2017年に復活したオウタヴィアを、単なる復刻版と見る人は少なくない。しかしこの“復刻版”が、タグ・ホイヤーの最新自社製クロノグラフを搭載したという事実には、明確な理由がある。今も昔も、オウタヴィアという名前は、タグ・ホイヤーにとって別格なのだ。
広田雅将(本誌):取材・文
[連載第46回/クロノス日本版 2018年7月号初出]
レーシングシーンとの蜜月から生まれた
計測機器としてのホイヤー
今でこそ、スポーツウォッチメーカーとしての印象が強いタグ・ホイヤー。しかし1960年代に至るまで、旧ホイヤーはほぼストップウォッチの専業メーカーだった。計測機器に特化してきたホイヤーは、やがてそのノウハウを投じた「オウタヴィア」で、腕時計の世界に華々しく打って出ることとなる。
1933年に完成した、ホイヤー初の本格的なダッシュボード・クロック。左には懐中時計が、右には12時間積算計付きのストップウォッチが備わる。ジャック・ホイヤーが生産中止にするまで、このモデルは四半世紀近くも、ホイヤーのヒット作であり続けた。
1960〜70年代半ばにかけて、ホイヤーに最盛期をもたらしたジャック・ホイヤー(タグ・ホイヤー元名誉会長)。往年を回顧して、彼はこう語った。「(私がホイヤーに入社した58年当時の)ホイヤーは、ストップウォッチを製作しており、今のような腕時計メーカーではありませんでした」。事実、彼が腕時計の分野を伸張させた71年の時点でさえ、ホイヤーは売り上げの3分の2をストップウォッチに頼っていたのである。彼がホイヤーを「世界最大の機械式ストップウォッチメーカー」と称したはずである。
ではなぜホイヤーは、世界最大のストップウォッチメーカーになれたのか。最も大きな理由は、計測するジャンルに対して、さまざまなモデルを用意したためだった。中でもモータースポーツのジャンルに向けて、ホイヤーは数多くのストップウォッチを揃えていた。
こうした〝尖った方向性〟をホイヤーにもたらしたのが、ジャック・ホイヤーの祖父に当たる、シャルル・オーギュスト・ホイヤーだった。ジャックはこう語る。「祖父はホイヤー家の大セニョールと言うべき存在であり、クルマを運転した初の人物でした。彼はベルン州で車を買った4番目の人物でしたね。1905年前後のことだったと思います」。
自動車に魅せられた〝セニョール〟は、しかし、その不便さにもすぐに気付いた。エンジンはすぐオーバーヒートし、タイヤはパンクし、目的地にいつ着くのか分からなかったのである。そこでシャルル・オーギュストは、旅の所要時間が分かるダッシュボード・クロノグラフ「タイプ・オブ・トリップ」を完成させた。
11年に発売されたタイプ・オブ・トリップとは、機能に特化した初のクロノグラフ、正しく言うと12時間積算計付きストップウォッチだった。視認性を高めるため、直径は11㎝。そして出発時間を記録するため、12時位置には時分針を持つリマインダーが設けられていた。
ホイヤーのユニークさを示すのが、3時位置のモニターだった。道路状況が悪く、自動車の振動が大きかった11年当時、ダッシュボード・クロックは容易に壊れた。対してホイヤーは、3時位置のモニターで故障を知らせたのである。シャルル・オーギュストはしばしば自動車メーカーに赴き、このクロノグラフをダッシュボードに取り付けたという。
出発時間のメモリ機能と、故障を知らせるモニターを備えたタイプ・オブ・トリップは、自動車メーカーのみならず、航空関係者にも歓迎された。ホイヤーはこのモデルを皮切りに、航空機用の計器も製作するようになったのである。
自動車と航空機の分野に進出したホイヤーは、やがてこのふたつのジャンルをカバーできるダッシュボード・クロノグラフを作ろうと考えた。ジャック・ホイヤーはこう語る。「名称は〝オウタヴィア〟。命名者はおそらく父でした」。オートモービルとアヴィエーションからなる造語、オウタヴィア。それは新しいダッシュボード・クロックの性格を端的に言い表していた。
33年にリリースされたオウタヴィアは、本当の意味でのプロ向けダッシュボード・クロノグラフだった。アルミプレートの左側に8日巻きのクロックが、右側には12時間積算計付きのストップウォッチが固定された。加えて、タイプ・オブ・トリップではセンターにあった12時間積算計は6時位置のサブダイアルに移され、12時位置には60分積算計と、センターには60秒積算計が備わった。秒単位を計測できるこのダッシュボード・クロノグラフは、以降ホイヤーの屋台骨を支えることとなる。
