パテック フィリップ/ 永久カレンダー搭載クロノグラフ

12ヵ月カムを用いる新世代ムーブメント
Cal.CH 29-535 PS Q

筆者の知る限り、1986年初出のCal.CH 27-70 Qとは、腕時計専用に特化した構造を持つ、初の永久カレンダー搭載クロノグラフムーブメントであった。この設計思想を進化させたのが、2011年発表のCal.CH 29-535 PS Qである。見るべきは、ベースが自社製クロノグラフムーブメントであることよりも、非凡な完成度にある。

クロノグラフランナーと秒クロノグラフ車の噛み合わせ量を調整する偏芯シャポー。最大0.1mmの調整幅を持つ。キャリングアームで制御される伝達系の歯車3枚のアガキ調整を連動して行う。両者の噛み合わせ量を適切に調整することで、針飛びが起きにくくなる。

これも針飛びを抑えるための配慮。クロノグラフランナーと秒クロノグラフ車の歯形は、いわゆる三角歯から、より噛み合いが正確になるウルフティース(歯を一方向に傾けている)に変更された。細かい歯のピッチも、針飛びを抑えるための配慮。

 1986年に登場した永久カレンダー搭載クロノグラフムーブメントが、CH 27-70Qであった。ベースこそレマニアであったが、入念な改良により、このムーブメントは20年近くも第一線に留まった。

 しかしパテック フィリップは、そのパフォーマンスに満足できなかった。というよりも、自らの設計思想を十分体現できなかったと考えたのだろう。2011年には、新しい永久カレンダー搭載クロノグラフムーブメント、CH 29-535PSQを発表した。

 先述の通り、CH 27-70Qの特徴とは、クロノグラフの確実な動作と、信頼性の高い永久カレンダーの組み合わせにある。新しいムーブメントも、コンセプトはまったく同じだ。しかしキープコンセプトとはいえ、その内実は大きく進化している。

 まずはクロノグラフムーブメントから。4番クロノグラフ車やキャリングアーム周りの処理は、CH 27-70Qに準じている。理由はクロノグラフの動作を確実にするためだ。

 大きく変わったのは、秒クロノグラフ車とクロノグラフランナーの歯形である。CH27-70Qの歯形は、三角形のインボリュート風。対してCH29-535PSQのそれは、一方向に歯形を傾けたウルフティースである。この歯形は噛み合いやすいため、理論上は針飛びがより抑えられる。また歯のピッチを細かくすることで、もし針飛びしても、その飛び幅が大幅に抑えられるようになった。ただしここまでは、他社でも行っている改良だ。

 パテック フィリップらしさが見えるのは、コラムホイール上に設けられたシャポーである。そもそもは、コラムホイールとキャリングアームの噛み合いを確実にするための部品。しかし新ムーブメントでは、ここも大きく改良された。CH27-70Qまでのシャポーは完全な真円。しかしCH29-535PSQのそれは、0.1㎜ほど偏心している。

Cal.CH 29-535 PS Q

Cal.CH 29-535 PS Q
Cal.CH 27-70 Qのコンセプトを受け継ぎつつ、設計を一新した永久カレンダー搭載クロノグラフムーブメント。過去のパテック フィリップ製クロノグラフから一転して、調整箇所の多さが大きな特徴。まだ日本へはデリバリーされてはいないが、設計を見る限り、耐久性には富んでいるだろう。手巻き(直径32mm、厚さ7mm)。33石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約65時間。

 その目的は、偏心させたシャポーを回転させることで、キャリングアームとコラムホイールの噛み合わせ量を調整するためである。その結果、キャリングアームに固定されたクロノグラフランナーと、秒クロノグラフ車の噛み合いが適切になる。両者の噛み合いが適切であれば、針飛びの可能性はさらに少なくなるだろう。設計者なら誰もが気付く論理だが、どのメーカーでも実現できなかった。しかしパテック フィリップは、それをシャポーの回転だけで実現してしまったのだ。

