1920年代、世界の時計産業の成長は目覚ましいものであった。当時、世界の腕時計の2本に1本はスイスの工場から出荷されたものであったが、腕時計の登場と、スイス国外での新たな競争相手の出現というふたつの現象が、時計産業を大きく変貌させようとしていた。大阪大学経済学部 経済学専攻 教授のピエール=イヴ・ドンゼ氏が、当時の主な構造変化を紹介する。
Text by Pierre-Yves Donzé, Professor at the University of Osaka
2022年8月12日掲載記事
「狂騒の20年代」からたどるスイス時計産業の変遷
1927年、世界の時計産業は力強い成長の真っ只中にあった。第1次世界大戦後、短期間ではあったが激しい転換期を迎えた世界経済は「狂騒の20年代」と呼ばれる高度成長期に突入し、やがてウォール街の大暴落と世界恐慌によってその幕を閉じることになる。
アメリカ、ドイツ、日本にも大きな時計メーカーが出現したが、スイスは世界市場の支配的立場を維持していた。世界の時計生産のほぼ2分の1がスイスの工場から出荷されていたのである。スイス時計業界は絶頂期を迎えていた。その年、スイスは(ムーブメント単体を含み)1850万本の時計を輸出した。スイス時計産業はダイナミックな成長と1910年代のような絶頂期の再来、そして継続した拡大を確信していた。
しかし成長は安定との同意語ではなかった。1920年代半ば、腕時計の登場とスイス国外での新たな競争相手の出現というふたつの現象が、世界の時計産業の競争環境を根幹から塗り替えた。
マーケティングの革新 - 腕時計
1927年、製品と市場において大きな変化があった。懐中時計から腕時計への移行である。腕時計はスイス時計の輸出量の40%を占めていた。まだ少数派ではあったが、世紀の変わり目に始まった転換は避けられないものであり、後戻りはできなかった。
誰が腕時計を発明したかという難問を議論するよりも、内戦時代に起こった重要なパラダイムシフトを見るべきだろう。1920年から1940年の間に、スイスの時計輸出のうち、腕時計の割合は25%から85%に上昇した。
この変化は単なる技術的、産業的なものではなく、主にマーケティングに関わっていた。時計メーカーは、レディースウォッチと日常使いできる実用品としての手頃な価格の時計という新しい市場を作り出した。レディースウォッチについては、時計がファッションにおいてアクセサリーとなったのである。単に時刻を告げるものから、手首を飾るものへとなったのだ。
日常使いの時計もまた、スイスの金属製品輸出の数字が示すように、ますます人気が高まった。1927年までは、貴金属(プラチナ、金、銀)製の腕時計が、鉄やニッケル製の腕時計と同程度のシェアを占めていた。しかしそれ以降、貴金属製の腕時計の数量は激減し(1935年には5%以下)、鉄やニッケル製の腕時計の数量が飛躍的に伸びた。この後者には、シンプルで安価な機械式時計であるロスコフの時計が大きな割合を占めていた。このように、腕時計への移行は消費の民主化に伴っていたのである。
このような製品の性質の変化は、時計メーカーにとって大きな挑戦を課した。スイスではサプライヤーが柔軟に対応し、新しいタイプのムーブメントやケースを迅速に市場に投入することができたため、時計メーカーは比較的容易に適応することができた。一方、当時国内市場を事実上独占していたアメリカの大手メーカーは、この需要の変化を捉えるのに遅れを取っていた。アメリカの主要メーカーであるウォルサムは、長年懐中時計に注力し続け、この適応力の欠如が1949年の破産申請の一因となった。
民主化への反応
だが腕時計の大量消費は、決して一般的な現象ではなかった。一部のメーカーはこの一般的な流れから一歩抜け出し、高級ブランドとしての地位を高めようとしたのである。ジュネーブのパテック フィリップやヴァシュロン・コンスタンタンは、大量生産されたもので自らの商品を標準化することを拒んだ。彼らは技術的に優れたニッチなプロダクトを追求し、1926年にパテック フィリップの取締役のひとりであったフランソワ-アントワーヌ・コンティが述べたように、「ラ・ショー・ド・フォンのジャンクウォッチ」と差別化しようとした。しかしこれらのメーカーは家族経営の小さな会社であり、時計産業においてますますニッチな存在になりつつあった。