ジャック・ホイヤーが開発に携わった初の腕時計クロノグラフが、オウタヴィアである。ラリードライバーとしての経験から、彼は回転ベゼルと12時間積算計、そして高い視認性が不可欠と考えていた。これは66年の通称Mark 3モデルである。
では、ダッシュボード・クロノグラフのオウタヴィアが、なぜ腕時計クロノグラフになったのか。少し長くなるが記してみたい。大学を卒業したジャック・ホイヤーに対して、父はイギリスのスポーツカー、MG Aを与えた。ホイヤー家の一員としてたちまちモータースポーツに魅せられたジャックは、このジャンルこそ、ホイヤー製のダッシュボード・クロックをアピールする最適の場と考えるようになった。彼は3つのストップウォッチが取り付けられるプレートを自製し、そこにオウタヴィアとマスタータイム、そしてもうひとつの時計を加えて、オリジナルのラリータイマーを作り上げた。後にホイヤーの代名詞となる3連のラリータイマー。作り上げたのは、大学卒業間もないジャック・ホイヤーだったのである。言うまでもなく彼はこのクロックを愛用したが、後にある事件が起こった。
「私たち(彼と友人)は、2回目のラリーに出場しました。その際友人がドライバーで、ナビゲーターは私でした。一時期順位を3位まで上げ、1位とはちょうど1分遅れでした。理由は、私が(オウタヴィアの)小さな分積算計を読み違えたからです。私はこの使えない、オウタヴィアという名前のダッシュボード・ストップウォッチに腹を立て、一時期生産中止にしたのです」
代わりにジャック・ホイヤーは、12時間積算計と60分積算計が読み取りやすいダッシュボード・ストップウォッチを作ろうと考え、クロノグラフメーカーのデュボア・デプラにコンタクトを取った。完成したのが、60分同軸積算計と、12時間のデジタル積算計を持つ「モンテカルロ」である。1911年から生産されてきたホイヤーのダッシュボード・クロノグラフは、本作で完成を見たといってよい。ジャックはこう語る。「大きなデジタル表示の12時間積算計を持つモンテカルロは、ラリードライバーには不可欠のダッシュボード・ストップウォッチになりました」。
怒りにまかせてカタログから落としたものの、彼はオウタヴィアという名前には価値がある、と考えていた。しかし、その名前をどう使うか考えあぐねていた。
解決策をもたらしたのは、ホイヤー家のちょっとした〝お家騒動〟だった。叔父のフーバー・ホイヤーは、会社の株をアメリカのブローバに売却したがっていた。そこでジャックは、叔父と父が所有する株を買収し、ホイヤーの大多数の株主となったのである。弱冠28歳でホイヤーの経営権を掌握した彼は、ストップウォッチ以上に腕時計クロノグラフに未来があると考え、その開発を急がせた。「私たちは自由だ。回転ベゼルと12時間積算計を持つクロノグラフを作ろう」。61年秋、彼は製作中の新しい腕時計クロノグラフに、オウタヴィアと名付けることを決めた。ちなみに、初のクロノグラフに12時間積算計を備えるのは必須条件だったらしい。彼は、たとえ腕時計サイズに縮小されても、オウタヴィアが、ラリータイマーとして使えることを念頭に置いていたのである。
「私のデザインのテイストを決めたのは、ふたつの事柄でした。アナログ文字盤は、安全上の理由で、高い視認性を持たねばならないこと。私はこれをチューリッヒの工科大学で学びました。というのも、発電所で読み間違えると、大惨事が起きますからね。加えて、私は建築家のエーロ・サーニネンと、オスカー・ニーマイヤーのファンでした」。ラリードライバーとしての経験に加えて、工科大学で工学を学び、建築に興味を持つ彼の知見は、オウタヴィアのデザインに、機能性と洗練を与えることとなったのである。
62年に発表されたオウタヴィアは、たちまちヒット作となった。以降ジャックは「カレラ」や「モナコ」といった数多くの傑作をリリース。ホイヤーはストップウォッチの専業メーカーから、徐々に総合的な時計メーカーへと変容していくことになる。
1960’s AUTAVIA
3-Counter Chronograph
