1992年のリリース以来、ドイツ時計のアイコンとなった「タンジェント」。簡潔なデザインと、優れたムーブメントの組み合わせは、このモデルに驚くほど長いライフサイクルを与えることとなった。ではなぜ、創業間もないノモスが、タンジェントのような傑作を作れたのか?そしてなぜ、ノモスはマニュファクチュールに脱皮しようと考えたのか? 代表作であるタンジェントの歩みから、ノモスというブランドの成り立ちと、その驚くべき進化をひもときたい。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
Edited by Hiroyuki Suzuki
[クロノス日本版 2023年7月号掲載記事]
TANGENTE SPORT
防水性能が強化された大径ケース版
2002年秋に発表された本作は、ノモスの在り方を大きく変えた先駆者と言える。ケースの見直しにより、10気圧防水と高い耐衝撃性能を持つ。手巻き(Cal.1TSDP)。17石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約43時間。SSケース(直径36.5mm、厚さ7.5mm)。参考商品。
ささやかなスタートを切ったノモスだが、1990年代後半になると、ドイツを代表する時計メーカーのひとつに成長を遂げていた。転機が訪れたのは97年のことである。ノモスにムーブメントを供給していたETAはその名称を使わないよう指示したのである。以降同社は、組み立て屋ではなく、一貫生産のマニュファクチュールを指向するようになった。2000年に、A.ランゲ&ゾーネからウヴェ・アーレントが移籍すると、その流れは一層加速するようになった。
その最初の帰結が02年秋に発表された「タンジェント スポーツ」だった。搭載するのは、秒針停止機能を備えた、新しいキャリバー1TS(後に4分の3プレート化された1TSPと1TSDPに置き換わる)。また、2ピースは従来に同じだったが、ケース経を35mmから36.5mmに拡大し、リュウズに内蔵されたパッキンを強化することで、防水性能が10気圧に向上した。併せて、耐衝撃性能を高めるために、ムーブメントを固定する中枠も裏蓋と一体化したスプリングではなく、ラバーのOリングで支えられるようになったのである。デザインを変えることでコレクションの拡大を目指していたノモスは、2000年代初頭に完成を見たこのタンジェント スポーツで、プロダクトの在り方を根底から変えたのである。
このタンジェント スポーツは、後にデッドストックのケースを用いて再販されるほど、一部の愛好家たちには熱狂的に歓迎されたが、商業的には成功しなかった。というのも、スポーティーさを強調した本作は、多くの人たちの考えるノモスのスタイルとは離れていたのである。しかし、新しいムーブメントを載せ、防水性能と耐衝撃性能を高めたタンジェント スポーツの在り方は、以降のノモスに、決定的な影響を与えることとなる。
マニュファクチュール化の要となったムーブメント開発の歩み
仮に優れたムーブメントがなかったならば、ノモスはよく出来たファッションウォッチに留まっただろう。しかしさまざまな要因が、ノモスのマニュファクチュール化を推し進めた。2005年にムーブメントの内製化を成し遂げた同社は、今や脱進調速機まで内製するドイツでも屈指の時計メーカーへと成長を遂げた。
ノモスが成功を収めた理由は、シンプルで端正なデザインに留まらない。同社は1992年の創業時から、優れた機械式ムーブメントを採用し、2005年以降は、より高精度な自社製ムーブメントを用いるようになった。今でこそ当たり前になったが、ノモスは、使える機械式時計を打ち出した先駆者のひとつだったのである。
1992年に発表されたノモスのコレクションは、すべてプゾー7001を改良した手巻きのムーブメントを備えていた。改良点は以下の通り。緩急針をトリオビスに、一部の穴石もチェコ製の高品質なものに変更、そしてムーブメントにはサンバーストやジュネーブ仕上げを加える。もっとも、単に品質を改良するだけならば、ここまで手を掛ける必要はなかったはずだ。少なくとも、ノモスがベースキャリバーに選んだプゾー7001は、小径ながらも、優れた精度を持つムーブメントであり、70年代から90年代にかけて、オメガやロンジン、ブランパンやエベラールといったメーカーも採用した傑作だった。
後にCEOとなったウヴェ・アーレントは、筆者に面白い話をしてくれた。ローランド・シュヴェルトナーが、ノモスを再興する際、裁判所に呼ばれて、かつてのノモスの話を聞かされたという。
