カラトラバ考現学
多様化するフォルムに内包された美
あくまで筆者の私見だが、カラトラバが大きく変わったのは、2004年のRef.5196からだろう。新しいカラトラバと称されたRef.5000にさえ、保守的なケースを与えたパテック フィリップは、以降その造形でさまざまな試みを行うようになる。ここでは現在を代表する新しいカラトラバの造形から、その多様性を見ていくことにしたい。
(下)Ref.5116のプロファイル。初出は2009年。ケースの形状は1980年代の3919に同じだが、ベゼルのトップが高く成形され、時計としての立体感が増した。筆者の印象を言うと、2000年代の後半から、カラトラバの造形はいっそう立体的なものとなった。
結局のところカラトラバとは何なのか。1980年代にカラトラバ・コレクションを拡充したフィリップ・スターンはこう定義する。
「カラトラバとはバウハウスの精神を受け継いだコレクションといえるでしょう。つまりシンプルなデザインながら、視認性に優れている」
バウハウスうんぬんは額面通りに受け取れないが、育ての親であるスターンが、カラトラバの条件に視認性の高さを挙げたのは大変に興味深い。
この視認性の高さに加えて、筆者は故ギュンター・ブリュームラインが喝破したラグの造形(ラグとミドルケースの有機的な結合)を、カラトラバの定義に加えたいと思う。
少し脱線したい。Ref.96が登場した1932年当時、ほとんどの腕時計がケースサイズに比して細いストラップを備えていた。これは懐中時計にストラップを付けて腕時計に仕立てる手法の残滓であり、それを支えるラグも小ぶりで細いもので済んだ。好例は20年代のロレックス オイスターが採用したワイヤーラグだろう。これは加工が容易な半面、太いストラップはサポートしにくい。
対してRef.96は、直径30㎜のケースに対して、ストラップの幅が18㎜もあった。これは現在の水準から見ても、明らかに太い。18㎜のストラップに対してならば、35㎜以上のケース径が望ましいだろう。筆者の知る限り、この時代に意図的にストラップを太くした例には、先にカルティエの一連の「タンク」と、ロレックスの「オイスター パーペチュアル」が存在する程度だ。おそらくパテック フィリップは、カルティエやロレックスに同じく、Ref.96に腕時計ならではのデザインを与えたかったのではないか。そう考えると、狭義のカラトラバが〝あの造形のラグ〟を持った理由も容易に想像できる。
(中)Ref.5123。初出は2012年。1950年代のモデルを範としているが、近年のカラトラバらしく、造形はいっそう立体的。筆者の好みでは、これが現行のベスト・カラトラバだ。ラグを湾曲させて装着感を改善した点も、現在のカラトラバらしい配慮である。
(下)Ref.7200。初出は2013年。女性が使うことを想定したためか、歴代カラトラバで最もスレンダーなラグを持つ。ケースとラグの一体化にカラトラバの個性があると考えれば明らかに異形だが、パテック フィリップがラグの強度に自信を持ったということか。
一時期までのパテック フィリップは、ミドルケースにラグを溶接する製法を採用していた。しかしRef.96のラグを見ると、ミドルケースと別パーツになっているのではなく、有機的に一体化されていたことが分かる。パテック フィリップは18㎜という太いストラップを支えるために、ラグを頑強に固定したかったに違いなく、そのためにラグとミドルケースを一体化させたのではないか。果たして、このラグのおかげで、カラトラバは、同時代の高級時計にありがちだった、ラグが歪む、または外れてしまうといった問題とは無縁になった。ちなみにブリュームラインはその天才的な直感で、カラトラバの本質がラグにあることを見抜いていた。ただし腕時計の黎明期を振り返ってみると、大多数の腕時計とカラトラバの最大の違いがラグにあったのは事実で、かつこれがカラトラバを現代まで存続させた一因ではなかったか。
ではなぜ、現在のパテック フィリップはカラトラバ・コレクションに多彩なラグ、さらにいうとデザインを与えられるようになったのか。一因は戦略上の理由だろう。現社長のティエリー・スターンは「GMT」誌のインタビューでこう語っている。少し長いが引用したい。
「パテック フィリップにとって複雑時計は極めて重要です。しかし私はコレクションが両端から展開されるように心がけています。つまり結婚や卒業時に魅力的な時計が欲しくなるような若い人々を、決して無視してはならないということです。したがって私は20代から30代の人にも手が届いて魅力的な、新しいカラトラバの開発に、ここ3年ほど注力しています」。果たしてカラトラバが手に届く価格なのか、そして20代や30代の人々を引きつける時計なのかはさておき、現在のパテック フィリップはカラトラバを、若年層にも訴求できるコレクションにしたがっていることが分かる。