1962年にリリースされたのが、3カウンターのモデルである。発表当時のカタログには「新しいステンレススティールケースにより、3万5000フィートの高度、330フィートの水の中でも完璧に作動する」と記されている。なお、右上のモデルが、第一世代のRef.2446 Mark1。1965年には、防水性能を高めたスナップバック式の第二世代ケースに置き換わった。見た目の違いは、リュウズとプッシュボタン。第二世代のケースは、プッシュボタンとリュウズが大きくなったほか、ベゼルも細身になった。搭載するのは12時間積算計付きのバルジュー72。このモデルに限らず、ホイヤーはバルジューのエボーシュを好んだ。なお1962年当時、Ref.2446の販売価格は119.50ドル。
1960-70’s AUTAVIA
2-Counter Chronograph
マーケティング上の理由から、ホイヤーはオウタヴィアに安価なモデル(Ref.3646)の「オウタヴィア 30」を加えていた。ムーブメントは12時間積算計を省いたバルジュー92。ただし60年代後半のモデルは、7730系を載せていた可能性がある。1962年当時の販売価格は、99ドル50セント。なお、左上のモデルがオウタヴィアをベースに開発された、ヨットレース用クロノグラフの「スキッパー(Ref.7764)」だ。左のRef.7763のケースを転用した派生版だが、積算計が30分から15分に変更された。
1970-80’s AUTAVIA
Chrono-matic
オートモービルとアヴィエーションから生まれたオウタヴィア。1960年代後半には、自動巻きの「クロノマティック」を搭載し、大幅な進化を遂げた。しかし約200ドルと高価だった(予定された価格は175ドルだった)ため、1972年にはクロノマティックの廉価版であるキャリバー15搭載版(Ref.1563)も追加された。外観上の違いは、12時間積算計が省かれたほか、秒針が10時位置にある点。1962年にリリースされたオウタヴィアは、社名がタグ・ホイヤーに変わった1985年まで製造された。バリエーションの多さは、いかにもホイヤーらしい。
AUTAVIA [2017]
コレクター主導で導き出されたアイコンの再構築
オウタヴィア・カップで選ばれたデザインを採用した新作。純然たる自社製のホイヤー 02を搭載する。単なる復刻版に留まらない意欲作。自動巻き(Cal.ホイヤー 02)。33石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約80時間。SS(直径42mm)。100m防水。56万円。
タグ・ホイヤーのCEOとなったジャン-クロード・ビバーは、タグ・ホイヤーには生かされていない遺産が多いことに気づいた。彼はさまざまなモデルの復刻を検討し、「オウタヴィア」もそのひとつだった。2016年のバーゼルワールドで、ビバーはオウタヴィアのリバイバルを宣言。その際、面白いアプローチを採用した。というのも、ただ復刻するのではなく、「インターネットで復刻して欲しいデザインを募集し、1位になったモデルを選ぶ」というのだ。世界中の時計愛好家は熱狂してこの「オウタヴィア・カップ」に参加した。
もっともビバーは新しいオウタヴィアを、〝見た目だけの復刻版〟にするつもりはなかった。ホイヤーがすでに完成させていたCH80を改良して、搭載しようと考えたのである。基本設計はCH80に同じ。しかし、耐久性を考慮して、ムーブメントの厚みは6.5mmから6.9mmに増やされた。これが新しいクロノグラフムーブメントのホイヤー02である。ホイヤーが腕時計のジャンルに本格参入するきっかけとなったオウタヴィア。その復刻版に、ビバーは純然たる最新の自社製キャリバーを選んだのである。ビバーは、オウタヴィアという名前が持つ意味を、十分に理解していたのだろう。
16年3月31日には、1回目の選考が行われ、8つのモデルが残った。4月14日には2回目の選考があり、モデルは4つに絞られた。そして最後に残ったのが、通称「リントモデル」こと〝Ref.2446 Mark3〟だった。17年のバーゼルワールドで、ビバーはリントモデルをベースにした、まったく新しい「オウタヴィア ホイヤー02 クロノグラフ」を発表。たちまち世界的な人気を集めることとなったのである。
