ほど前から、彼は多くのブランドのために懸命に、そして無名で働いた。「ジェラルドはよく、たくさんのデザインを車に乗せて、ビエンヌやラ・ショー・ド・フォン、ル・ブラッシュに行き、そこに拠点を持つ会社に売り込んでいました」と、未亡人のエヴリン・ジェンタは振り返る。「彼はピアジェ、コルム、ヴァシュロン・コンスタンタンなどに売り込みましたが、その名前を主張することはありませんでした。だから、今日私たちが知らない彼のデザインもたくさんあるのです」。
創造するための自由の確保
エヴリンはこうも話した。「そのようにジェラルドはキャリアをスタートさせましたが、決して上司を持とうとはしませんでした」。つまり、常にフリーランスか契約ベースの仕事を行っていたのである。ロイヤル オークをデザインした時でさえ、オーデマ ピゲの社員ではなかったのだ。ジェンタは独立心と芸術的な自尊心によって、型にはまらないクリエイティブな才能を発揮したのである。
エヴリンはジェラルド・ジェンタのミッキーマウス・ウォッチが1984年にジュネーブの「Montres et Bijoux」(SIHH以前に開催されていた大規模展示会)において巻き起こした熱狂を忘れられない。この時点でジェンタという一匹狼は、「デザインの独立性と高級時計の常識と距離を置く」ことを享受していた。
ディズニーのキャラクターを冠した新しいコレクションは、騒動を巻き起こした。ロレックスやヴァシュロン・コンスタンタンらはそれを「スイス時計の恥辱」と呼び、主催者は展示の撤去を要求した。その結果、ジェンタは、展示会から脱退した。カルティエやエベルといった他のブランドもこれに続いた。この騒動は全国ネットのテレビや新聞の一面を飾った。「私は大きなショックを受けました」とエヴリンは言う。
ジェラルド・ジェンタがスイスの高級時計界という静かな池に投げ入れたレンガは、大きなものであった。初めて、標準的な価値観をひっくり返す者が出てきたのである。「アーティストの自由」というものに対して根本的な問いが投げかけられたのだ。エヴリンは話す。「何かを創造するためには自由でなければならず、そのためジェンタは誰かのために仕事をするということがなかったのです」。
ジェンタが作品の独自性を保つためには、自由さが必要であった。「ジェラルドは、他の時計、既成のもの、他の人がやったことを決して見ませんでした」。そのおかげで、彼はどんなブランドのコレクションでも、伝統の因習や自己満足の系譜を断ち切って、新しいデザインを生み出し、活性化させることができたのである。彼がデザイナーとしてインスピレーションを得ていたのは自然からであった。「いつも形が大事だった」。
ジェンタの一人娘であるアレクシア・ジェンタは、彼のディテールに対する鋭いセンスを思い出す。「私が小さかった頃、モナコのローズガーデンに連れて行ってもらったことがありました。ちょっとした散歩でしたが、父は立ち止まって色や形のすべてを観察するので何時間もかかりました。ハエを見ても、その目がどれほど素晴らしいかを語りました。私には理解の難しいことでしたが」。
成功の鍵のひとつは「アートを時計に適用させたこと」
ジェンタは、新しい形やフォルムと複雑な機構を組み合わせることで、常に創造と革新を続けていた。「今日、私が欠けていると思うのは、デザインにおけるクリエイティビティです。メカニックは並外れたものをはるかに超えていますが、デザインは……」とエヴリンは言葉をつまらせる。「ジェラルドは、時計製造を応用芸術だと考えていました。彼自身はアートを時計に適用していたのです。時計はアートと違い、身に着けられるものですが」。
エヴリン・ジェンタは結婚して間もない1983年に夫のビジネスに参画し、彼が時計作りに専念できるようにした。その裏でエヴリンは頭脳と原動力となり、財務、実務、国際市場開発を担当した。「夫とは30年にわたり仕事を共にしました。朝は一緒に目覚め、工場へも一緒に行きました。あらゆる点で私たちはパートナーでした。ジェラルドは何が大切で、何が大切ではないかを分かっていました」。
「ジェラルドがデザインした時計は、アート性を含むだけでなく、量産に耐えるものでした。それはジェラルドがあるべきサイズで、あるべき方法でデザインしたからです。つまり量産可能なものとしてデザインを行っていたからです」とエヴリンは補足する。
当時としてはやや珍しいこれらの視点は、時計製造のベンチャー企業を築いたことから導き出されたものであった。いわゆるクォーツショックの後、ジェンタはスイスにふたつの工場を持ち、約250人の従業員を雇用し、3つの事業を展開していた。ひとつはグラフ、ヴァン クリーフ&アーペル、カルティエなどのプライベートレーベルの仕事。そしてもうひとつは、自社で製造する時計のラインである。しかし、彼らが最も力を入れていたのは、プロトタイプの製造であった。
「ジェラルドが創造を止めたことは一度もありません。この工場は、プロトタイプを作る能力が驚くほど高かったんです。他社ではまずプロトタイプを1点製作し、コストを下げて再製作、そして何千もの量産に踏み切っていました。しかしジェラルドは次々に製作していきました」。実践が天才を生む。市場でのヒット商品を作り出す秘訣や直感を彼が備えていたのは偶然ではない。「だから、見たこともないような時計がたくさんあったんです」。
ジェンタは生涯にわたり、有名な時計メーカーをはじめ、自身のブランド、そして高名な個人顧客のために10万個以上の時計をデザインした。彼が残した3400点ものデッサンとプロトタイプは細心の注意を払って資料化され、アーカイブに納められている。その中には「とても象徴的なもの」もあるとエヴリンは言う。「ジェラルドは新しくベストセラーとなるものを念頭においてデザインしていました。将来のノーチラスやロイヤル オークとなりうるだろうものが、50点はあると私に話していました」。
ジェラルド・ジェンタの遺産
このような宝の山の管理者として、エヴリンはジェラルド・ジェンタの遺産を守る義務を果たしている。彼女はジェラルド・ジェンタ ヘリテージ アソシエーションを設立し、「歴史上最も偉大な時計デザイナーのひとりに敬意を表し」、そして「有望な若い才能を鼓舞・称賛する」ための活動を続けている。現在、駐英のモナコ大使を務める外交官でもあるエヴリンは、「秀でた時計関係者や業界のエキスパート」を役員として集め、このアソシエーションの重要な決定のサポートとしている。
ロイヤル オーク オフショアの25周年記念から、50年前のジェラルド・ジェンタの会社設立記念に至るまで、「父の周りにはたくさんの報道関係者が見受けられました」とアレクシア・ジェンタは語る。「そこには若く、事情に通じた詳しい人たちによるコミュニティが形成されていました。その多くは35歳以下のミレニアル世代です。また私たちのインスタグラムのフォロワーの約70%が25歳から45歳となっています」。ジェンタのキャリアに対する興味は、このような広がりを見せているのだ。「何かを行うための機運のようなものを感じます」と彼女は続けている。
エヴリン・ジェンタは、時計デザイナーを財務的に支援する賞の創設を予定していることを教えてくれた。また同時に、「(夫の)新作を世に送り出す」計画があることも明らかにしている。 アーカイブから110点のデザイン、プロトタイプ、特別な時計を用意した展示会も企画されている。
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