長らく、スプリングドライブだけだったグランドセイコーのクロノグラフ。そこに加わったのが、機械式自動巻きクロノグラフの「テンタグラフ」である。ただ機械式にするのではなく、グランドセイコーらしさを追い求めて生まれた本作は、挑戦し続けるグランドセイコーの革新性をいっそう体現したモデルとなった。
精度、堅牢さ、高い視認性を追求したハイビートの機械式クロノグラフ。エボリューション9のデザインを受け継ぎ、優れた視認性を実現した。また全長を51.5mmに抑えたため、腕上で大きさを感じさせない。自動巻き(Cal.9SC5)。60石。3万6000振動/時。パワーリザーブ約72時間(クロノグラフ作動時)。ブライトチタンケース(直径43.2mm、厚さ15.3mm)。10気圧防水。181万5000円(税込み)。6月上旬発売予定。グランドセイコーブティック、グランドセイコーサロンのみでの取り扱い。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Yukiya Suzuki (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2023年5月号掲載記事]
文字盤側モジュール採用の必然
グランドセイコーに初めて加わった機械式クロノグラフが「テンタグラフ」だ。名前の由来は、「テンビート」「スリーデイズ」「オートマティック」「クロノグラフ」から。すでにグランドセイコーはスプリングドライブを搭載したクロノグラフを持っているが、今回はテンプを持つ機械式ムーブメントで「らしさ」を追求することとなった。
傑作自動巻きのCal.9SA5の文字盤側にクロノグラフモジュールを重ねた自動巻きクロノグラフムーブメント。堅牢さと整備性を重視したため、モジュール型としては例外的に、クロノグラフ部の厚みは約3mmとなった。また、モジュール部は4本のネジで、ベースに強固に固定される。クロノグラフ作動時の精度を落としにくい垂直クラッチや、操作時のブレが起きにくい三叉ハンマーなどが採用された。
企画担当の江頭康平氏は次のように語る。「毎秒10振動のクロノグラフを作るアイデアは10年以上前からありました。2009年発表のキャリバー9S85は毎秒10振動を実現していましたが、厚くて、パワーリザーブも約55時間でした。これをベースにするのは難しい。対して20年のキャリバー9SA5は薄くて、パワーリザーブも長い。毎秒10振動の機械式クロノグラフを作るなら、これをベースにしようと考えました」。
彼の言葉通り、テンタグラフと名付けられたキャリバー9SC5とは、9SA5の文字盤側にクロノグラフ機構を加えた、モジュール型のクロノグラフである。あえてモジュール型を採用したのには理由がある。
「一体型のクロノグラフも検討しましたが、構造が複雑になりがちなのです。対してクロノグラフ機構をベースムーブメントから離すと、両者の問題を切り分けられますし、クロノグラフ機構の負荷も減らすことができるのです」(江頭氏)。つまりクロノグラフ機構を作り込み、それを傑作9SA5に重ねることで、優れたクロノグラフを作ろうと考えたわけだ。しかも、整備性も優れている。
精度と堅牢さを求めた結果、モジュール型クロノグラフとなったテンタグラフ。その優れたパッケージは、必然性がもたらしたものだったのである。
精度を究めた先の挑戦と革新
あえて文字盤側にクロノグラフ機構を載せたテンタグラフ。理由のひとつは、Cal.9SA5という傑出したムーブメントの特徴を生かすため。加えて、グランドセイコーの開発陣は、文字盤側クロノグラフというメリットを生かして、グランドセイコーの理想をさらに追求しようと考えた。それが高い精度、堅牢さ、そして優れた整備性だ。
Cal.9SC5のベースが、2020年発表のCal.9SA5だ。3万6000振動/時という高い振動数と、約80時間というロングパワーリザーブを両立した稀有な自動巻きムーブメントである。デュアルインパルス脱進機、グランドセイコーフリースプラングといった機構を盛り込むだけでなく、部品を水平に配置することで、薄さと堅牢さを両立している。また、簡単に取り外せる自動巻き機構など、整備性にも優れる。
テンタグラフの特徴が、文字盤側にクロノグラフ機構を重ねるモジュール型のクロノグラフだ。これはベーシックなクォーツや自動巻きムーブメントなどを簡単にクロノグラフ化する手法だったが、時計関係者はやがてそのメリットを知るようになる。ベースムーブメントの性能が落ちにくいだけでなく、文字盤全面にクロノグラフ機構を割けるため、部品を無理なく配置できたのである。