[評伝] ジャック・ホイヤー
〝名将が腕を振るったあの時代とオウタヴィア〟
2017年にオウタヴィアが復活した際、タグ・ホイヤーは“なぜこのモデルを選んだのか”といぶかしむ声は少なくなかった。それを理解するカギは、このモデルを育て上げたジャック・ホイヤーにある。彼はオウタヴィアをもって、ホイヤーを腕時計メーカーへと脱皮させたのである。
1962年にホイヤーの経営権を掌握したジャック・ホイヤーは、同時代の経営者とふたつの点で変わっていた。ひとつは、自らプロダクトを開発したこと。そしてもうひとつは、自ら時計を売り込んだ点である。これはホイヤー家の人間に共通する個性だったが、28歳で経営を継がざるを得なかったジャックは、いっそうアグレッシブだった。
就任したジャック・ホイヤーはたちまちホイヤーの新しい経営方針を定めた。「ストップウォッチの利益は良かったのですが、私たちのクロノグラフは満足できる程度で、男性用と女性用の自動巻き時計は悲惨そのものだったのです。というのも、このジャンルの競争が激しかったためですね。そこで私たちは、保守的な腕時計の製造をやめ、腕時計用クロノグラフとストップウォッチ、そしてラリーで使うためのダッシュボード用の計器に特化することを決定しました」。ジャックは、メインターゲットをモータースポーツ関係者に絞り、営業をかけた。62年1月、ジャックはフロリダで開催されたセブリング12時間レースに参加し、フェラーリのピットにもぐりこんだ。
オフィシャルの評伝には記されていないが、当時を回顧して、彼は筆者にこう語った。「何のツテもなかったので、私はジャーナリストのフリをしてフェラーリのピットにもぐりこんだのです。面白い時代でしたね」。そこで彼は、ホイヤーのターゲットが、モータースポーツの愛好家であることを確信した。
63年にリリースされたクロノグラフが、「カレラ」という〝いかにも〟な名前を与えられたのは、決して偶然ではない。伝説的なレースだった「カレラ・パナメリカーナ」は55年に中止となったが、その名前はジャック・ホイヤーの脳裏に強く残った。当時アメリカにいた彼は、スイスに帰国するや、ホイヤー カレラという名前を登録した。「私は新製品の開発にコミットしていました。そして、来るべき新製品は、カレラと呼ばれるべき、と考えたのです」。オウタヴィアに続いてリリースされたカレラは、とりわけアメリカ市場でヒットし、ホイヤーを保守的なストップウォッチメーカーから脱皮させるきっかけとなった。
ホイヤーがモータースポーツにコミットするようになったのは、68年のことである。ジャックの古い友人は、彼にスイスの若きレーシングドライバーである、ジョー・シフェールのスポンサーになることを勧めた。この年、シフェールはF1のイギリスグランプリで初優勝を遂げ、さらなる飛躍が期待されていた。ホイヤーは、年に2万5000スイスフラン(当時の日本円で約210万円)という高額なフィーでシフェールと契約、彼はレーシングスーツと乗車するレーシングカーにホイヤーのロゴを付けて、世界中のサーキットを荒らしまわることとなる。ちなみにそんなシフェールが愛用していたのは、ジャック・ホイヤー曰く「おそらくオウタヴィア」(実際に、オウタヴィアを腕に巻いた写真が何枚も残されている)。現在、このモデルは世界的なコレクターズアイテムとなっている。
余談をもうひとつ。初めてF1にスポンサーシップを導入したのは、当時シフェールも乗っていたロータスである。当時ロータスを率いていたコーリン・チャップマンは、なぜスポンサーを付けたのかという問いに対して、こう答えた。「ロータスの活動をF1、F2、F3などに広げると、年に9万5000ポンド(当時の日本円で約8200万円)かかる」。そう考えると、ホイヤーがシフェールに払った2万5000スイスフランが、いかに高額だったかが理解できよう。ジャック・ホイヤーは、プロダクトに劣らず、マーケティングが重要であることを理解していたのである。シフェールはホイヤーの期待によく応え、ホイヤーは後に、彼を〝スーパーセールスマン〟と称するまでになった。1968年、ホイヤーの売り上げは前年比35%増となり、最高収益を記録した。
