クロノセオリー東京の時計師である飯塚雄太郎氏が、実際の作業を通じて時計修理・メンテナンスの重要性を伝える。今回取り上げるのは、ストップウォッチのメンテナンス。1950年頃のミネルバ「ラリータイマー」を、不具合の原因と修理ポイントを解説しながらよみがえらせる。なかなかストップウォッチ機構の内部メカニズムを、じっくり見る機会は多くないだろう。メンテナンス後に時計師が見た景色を、ぜひ一緒に味わってほしい。
2023年7月31日掲載記事
ストップウォッチの修理・メンテナンス事情
今回はクロノグラフを搭載したストップウォッチを預かったので紹介したい。油以外は状態が良い方ではあったが、ミネルバ「ラリータイマー」を通して、メンテナンスの中でも針を抜くシーンについて書いていく。
クロノグラフの場合は、時刻表示機構にクロノグラフ機構がリンクしているか否かでクロノグラフ秒針の運動開始、停止、を決めている。つまりテンプは常に動いている状態で秒針の動きの制御(稼働と停止)をしなければならない。ここがクロノグラフを成立させる難しさのひとつである。
対して、ストップウォッチの場合は非常にシンプルで、テンプの運動とその停止が直接秒針の制御につながる。当然パーツ点数も少なく、パーツ自体が分厚く丈夫である。ラリータイマーはさらにメンテナンスに配慮したある工夫がされていた。
大きな特徴
ミネルバのラリータイマーは1950年頃のストップウォッチで、この時計の特徴は、存在感のあるコイルスプリングにある。プッシュボタンを押したときの音は独特で、プッシュした時の振動がバネに伝わり、バネの振動音もわずかに聞こえるような機械感のあるムーブメントだ。下の写真でもその迫力は伝わるだろう。
機構としてはシンプルであるが、ひとつひとつのパーツが厚く、安心感のある設計だと思う。
メンテナンスにおいて情報取集は大事な要素だ。そして現代では、ネットでかなりの情報を集めることができる。ケース構造と分解方法の確認に使ったり、ムーブメントの注油情報を探したりもする。今回は歴史のある時計なので当時のカタログを探してみた。
発見した当時のカタログによると、「ミネルバの新しい特許技術である『コイルスプリング』構造は、20年にわたる技術研究の成果であり、壊れることはありません。この機構は、卓越した安全性と耐久性を保証しています。私たちの工場では、100万回作動したタイマーのテストが常に行われていますが、その結果、摩耗の兆候は見られません(筆者談)」とある。なんとテスト回数は驚異の100万回である。
一般には、バネには「板バネ」と呼ばれる、板の形状でバネの強さが決まるパーツが用いられる。この場合はバネの細さの調整が非常にシビアである。
簡単な例をあげると、細さを0.15mmから0.3mmに太くしただけでもバネの強さは元の8倍にまで上がる。この寸法範囲で適切な強さを見出す作業が必要になるので、調整の難易度は想像にたやすいと思う。
ミネルバのカタログによれば、板バネの場合、機能的な摩擦が発生し、摩耗を含む破損のリスクを常にはらんでいるが、対してコイルスプリングであれば調整も修理も必要ない、壊れることもないと明記してある。
コイルスプリングを用いることでメンテナンス難易度が下がるため、スポーツ界などで求められる「heavy duty(ヘビーデューティー)」な要求(使い方)に応えられる、と書いてあった。ヘビーデューティー!