一体型のクロノグラフの多くは、裏蓋側にクロノグラフ機構を搭載している。しかし、テンプと自動巻き機構があるため、ムーブメント全面をクロノグラフ機構で埋めることができない。クロノグラフを設計する際は、テンプの上に絶対部品を重ねないこと、とされる理由だ。そこで近年は、余裕のあるレイアウトを実現するため、文字盤側にクロノグラフ機構を載せたクロノグラフムーブメントが増えてきた。こういったものの多くが、スペースを必要とするフライバックなどを無理なく載せられた理由である。
テンタグラフと名付けられたCal.9SC5もこうした「文字盤側クロノグラフ」のひとつである。しかし、ベースが傑作キャリバー9SA5であること、そして付加機構ではなく、高い精度や頑強さ、優れた整備性に振ったのがグランドセイコーならではだ。
設計担当の伊東賢吾氏は語る。「フライバック化などは検討しませんでした。重要なのは堅牢さです」。それを象徴するのが、極端に太い作動レバーだ。ふたつのプッシュボタンの動きをコラムホイールやリセットハンマーに伝える作動レバーは、操作感を左右する重要な部品である。スペースに余裕がないため、普通は細くなってしまうが、9SC5のそれは極端に太く、レバー自体も分厚い。強い力で作動させてもたわまないためだ。また、レバーと接触する地板には抵抗を減らすために人工ルビーが埋められた。
クロノグラフのオン/オフを司る心臓部には、高級機ではおなじみのコラムホイールが採用された。垂直クラッチと作動レバーの近くにコラムホイールを置くのは1969年のCal.6139以降、セイコーが好む手法だ。リーチが短く、確実に作動できるため、今や世界中に普及したレイアウトである。加えて、スペースに余裕のあるCal.9SC5では、レバーの軸に強固なピンを立てて、操作時のブレを抑えている。
クロノグラフ秒針と30分および12時間積算計を同時にリセットする三叉ハンマーも9SC5の個性だ。十字型のハンマーは3つの先端が斜めにカットされており、それがクロノグラフ秒針と30分および12時間積算計のハートカムに当たって、これらをリセットする。似たような部品は他社にもあるが、スペースに余裕のある9SC5は、ハンマーに直線的な造形を与えることができた。その結果、一体型のリセットハンマーにありがちなブレが起きにくい。加えて、作動時の歪みを抑えるため、三叉ハンマーをガイドするピンも太くされた。これもスペースに余裕があればこその贅沢な設計だ。
クロノグラフ秒針、30分積算計、そして12時間積算計の3つを同時にリセットできるのが、セイコー独自の三叉ハンマーだ。斜めにカットした先端がそれぞれの軸にあるハートカムに当たって、針をゼロ位置に戻す。1枚のハンマーですべてをリセットするというアイデアは1980年代にはあった。Cal.9SC5では、余裕のあるレイアウトを生かして、曲げのない直線的なハンマーで、より確実なリセットを可能にした。
さらに、メインの垂直クラッチだけでなく、30分および12時間積算計にもクラッチが内蔵されており、クロノグラフを使わない際の動力のロスを最小限に抑えている。モジュール型のクロノグラフで、すべての積算計にクラッチを持つものは少数である。少なくとも、クロノグラフ部にきちんとしたクラッチを持つことが高級機の絶対条件と考えれば、9SC5は紛れもなくそのひとつと言える。
一般的に、文字盤側にクロノグラフを重ねるモジュール型では、上下に作動して動力をつなぐ垂直クラッチは好まれない。厚みが増すためだ。簡易的な垂直クラッチを載せた例はあるが、長期的な信頼性にはやや疑問が残る。薄さよりも頑強さを重視したCal.9SC5では、ふたつのアームでクラッチを持ち上げる本格的な垂直クラッチを採用。また、アームの軸を太くすることでアームのブレを抑えている。本格的な垂直クラッチの採用により、クロノグラフの作動時でもテンプの振り角低下を極力なくしている。普通はムーブメントの中心に配置するが、厚みを減らすため、あえて中心から少しずらした位置に置かれている。
セイコーのお家芸である垂直クラッチも、やはり余裕あるスペースの恩恵を受けたものだ。既存のモジュール型クロノグラフの多くは、厚みを減らすため、部品点数が少ない簡易的な垂直クラッチを備えている。対して9SC5では、ふたつのアームでオン/オフを司る「本格的」な垂直クラッチを採用。クロノグラフの作動時でもテンプの振り角低下を極力なくしていることから、現行クロノグラフでは最も優れたもののひとつだろう。