モータースポーツと手を取り合って、急激に成長していったホイヤー。その頂点が、フェラーリとのパートナーシップだった。当時フェラーリF1のドライバーだったクレイ・レガツォーニの要望で、ホイヤーは先進的なラップタイマーを完成させた。ホイヤーはこれをエンツォ・フェラーリにプレゼンテーションしたところ、フェラーリは「F1マシンにロゴを記していいから機器を無償で提供してくれ」と述べた。ジャックは拒絶し、値下げして納入することも断った。折れたのは〝イル・コメンダトーレ〟のほうだった。ジャックはエンツォの対応をこう記す。「ホイヤーさん、あなたは私を助けるべきなんです。ドライバーのフィーは極めて高いのだから」。71〜79年まで続いたフェラーリへのスポンサーシップは、ホイヤーの名声を一層高めた。「この期間中、すべてのフェラーリドライバーは、(ホイヤーの)パッチを付けたレーシングスーツを着て、ホイヤーの工房を訪れ、彼らの名前と血液型が記されたカレラを着けたのです」。
2017年に発表されたオウタヴィアは、純然たるタグ・ホイヤー製の自動巻きクロノムーブメント、ホイヤー02を搭載する。既存のCal.1887より長いパワーリザーブと、ETA7750とは異なるレイアウトに加えて、GMT表示が可能な拡張性、そしてメンテナンス性の高さが追求された。直径31mm、厚さ6.9mm。33石。パワーリザーブ約80時間。
もっともホイヤーの退潮は、70年代初頭には緩やかに始まっていた。69年、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)が垂直クラッチを載せた自動巻きクロノグラフ、キャリバー6139をリリース。合理化された設計を持つこのクロノグラフの価格は、オウタヴィアの半額に過ぎなかったのである。加えてデジタル式のクォーツクロノグラフが普及し、機械式ストップウォッチの売り上げが激減したことは、当時まだストップウォッチに依存していたホイヤーには致命的だった。彼はホイヤーを売却し、静かに表舞台を去ることになった。
彼が再び表舞台に立つようになったのは2001年のことである。タグ・ホイヤーのCEOに就任したジャン-クリストフ・ババンは、ジャック・ホイヤーを招聘し、名誉会長としたのである。プロダクトとマーケティングにフォーカスしたジャックは、ババンにとって模倣すべき対象だった。この時代にタグ・ホイヤーはジャック・ホイヤーの評伝をリリースし、インタビューを数多く行った。それらはジャーナリストたちに好個の話題を提供したが、むしろその恩恵を最も受けたのは、タグ・ホイヤーの若い経営陣たちではなかったか。LVMHグループの関係者が述べたように、ジャック・ホイヤーの謦咳に接することで、時計業界外から来た彼らは、やがて時計業界を支える人材へと変わっていったのである。
タグ・ホイヤーのCEOがジャン-クロード・ビバーに代わった後も、ジャック・ホイヤーはタグ・ホイヤーに影響を与え続けた。ビバーが新しい自社製ムーブメントを開発させたとき、彼はこれを、売れ筋のカレラではなく、ジャック・ホイヤーが初めて手掛けた腕時計クロノグラフ「オウタヴィア」に載せようと考えた。
ジャック・ホイヤー生誕85周年記念モデル。シルバーフィニッシュの文字盤と、ホイヤー家の家紋および、ジャック・ホイヤーのサインが刻まれたケースバックを持つ。自動巻き(Cal.ホイヤー02)。33石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約80時間。SS(直径42mm)。100m防水。世界限定1932本。64万円。
2016年秋に初めてオウタヴィアの復刻版がお披露目されたときに、ビバーはこう語った。「私はジャック・ホイヤーを招こうと思う。私は新しいオウタヴィアを、ジャックのために作りたかった。これはジャックの85歳の誕生日を祝う、もっともよい方法だと思ったからだ」。
ビバーはこうも語った。「私はしばしば、従業員にこう語ってきた。これは個人的な哲学でもある。伝統なくして未来なし。また、私はこうも付け加えたい。革新なくして未来なし、と。新しいオウタヴィアが、過去に敬意を表しつつも、過去の復刻版に留まらない理由だ」。1962年に、ジャック・ホイヤーは全く新しい腕時計クロノグラフ、オウタヴィアでホイヤーに新しい道を開いた。今再び、その名前は蘇り、タグ・ホイヤーの新しい未来を指し示そうとしている。