1908年から11年にかけて、グラスヒュッテにはノモスという時計メーカーが存在した。同社はスイスから輸入したエボーシュをグラスヒュッテでケースに入れ、ヨーロッパで大々的に売り出した。対して周囲のメーカーは、ノモスの時計はグラスヒュッテ製ではないという訴訟を起こした。結果として、裁判に敗れたノモスは11年には倒産してしまった。この話が影響を与えたかは不明だが、シュヴェルトナーの再興したノモスが、スイス製のエボーシュに徹底して手を加えることで、グラスヒュッテ製の時計と謳ったのは事実である。ちなみに裁判所は、2002年にも、再びシュヴェルトナーにグラスヒュッテの基準に関する話を聞かせたらしい。即ち、グラスヒュッテにおける内製率が50%を超えなければ、グラスヒュッテとは名乗れません、と。02年秋に、ノモスが新しいムーブメントを発表し、翌03年にはその受けを「グラスヒュッテ風」の4分の3プレートに改めたのは、うがった見方をすると、内製率を高める方策だったのかもしれない。
もっとも、2000年に入社したアーレントは「ノモスは創業当初からマニュファクチュールを目指していた」と語る。確かに、グラスヒュッテ基準を満たすだけならば、今のノモスのように大規模な工場を持つ必要も、新規にムーブメントを起こす理由もないだろう。今やノモスは13種類ものムーブメントを製造する、ドイツ屈指のマニュファクチュールであり、しかも一部の脱進機とヒゲゼンマイも自社製なのだ。
同社が順当に内製化を進められた一因は、自社製ムーブメントの多くに、プゾー7001の輪列設計を転用したためである。創業当初のノモスは、定評のあるエボーシュに徹底して手を加えることで、優れた精度を実現した。その後同社は、輪列の設計は変えずに、部品の内製化に着手。まずは地板や受けなどの大物部品に始まり、やがては歯車などのキーコンポーネンツに広げていった。設計に一番時間が掛かるとされる輪列のフォーマットが決まっていれば、そこにデイト表示(2002年)やパワーリザーブ表示(03年)、そして自動巻き機構を加えるのは難しくない。ノモスは、内製率を高めるだけでなく、年々複雑な設計に取り組んでいったのである。
2005年に自社製ムーブメントのキャリバーα(アルファ)を完成させたノモスは、同年に初の自動巻きであるε(イプシロン)を加えた。その後も内製化は進み、14年3月には自社製のヒゲゼンマイと脱進機で構成される「スウィングシステム」を発表した。スウィングシステムこそが、ノモスのパフォーマンスを、さらに向上させた立役者だった。設計自体は7001と変わらないが、アンクルに取り付ける爪石の角度などを少し変えることで、テンプの振り角が落ちにくくなったのである。関係者が「自社製の脱進機を持って以降、ノモスの精度は良くなった」と語った理由だ。そして翌年には、この脱進調速機を搭載した、新型自動巻きの「ネオマティック」ことDUW3001をリリースした。DUW(ドイチェ・ウーレンヴェルケ=ドイツのムーブメントメーカー)とは大仰な物言いだが、心臓部まで内製化したのだから、誇りたくなる気分はわかる。ノモスの説明によると、開発期間は3年、投じられた費用は250万ユーロとのことだ。
ノモスが成功した一因には、シンプルで高精度なプゾー7001をベースに選んだことが上げられる。2002年にはハックや日付表示を加えたCal.1TSに、03年には3/4プレート化した1TSPに進化し、05年にはほぼ完全自社製のCal.αとなった。最新の入荷分からはトリオビスが、「NOMOS regulatorysystem」と呼ばれるエタクロン型に。
このDUW 3001こそは、マニュファクチュール・ノモスの集大成と言える。自動巻き機構に採用したのは、イプシロンのスイッチングロッカーではなく、標準的なリバーサー。あえて普通の機構を選んだところに、設計に対する自信が見え隠れする。しかも、ローターが回転してもゼンマイを巻き上げない不動作角はわずか8度しかないのだ。これはETA2892A2の半分、2824の3分の1以下であり、現行のリバーサーでは最も小さい値だ。これだけ巻き上げロスが少なければ、デスクワークであっても、主ゼンマイは十分に巻き上がる。
時間を掛けて、製造と設計を洗練させてきたノモス。もっとも、ノモスが進化を続ける理由は、スイスの大メーカーとは多少異なる。ノモスにとって重要なのは、買える価格の中で、良い時計を作ることなのである。その最も分かりやすいサンプルが、最後に紹介する「タンジェント ネオマティック」だろう。
自社製のスウィングシステムに、コンパクトなリバーサー式自動巻きを合わせたムーブメント。初出は2015年。大きく厚いCal.εの反省を踏まえて、直径は28.8mm、厚さは3.2mmに縮小された。しかし、ローターの不動作角が小さいため、デスクワークでも十分巻き上がる。緩急針は扱いやすいエタクロン型に改められた。
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