 CH27-70Qとの違いは、調整箇所の多さにもある。中級エボーシュであったレマニア2310は、そもそもクロノグラフ機構の調整箇所が少なかった。筆者の私見で言えば、高級機メーカーとしては珍しく、過去のパテック フィリップは、クロノグラフ機構の調整箇所を増やそうとはしなかった。CH27-70Qを例にとっても、そもそも2310に備わっていた30分積算計の送り爪の噛み合いを調整する機構まで、あえて省略していたのである。しかし新ムーブメントでは、一転して調整箇所を増やした。調整箇所の多さが高級クロノグラフの条件であるという古典的な定義に従うなら、これは類を見ない高級機であろう。

Cal.CH 29-535 PS Qの大きな特徴が、瞬時運針式の30分積算計。その積算計を動かすカムには、スケルトン加工が施された。質量を低減することで、クロノグラフ針のブレを抑える。年次カレンダーの歯車にも見られる、パテックならではの手法だ。

ブレーキレバーとキャリングアームの連動機構。通常、両者は連結されていない。しかしこの構造では、ブレーキをかけるとブレーキレバー先端のネジがキャリングアームを跳ね上げ、クロノグラフランナーと秒クロノグラフの連結を確実に遮断できる。

 いくつかの例を見てみよう。瞬時運針式の30分積算計は、ヒゲゼンマイ状のスプリングにテンションをかけ、それをリリースすることで積算針を早送りする仕組みである。発想としては、ロレックスのジャストチェンジに近い。興味深いのはテンションをかけるスプリングの形状である。板バネではなくヒゲゼンマイ状に成形されているため、テンションの調整も不要となる。またリセットハンマーも2分割され、リセットカムとの噛み合いを調整しやすくなっている。

 しかし、こうしたベースムーブメントの優秀さ以上に注目すべきは、永久カレンダー機構である。CH 27-70 Qの永久カレンダーは、240Q以上に、実用性への配慮が施されていた。48カ月カムの上にカバーを設けて、耐衝撃性を高めた点である。こういった配慮は、新しいCH 29-535PS Qでいっそう強調された。設計を見る限り、新しい永久カレンダーモジュールは、作動レバーの慣性を小さくするという設計思想をいっそう進化させている。大きな違いは永久カレンダーの心臓部にあたるカムで、48カ月カムから、12カ月カム+閏年調整用の突起を設けたものに変更されている。厚みが増す反面、このレイアウトは作動レバーを小さくできる。

 面白いのはカムの位置である。3時位置から2時位置に移された結果、作動レバーは若干長くなっている。しかし形状をできるだけ細くすることで、慣性を下げていることが分かる。またレバーを円形にして、その中心部の穴を筒車に通したのも面白いアイデアだ。これならば、もし強い衝撃を受けても、レバーは筒車にあたってそれ以上動かない。誤作動を起こさないための上手い設計だ。また作動レバーの支点を中心近くに設けることで、やはりその動作を安定させている。レバーをダイアルの中心に寄せた結果、ムーブメントの左右には大きなスペースが生まれた。パテック フィリップはそこに、閏年表示と昼夜表示機構を搭載している。これは非常に巧みな設計と言わざるを得ない。

 パテック フィリップらしいコンセプトを受け継ぎ、いっそう進化させた点にこそ、新しい永久カレンダー搭載クロノグラフの真価があるのだ。

2分割されたリセットハンマー。通常は一体のため、リセットカムとハンマーの噛み合いを調整するには、先端を削るしか方法がなかった。ここを分割したことで、秒クロノグラフ車と30分積算車のそれぞれに合わせて、噛み合いの深さを調整できる。

リセットハンマーの支点に追加された受け石。クロノグラフに限らず、パテック フィリップは、硬くて滑りの良いベリリウム製のブッシュを好んで用いた。しかしスムースな動作が望まれるリセットハンマーには、あえてルビーを使用している。