高級時計製造における主な革新は、1920年にハンス・ウイルスドルフがジュネーブに設立したロレックスからもたらされた。1920年代、ロレックスはビエンヌのエーグル・ムーブメント工場と共同で、高品質な腕時計の工業生産を行った。1926年、ロレックスは密閉式時計ケースの特許を申請し、これが「オイスター」として知られるようになった。
これをもとに、ヴイルスドルフはさまざまな活動を開始した。まず、広告出稿の増加である。1927年11月24日、ロレックスはイギリスを代表する保守的な日刊紙『デイリーメール』に全面広告を掲載し、オイスターモデルを「風雨に耐える不思議な時計」と紹介したのである。
それに加え、エーグル・ムーブメント工場は高精度ムーブメントの工業生産を保証するため工程の改善に取り組んだ。それはビエンヌの時計製造局(Bureau de Contrôle des Montres)に記録されており、操作報告書を伴う時計の割合は、1926年から1927年にかけてわずか10.8%だったものが、1932年から1937年には平均63.1%まで上昇したのである。そしてついに1927年、ビエンヌの工場はビエンヌ市内で最も優秀な独立調整師のひとり、ジャン・マティルを雇用し、自社内で時刻測定部門を運営するようになった。
新たな競合者の出現
時計製造の工業化は、スイスに限った話ではない。当時、イギリスは時計産業が衰退し、フランスも苦境に立たされていたが、アメリカ、ドイツ、日本が時計産業を大きく発展させていた。大規模な会社設立と、時計部品や工作機械などスイスから輸入した技術の活用が、この産業の成長の2本柱であった。例えばドイツでは、1927年から1928年にかけてユンハンスと他の2社の融合が、世界で最も大きなクロックの工場と主要な時計メーカーを生み出している。日本では、セイコーウオッチの前身である服部時計店が、1923年の関東大震災で旧社屋が倒壊した後に、近代的な工場を建設し、1927年の時点で約2000名の従業員を擁していた。
スイスの技術力への依存は、時計輸出の構造にもはっきりと表れている。スイスの輸出量におけるムーブメントの割合は1890年の5.4%から1927年には30.1%へと上昇した。当時、時計3個のうち1個がムーブメントとして販売されていたことになる。最終組み立ては海外の工房で行われ、これがスイスブランドの競合となるブローバやシチズンといった会社の誕生につながっている。
1875年に米国ニューヨークに進出した宝石商ジョセフ・ブローバは、1911年から時計の確保を目的にビエンヌに支店を設立した。この支店は内戦時代に製造を開始し、1924年から1929年にかけてスイスで時計のケースや文字盤に関する特許をいくつか取得している。これはノウハウの内部化が進み、それが次第にアメリカ領土に還元されるようになったことを如実に示している。1930年、ブローバはアメリカにエボーシュの工場を開設し、アメリカ最大の時計メーカーとしての地位を確立した。ブローバを手本に、他のアメリカ人起業家たちも同様の試みに倣おうとしたが、このビジネスモデルの跡を追うほどには成功しなかった。例えばシンシナティ出身のグリュン兄弟は、ビエンヌのエーグル・ムーブメント工場へ資本参加し、役員となったが、この提携も大恐慌のあおりを受けて失敗に終わった。
スイスからの技術移転の恩恵を受けた2番目の大企業は、日本のシチズン時計である。1894年から横浜に居を構えていたヌーシャテル出身の時計商ロドルフ・シュミッドは1908年に小さな時計組立工場を開き、ケースなどの部品生産をそこで行うようになった。1927年には200人近い従業員を抱え、セイコーに次ぐ日本第2位の時計メーカーとなった。その3年後、日本の時計商が所有する小さな工房を買収し、シチズン時計が誕生した。
スイス時計産業の講じた策
スイスの時計産業は、技術移転や他国での競争相手の出現を前にして、受身でいるわけにはいかなかった。1927年、部品メーカーが集まってUBAH(Union des branches annexes de l'horlogerie)を結成した。翌年には、時計メーカーやムーブメントメーカーと協定を結び、特に部品の輸出を禁止し、スイス国内にノウハウを残すことを目指した。これが、1960年代初頭までスイス時計産業を管理していた企業連合「Statut horloger」の始まりである。
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