1795年にアブラアン-ルイ・ブレゲが発明したトゥールビヨンは、時計師たちの夢の機構だった。しかし、ブレゲ本人は35個の懐中時計を製作したのみであり、それが腕時計に搭載されるまでには、実に2世紀近くの年月を要した。腕時計トゥールビヨンを実現させたのはスウォッチ グループである。当時の総帥だった故ニコラス G.ハイエックは、驚くべき情熱で、ブレゲにトゥールビヨンの伝統を取り戻したのである。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2020年11月号初出]
19世紀にブレゲが挑んだ〝偏差の補正装置〟から
工業化された〝腕時計トゥールビヨン〟へと至る道
ブレゲが1801年に特許を取得したトゥールビヨンは、長らく一部の人間しか知らない幻の機構だった。復興を果たしたブレゲは、1988年に腕時計にトゥールビヨンを搭載したが、それはあくまでニッチなものだった。その価値が再発見されるには、スウォッチ グループによる同社の買収を待たねばならなかった。
アブラアン-ルイ・ブレゲが1795年に完成させたトゥールビヨンは、心臓部であるテンプを強制的に回転させることで、重力の影響をキャンセルするという複雑機構である。この機構は、精密な部品と正しい調整がなされていれば、ブレゲがいうところの「ギャル・ド・タン」(精密測定機器)並みの精度を出すことができた。もっとも、優れた工作機械がない時代に、精密な部品を作ることも、高い精度を与えることも難しかったし、トゥールビヨンのメリットを理解する顧客も皆無だった。ブレゲのギャル・ド・タンが16カ月で約1秒半の精度を出しているのに、なぜ数千フランも払って、トゥールビヨンなど買う必要があるのか?
No.282と169というふたつのプロトタイプを完成させた後、アブラアン-ルイは1805年に初のトゥールビヨンを販売した。しかし、彼は生涯の間に、たった35個のトゥールビヨン(現存するのは10個)しか製作しなかった。トゥールビヨンに対して懐疑的だったとは思えないが、より効果の高い方法を模索していたことは間違いない。トゥールビヨンは、性能を出すにはあまりにも高価に付き過ぎたのである。なお、彼の後裔にして、ブレゲの副社長であるエマニュエル・ブレゲは、大著「ブレゲ 天才時計師の生涯と遺産」の中で、アブラアン-ルイの発明したトゥールビヨンをこう評している。
「ブレゲ固有の非常に特殊ないくつかの発明は、明確な実用性を備えていなかった。その筆頭が、商売上は失敗した同調時計、パンデュール・サンパティック(シンパティック・クロック)である。20世紀末というはるか後になって成功を収め、一躍人気の的になったトゥールビヨンも、ある程度こうした部類に含まれるだろう」
事実、トゥールビヨンを購入した顧客たちが、精度を追求するよりも、他にはないステイタスシンボルを求めていたことは、あまりにも豪華な顧客リストが示す通りだ。
もっとも、ブレゲに先見の明があったことは、19世紀後半以降の時計師たちが証明することとなる。とりわけ、ジュウ渓谷の時計師たちは、驚くほどの細心さをもって、トゥールビヨンという機構に、際立った高精度を与えることに成功したのである。とはいえ、トゥールビヨンを製作・調整できるほどの時計師は数えるほどしかいなかった。アンティコルムの記述によると、1801年から1980年代に至るまでに製造されたトゥールビヨンは、延べ650個のみといわれている。
1970年にブレゲの商標と、少しばかりの古い在庫、そして顧客台帳をブラウン家から買い取った宝石商、ジャック・ショーメとピエール・ショーメの兄弟は、当初ブレゲに対して何の展望も持っていなかった。しかし、ヴァシュロン・コンスタンタンの紹介で同社に参画したフランソワ・ボデは、ブレゲの歴史と遺産に魅了された。73年、彼はショーメ兄弟を口説いて時計専門店の「レ・テンポレレ・ショーメ」をヴァンドーム広場に開設。取り扱うブランドは、オーデマ ピゲ、ショパール、コルム、デラノー、エベル、ジェラルド・ジェンタ、ジャガー・ルクルト、ロレックスだった。この試みは成功を収め、同店は年間約700本もの時計を売るようになったのである。時計ビジネスの成功を見たショーメ兄弟は、死蔵していたブレゲに新たな可能性を見出した。具体的には、ブレゲ銘の時計を、レ・テンポレレ・ショーメでも売ろうと考えたのである。もっとも、ショーメが持っていたのは、ブラウン家の時代に作られた古い在庫だけだった。
74年にフランソワ・ボデは、オーデマ ピゲCEOのジョルジュ・ゴレイに会い、ジュウ渓谷にブレゲの工房を設立したいこと、そしてオーデマ ピゲの時計師を雇いたいという相談を持ちかけた。ゴレイの許可のもと、6名の時計師がブレゲに移籍。その中のひとりにダニエル・ロートがいた。そして、その2年後には、ル・サンティエ時計学校の教授職を務めていたジャック・レイモンドが技術部長として、ルイ-モーリス・カリエがプロトタイピストとして加わり、ブレゲの工房がジュウ渓谷に置かれることとなった。
工房を構えた当初のブレゲは、ショーメの顧客が好みそうなシンプルな時計だけを製造していた。ケースの形状はオーバルやクッション。そしてストラップはエルメス製。しかし、工房の充実に伴い、ブレゲが原点回帰を考えたのは当然だろう。78年(または80年)にブレゲは、パーペチュアルカレンダームーンフェイズの3050を発表。年産わずか数本、そして極め付きに高価(当時価格で5万4000フランスフラン)だったが、この複雑時計は大きな注目を集めた。以降ブレゲは、古典的なスタイルを持つ複雑時計を指向するようになる。続く83年に、ブレゲはパワーリザーブインジケーターとポインターデイトを備えた3130をリリース。また同年にはバーゼル・フェアにブースを構えるようになった。
優秀な時計師を擁し、ル・サンティエの工房を拡充したとはいえ、当時のブレゲは各社から集めたコンポーネントを組み立てるアッセンブラーでしかなかった。年産数はわずか500〜700本。そうした状況にあった当時のブレゲが、なぜ腕時計にトゥールビヨンを搭載するという大事業を試みたのか?
