ハリー・ウィンストン/レトログラード Part.1

ハイジュエリーだけでなく、高級時計の分野でも大きな存在感を見せるハリー・ウィンストン。時計好きが注目するのは複雑なオーパスだが、むしろ同社らしさを象徴するのは、「HW プルミエール・バイレトログラード パーペチュアルカレンダー」に始まるレトログラードシステムだろう。そもそもはジャン-マルク・ヴィダレッシュの個人的な好みによる機構だったが、同社はこのメカニズムに磨きをかけ続け、今やハリー・ウィンストンのアイコンにまで成長させたのである。

HW オーシャン・レトログラード オートマティック 42mm

広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
星武志:写真 Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas)
[クロノス日本版 2020年3月号初出]

ある独立時計師の着想から生まれた〝メカニカルアイコン〟の嚆矢

 今や、時計業界では当たり前となりつつある「メカニカル・アイコン」という概念。ひょっとして、これを初めて時計業界に持ち込んだのはハリー・ウィンストンかもしれない。1989年に発表されたレトログラードは、いかにして同社のアイコンとなったのだろうか?

 今や、時計業界で大きな位置を占めるようになった、非時計専業メーカー。さまざまなジャンルのメーカーが時計の分野に進出し、時計関係者の冷笑をよそに、大きな成功を収めるようになった。

HW プルミエール

(左)[1989/第1世代] HW プルミエール・バイレトログラード パーペチュアルカレンダー
1989年初出。レトログラードの先駆けにして、ハリー・ウィンストンのアイコン。ジャン-マルク・ヴィダレッシュの開発したレトログラード式の永久カレンダーモジュールを搭載する。自動巻き(Cal.3106 QP、FP71+モジュール)。31石。2万1600振動/時。18KWG(直径37.5mm)。参考商品。
(右)[2008/第2世代] HW プルミエール・エキセンター パーペチュアルカレンダー
パーペチュアルカレンダーの第2作。発表は2008年。旅行者にも使いやすいよう、第2時間帯が加えられたほか、曜日と日付表示が9時側に寄せられた。モジュールは、クロノグラフ以降の、慣性を下げる設計が採用されている。自動巻き(GP 3306+HW111モジュール)。36石。2万8800振動/時。18KWG(直径41mm)。参考商品。

 先駆けとなったのは、間違いなくハリー・ウィンストンである。創業以来、ハイジュエリーのみを作ってきた同社は、ジュエリー同様、他にはない時計作りを目指すようになった。その第1号としてリリースされたのが、「HW プルミエール・バイレトログラード パーペチュアルカレンダー」だった。発表は1989年。ハリー・ウィンストンがいかに野心的であったかは、本作の構成を見れば分かる。80年代後半、腕時計用の永久カレンダーモジュールを製造できるメーカーは、数社しかなかった。中でも際立っていたのが、デュボア・デプラである。70年代後半にETAが試験的に導入したワイヤ放電加工機を、同社は大々的に採用し、複雑時計の部品を、手作業によらずに量産することに成功した。デュボア・デプラのモジュールにより、70〜90年代にかけて、多くのメーカーが永久カレンダーをリリースするようになった。

 ハリー・ウィンストンは高価な機械式時計に注目したが、しかし、どこにも存在しないものを作ろうと考えた。白羽の矢を立てたのは、後にアジェノーを興し、レトログラードのマスターと称されるに至った、ジャン-マルク・ヴィダレッシュである。彼は、当時珍しかった永久カレンダーを、デュボア・デプラが開発したことのない、レトログラードにしようと考えた。協力したのは、故ロジェ・デュブイだった。ヴィダレッシュはこう語る。「時間の始めと終わりが分かるから、私はレトログラード表示を好む。やがてそれは私の専門分野となった」

 もともとヴィダレッシュは、薄型時計の組み立てやスケルトナイズの製作を得意としていた。80年代、彼は薄型時計向けにリュウズで操作できるムーンフェイズモジュールを設計したが、薄型を好んだ彼らしく、モジュールの厚みはわずか0.6㎜しかなかった。そんなヴィダレッシュは、レトログラードも、可能な限り薄く作ろうと考えたのである。