針を抜く作業に慣れることはない
ネットの情報によればラリータイマーのムーブメントには特殊な機構を載せたり、エキセントリックなことをしたりということはされてないようだ。
早速分解作業に取り掛かる。
“ヘビーデューティー”な要求に応えるためか、ストップウォッチに使用される針は非常に強力に取り付けられていた。ただでさえ時計作業で最も神経を使う、そして緊張する場面のひとつである。無理をすると文字盤にダメージが加わるし、エナメル等の文字盤だと簡単に割れてしまうほどに硬い針であった。
軽く汗をかきながら、観察を続け、手が震えないように深呼吸をし、ぶつぶつ独り言を唱え、呼吸を整え、観察しながら指先と工具に集中する。無事に”スコッ”と抜けると、安心してひと泣きする。
ビニールカバーの上にさらにカバーをして、ダイアルに少しでも圧力が集中しないようにすることが求められる。気を抜くことはできない。場合によっては時針だけ残し、ダイアルと一緒に取り外すこともある。常に最適な判断の検討、下調べと徹底した観察が求められるのである。この作業は生涯慣れることはないのではないかと思う。
カムとネジを見ていこう
ここでは今回も修理の際に撮影した画像とともに、普段あまり気にすることがないパーツ、「カム」と「ネジ」の様子を紹介したい。
クロノグラフ秒針や積算計の帰零に必要不可欠なハートの形をしたカム(ハートカム)は、一般に回転運動を直線運動に変えるために使われることが多いようだ。時計の場合はその逆で、カムに加えられた直線的な力(運動)を回転運動に変えることで針の帰零機構を実現可能にした。シンプルだが複雑な機能を持つカッコいい、そしてありがたいカムなのである。
次に、この時計には直径が大きいネジが使われているため、ムーブメントの美観に大きく貢献しているように思う。もともと、フラットな鏡面ネジなので、すべて磨き直した。大きいネジは安定して磨ける半面、納得のいく仕上がりを得られるまでが長いのだ。ここの傷が取れたら次のネジにいこうと考えるが、その前に大抵他の傷が見えてくる。
すべて磨き終わって、ムーブメントをくみ上げた時のことを楽しみに、根気強く磨いていく。
クロノグラフの場合、そのネジの数に泣きそうになるが、ネジ磨きをメンナンス作業に当たり前に組み込んで数十年の経験をもつ大先輩時計師さんもいる。今まで一体いくつのネジを磨いてきたのだろうか。その方のブログを見て、弱音を言ってられないぞと気合が入る時計師は私だけではないはず。
今回の不具合ポイント
今回メンテナンスしたラリータイマーが、どのような要因で不具合を起こしていたのかまとめておこう。
まずひとつ目は磁気帯び。実は磁気帯びはやっかいなのである。写真のようにパーツ同士がくっつくほどの磁気帯びは、本体ごと脱磁しても除去できないケースがある。その場合、パーツ単体にして脱磁をする必要がある。
環境やその時計に使われる素材によってさまざまであるとは思うが、日常生活において磁気を発生するものから5〜7cm以上離すように気を付けていただければと思う。
次にパーツ破損。アンクルと呼ばれるパーツにはルビーの石(爪石)が取り付けられる。テンプにエネルギーをできるだけ無駄なく伝えるための重要なパーツである。今回の修理ではこの石が欠けていた。こうなると交換しか手がない。海外から爪石を取り寄せ、長さの調節、そして問題なく稼働するよう調整を済ませた。
最後に経年によるダメージ。手の力が加わるパーツは使用している内に、バリと呼ばれるような金属のササクレが生じる。これにより周囲の金属に悪影響を及ぼすことがある。今回は歯車がブリッジを削っており、真鍮粉をまとっていた。これも除去しなければ、いつか大手術が必要になるか、同じモデルの時計のドナームーブメントとして用いられる可能性がある。これ以上ブリッジを削らないようにバリの除去はもちろん、バリが生じにくくなるように簡単な面取りを施しておいた。
人差し指の1/4程度の大きなパーツのため、比較的面取りはたやすくできた。
メンテナンス後
筆者に修理を依頼したオーナーはラリータイマーをデスクに置き、5振動(1万8000振動/時)のロービートの音を聞きながら作業時間を計測したい、とのことであった。なかなかマニアックな楽しみ方であるが、確かに良い音がする。メンテナンス作業の終盤、日差確認のため稼働状態で筆者の作業ベンチにおいていたが、なかなかこれが作業に集中できる音だった。
ムーブメントサイズが大きく、静かな部屋であれば耳に近づけることなく刻音は大きく聞こえるため、満足いただいているのではないかと思う。磨いたネジによりムーブメントがより迫力を増した様子を写真に収め、お客様にプレゼントした。
この時計は某オークションで手に入れた個体とのこと。オークションで落札しようとする場合は、事前に身近な時計店やSNS等で時計愛好家と相談するのも良いかと思う。SNSには深い見識を持った方がいるので、その話を聞くだけでも楽しめるかと思う。相談したうえでやはり購入を決めたならば、修理できる技術者は全国にいるかと思うので、かかりつけの時計店に持ち込み、点検もしくは修理してご使用になっていただきたい。
ぜひとも時計の楽しみ方を広げ、かかりつけの時計師をゲットしてほしい。各々異なった経験を持っているので、たくさんの時計師と知り合うほど、いろんな話が聞けて、まだ出会っていない魅力的な時計に出会うチャンスにもつながるのではと思う。
著者のプロフィール
飯塚雄太郎
クロノセオリー在職の時計師。ヒコ・みづのジュエリーカレッジ在学中、2018年の「ウォルター・ランゲ・ウォッチメイキング・エクセレンス・アワード」に参加。バイメタルを使用した温度計がトリガーとなるアコースティックインディケーションで入賞を果たした。卒業後、修理会社を経て現職。Twitterアカウントは「@khronos_」。
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