他にない設計で、高精度、堅牢さ、そして高い整備性を満たしたテンタグラフ。これがグランドセイコーの革新なのだ。
躍動するスポーティーGSのデザインコード
角張ったグランドセイコーの造形を継承しつつも、薄さや装着感を重視したエボリューション9のデザイン。グランドセイコーとして視認性を高めた「エボリューション9 コレクション」のスポーツウォッチの在り方は、新しいテンタグラフでより推し進められた。動いていても瞬時に判読でき、容易に操作できるクロノグラフ。それを実現したのは、ディテールの徹底した見直しであった。
テンタグラフを企画した江頭康平氏は語る。「すでにあるスプリングドライブのクロノグラフには堅牢さと信頼性があります。加えてテンタグラフでは、直感的な操作を瞬時にできるようなデザインを心掛けました。動きながら使えるクロノグラフということですね」。
その表れのひとつが、3時位置にあるスモールセコンドだ。デザインを担当した吉田顕氏はこう語る。「グランドセイコーである以上、時分秒の視認性は大事ですから、60秒を示すサブダイアルも、必要ではない数字はあえて減らして60の表示のみとしました」。4時半位置からのぞくカレンダー表示にもモディファイが加えられた。
「今まではカレンダー表示が黒、白、銀のみでしたが、今回はブルーを採用しました。ダイアルになじませたかったためです。また視認性を高めるために下地のパターンを弱くしています」
文字盤と風防の間にある見返しも今回は狭くされた。その高さはなんと1mm。理由は文字盤、針、風防のクリアランスを詰めるためだ。風防の内側をドーム状に成形することで実現した。「今回のテンタグラフでは、1枚ではなく2枚の板を重ねて文字盤としています。その厚さは1mm強。針と文字盤の隙間を詰めて、視認性を高めることができました」。
吉田氏によると文字盤と分針上面の高さは1mm強というから、クロノグラフとしてはかなり狭い。また、針の先端を曲げて視認性を高めたほか、針の長さも微調整された。「クロノグラフ秒針は最外周のクロノグラフ秒針目盛りに、分針は分目盛りを兼ねた内側の目盛りに合わせて長さを調整しています」。理由は視認性を高めるため。立体的なボックスサファイアクリスタル風防にもかかわらず、斜めから見ても針は明確に読み取ることができる。
また新しいテンタグラフでは、既存のスプリングドライブ搭載機やエボリューション9のデザインが融合された。大きなインデックスや低い重心、ケースに比して幅広いブレスレットなどは、エボリューション9に共通するもの。ケースの薄さを前提として生まれたエボリューション9のデザインを、吉田氏は厚さ15.3mmのテンタグラフにまとめてみせた。
「エボリューション9のデザインコードはテンタグラフでも継承しています。ベゼルの上面をフラットにしているのもエボリューション9ならではです。また、張りのある面でケースを構成することで光の反射量を意図的に増やし、威風堂々とした風格あるデザインを目指しました」
盛り上がったボックスサファイアクリスタルを使うことで、時計の重心は低くなり、ケースも薄くなった。加えて、ブライトチタンの採用により、腕なじみはかなり軽快だ。
クロノグラフの感触も、スプリングドライブモデルに共通する。「プッシュボタンの感触は1964年の国際的な競技大会向けに作られたストップウォッチから継承したものであり、スプリングドライブと同じです。あえて溜めを設けて、半押しでスタートするようになっています」(江頭氏)。かっちりした操作感や押し心地は、機能性を重視したグランドセイコーのクロノグラフならではだ。
「テンタグラフとは、精度を追求するグランドセイコーの挑戦です。独創的なスプリングドライブのクロノグラフは、今後も続くでしょう。しかし、グランドセイコーの歴史を考えると、メカとしてきちんとしたクロノグラフを出したかった」(江頭氏)。
世に新しい試みを盛り込んだ新作は少なくない。しかし、野心的な要素をひとつのパッケージにまとめ上げてみせたテンタグラフとは、今のグランドセイコーにしか作り得ない、成熟したクロノグラフなのである。
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