Ref.5119にエナメル文字盤を載せたモデル。3919の造形を継承しながらもわずかに立体感を増している。ストラップとケースの間隔に注目。手巻き(Cal.215 PS)。18石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約44時間。18KRG(直径36mm)。293万円。
極めて完成度の高い時計。精密な開閉式の裏ブタだけでなく、カラトラバのスタイルに過不足なく新しい試みを加えた点も魅力的だ。自動巻き(Cal.324 S C)。29石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約48時間。18KRG(直径39mm)。390万円。
カラトラバの拡大を可能にしたのは、製法の進化であった。現在のパテック フィリップは、ステンレス以外のケースを冷間鍛造で成形している。ミドルケースとラグを鍛造で一体成形できれば、ラグを細身に仕立てても壊れにくくなる。結果、ラグのデザインは非常に自由度を増した。極端なまでに耐久性を重視するパテック フィリップが、腕時計の黎明期に好んだ細身のラグを、最新作の「オフィサー」ケースに与えられた理由だろう。
もうひとつ、製法の進化はカラトラバの造形をより立体的に進化させた。狭義のカラトラバは一体化したラグとミドルケースという特徴を持つが、製法上の制約により、ケース側面は平板にならざるを得なかった。しかしラグの接合という課題がクリアされれば、ケース側面はどのようにも変形できる。ケース製法の進化を前提としたRef.5196以降のカラトラバは、そう言って差し支えなければ、極めて自由な造形を持つに至った。
こういった「新しい」カラトラバを象徴する時計が、2013年に発表されたRef.5227だろう。この時計は、開閉式のケースバックばかりが注目されるが、ラグというオリジナルの個性を立体的に進化させた点で、見事なまでに21世紀のカラトラバといえる。このモデルのポイントは冷間鍛造で成形したケースとラグの側面を切削でえぐった点にあり、やはり製法の進化というパテック フィリップのあり方を忠実に反映していよう。その精緻さは歴代のオフィサーケースをさらに凌駕している。
冷間鍛造でケースを製造するパテック フィリップの強みを反映したモデル。ラグを短くするのではなく、ラグを隠すというアイデアも効いている。手巻き(Cal.215PS)。18石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約43時間。18KRG(直径38mm)。281万円。
近年のパテック フィリップは女性用で新しい試みを行う場合が多い。これもわずかに荒らした文字盤や細身のラグなど新しい要素を持つ。自動巻き(Cal.240)。27石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約48時間。18KRG(直径34.6mm)。306万円。
同様に、2012年初出のRef.5123も興味深いモデルだ。造形自体は、1950年代の2572を再現したもの。しかし、ケースとほぼ一体化していたラグは意図的に誇張され、しかも腕に沿うように大きな湾曲が与えられた。結果として、かつての意匠を持つこの時計は、今風の優れた装着感を得ることに成功している。これもカラトラバに対する新しい試みといえそうだ。
女性用のRef.7200も、基本的なケース形状は150周年モデルのRef.3960を踏襲している。しかしラグの取り付けに対するパテック フィリップの自信を反映するかのように、ラグはいっそう細身に仕立てられた。1910年代から20年代のパテック フィリップもかくやという細さだが、しかしこれは最新の製法を反映した、実用に耐えうる腕時計であることを忘れてはならない。
Ref.96に始まるカラトラバとは、懐中時計の影響を脱した純然たる腕時計デザインの嚆矢であった。こうした点で、カラトラバとは、ロレックスの「オイスター パーペチュアル」、カルティエの「タンク」と同じ文脈で語ることのできる希有な存在だろう。加えて狭義のカラトラバが採用した立体的なインデックスと針も、サイズの小さな腕時計に高い視認性を盛り込もうとした試みである。しかしカラトラバが筆者の、または愛好家の興味をそそってやまない理由は、純然たる腕時計向けのデザインという枠の中で、時代の要請に応じて、その形を変えてきた点にある。結果としてカラトラバというコレクションは拡散してしまったが、腕時計としての実用性と審美性を両立させるという手法に注目すると、基本的な在り方はRef.96から何も変わっていないことに気付かされるのである。
ケースとラグ、インデックスと針から、ここまで語れる時計がいくつあるかと考えると、筆者は心許ない。そういう点から見ても、カラトラバは紛れもない傑作、時計史に燦然と輝くマスターピースなのである。
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