 彼がベースに選んだのは、極薄自動巻きのフレデリック・ピゲ71。その上に永久カレンダーモジュールを被せ、そこにカムとレバーを重ねることで、日付と曜日をレトログラード化してみせた。以降、薄いレトログラードという特徴は、ハリー・ウィンストンの大きな個性となる。もっとも、初めてのレトログラードということもあって、設計は後年のものほど洗練されていない。例えば、針をゼロリセットするためのバネ(帰零バネ)。HW プルミエール・バイレトログラード パーペチュアルカレンダーのバネは、調整しやすい、シンプルな線バネのような形を持っている。ワイヤ放電加工機が普及した現在、帰零バネはこういう〝乱暴な〞形状を持たない。しかし高度な工作機械のない時代、レトログラードの製作は、熟練工の腕のみに頼らざるをえなかったのである。

HW プルミエール・エキセンター パーペチュアルカレンダー

[第3世代/2010] HW プルミエール・エキセンター パーペチュアルカレンダー
2010年の第3作。基本は08年モデルに同じだが、文字盤の仕上げが、他のモデルと共通に改められた。筆者の印象を言うと、08年以降、ハリー・ウィンストンがレトログラードに距離を置くようになった。再び注力するのは、スウォッチ グループによる買収以降のことである。基本スペックは第2世代に同じ。参考商品。

 1989年にリリースされたレトログラードを、ハリー・ウィンストンは毎年のように進化させていった。やはり、設計に携わったのはヴィダレッシュだった。「やがて私はレトログラードにさまざまな表示を加えるようになったが、最も難しいのは秒針のレトログラード表示だった。というのも、輪列のわずかな変更が、携帯時に問題を引き起こしたためだ」(ヴィダレッシュ)。問題をクリアしたハリー・ウィンストンは2001年、60秒レトログラードを持つ「HW プルミエール・エキセンター」をリリースした。

 以降、同社は秒レトログラードをさらに改良し、やがて、自動巻きクロノグラフのレトログラード化にも成功した。ベースムーブメントは、薄型自動巻きクロノのフレデリック・ピゲ1185。その上にヴィダレッシュは、アジェノー2831という、やはり薄いレトログラードモジュールを重ねたのである。

 設計は極度に洗練されており、慣性を下げるためにカムやレバー類は大きく肉抜きされたほか、テコの原理を効かせて軽く動かすために、レバー類は長くされた。帰零の動力源はシンプルな線バネ。バネ力は弱いが、レトログラードの慣性を下げたため問題はない、とヴィダレッシュは判断したのだろう。バネで強制的に帰零させるレトログラードは理論上衝撃に弱いが、クロノグラフに重ねただけでなく、それをスポーツウォッチの「プロジェクト Z1」にも載せたところに、ジャン-マルク・ヴィダレッシュと、ハリー・ウィンストンの自信が見て取れよう。

 なお、同社はこのレトログラード表示を持つクロノグラフに、さらにフライバック機構を加えてみせた。大きな違いは帰零バネ。細い線バネは、コンパクトだがバネ力の強いヒゲゼンマイに変更され、フライバックの頻繁な作動によっても、確実に動くようになった。

 以降も同社は、レトログラードの改良に努めた。さらに変わったのは、同社がスウォッチ グループの傘下に収まった2013年のこと。長らくアジェノーのモジュールに依存していたハリー・ウィンストンは、ブランパンの協力を得て、レトログラードモジュールを進化させたのである。ここで重要だったのは、スウォッチ グループの厳格な品質基準が、ハリー・ウィンストンの複雑時計にも適用されたことだった。結果、同社のレトログラード機構は、レトログラードらしからぬ耐衝撃性を持つようになったのである。

 数十年をかけてレトログラードを熟成させてきたハリー・ウィンストン。続いて同社が取り組んだのは、同社が得意とする、超コンプリケーションへの転用だった。