ブレゲのリバイバルを後押ししたのは、1980年代以降の機械式時計ブームだった。オーデマ ピゲは永久カレンダーを大量生産し、続いてブランパンがトリプルカレンダームーンフェイズを発表。83年には、ETAが自動巻きクロノグラフ7750の再生産を開始した。そうした流れの中で、一部の時計師やメーカーは、幻の機構と言われたトゥールビヨンを腕時計に載せることを考え始めた。84年、フランク ミュラーがユニークピースの「オシレータートゥールビヨン」を発表。86年にはオーデマ ピゲが自動巻きトゥールビヨンの「カナペ」をリリースした。少量生産とはいえ、世界初の量産トゥールビヨンとなったカナペは、時計業界に大きなインパクトを与えた。オーデマ ピゲとの関係が深かったフランソワ・ボデが、こうした動向に無頓着だったとは思えない。
ボデはこう記している。「1987〜88年にかけて私たちは、1795年に発明され、1801年の6月26日に特許を取得した〝ブレゲ・トゥールビヨン〞について学び始めた。(中略)90年に再リリースするまで、3年ものリサーチ期間を要した」。こうして完成したのが、「トゥールビヨン 3350」であった。ブレゲのプレス資料によると、同モデルの発表は1988年。2年間のタイムラグは、市販までに時間がかかったことを意味する。
大きな理由は、ブレゲの親会社であるショーメの破綻だった。ジュエリーの売り上げが下がったことに加えて、ショーメ兄弟が投機に失敗したことで、同社は深刻な経営危機にさらされていたのだ。87年、ショーメ兄弟は宝飾部門とブレゲを含む時計製造部門を、投資会社のインベストコープに売却する。
売却に伴いダニエル・ロートはブレゲを退職し、自らの名を冠した時計ブランドを設立。今回ダニエル・ロートは、本誌からの取材に対してこう述べている。「新しく興した会社のためにトゥールビヨンを作ろうと思ったが、その時間はなかった。そこで、プロトタイプも製作できるヌーヴェル・レマニアにトゥールビヨンの設計と製造を依頼した。そのプロジェクトは、ブレゲとの共同によるもので、開発費用の半分はブレゲが出資していた。技術的なことはすべてヌーヴェル・レマニアに任せたが、同社の依頼により、週に1回、審美的なアドバイスを行った」。ブレゲ最初の腕時計トゥールビヨンは、元社員であるロートと、ブレゲの共同プロジェクトだったわけだ。
もっとも当時のヌーヴェル・レマニアに、まったく新しい腕時計トゥールビヨンを設計できる力があったとは考えにくい。70年代以降、同社が注力したのはレマニア5100のような安価な機械式ムーブメントであり、トゥールビヨンとは真逆だったのである。おそらく、レマニアは設計と部品製造の一部を外部に委託したに違いなく、それが、90年代以降、各社がブレゲに酷似したトゥールビヨンをリリースするようになった一因ではないか。
ショーメ兄弟からブレゲを買収したインベストコープは、時計部門をブレゲグループに再編し、ブレゲのプレステージをいっそう高める方向性を取った。その象徴となったのが、91年4月にハプスブルグ・フェルドマン(現アンティコルム)の開催したテーマオークション「ジ・アート・オブ・ブレゲ」だった。時計史家にして、同社のエキスパートであるジャン-クロード・サブリエの協力を仰いで開催されたこのイベントは大成功のうちに終わり、以降ブレゲは、プレステージを強調すべく、歴史と複雑機構にフォーカスするようになっていく。市場認知度の劇的な向上は、ブレゲに大きな効果をもたらした。87年に約1200本だった年産数が、93年には約4700本へと急増したのである(実際はもっと低かった、という説もある)。
ショーメやブレゲ、そしてエベルやヌーヴェル・レマニアを継承したインベストコープは、90年代後半には大きな利益を上げるようになっていた。しかし99年9月14日、同社は、ショーメとエベルをLVMH グループに、ブレゲとヌーヴェル・レマニア、そして部品製造を行うヴァルダーをスウォッチ グループに売却した。スイスの時計専門誌である「ヨーロッパスター」は、前者の売価は4億6000万スイスフラン、後者の売価は2億5000万スイスフランだったと記している(もっとも別の経済アナリストは、売却額を6000万〜1億スイスフランと予想していた)。
ブレゲがトゥールビヨンに傾倒するようになるのは、スウォッチ グループの傘下に収まって以降のことだ。同グループのCEOであるニコラス G.ハイエックは、ブレゲの工房を訪問した後、その問題点と、それ以上に価値をたちどころに理解した。彼は、ブレゲを経営させてくれというジャン-クロード・ビバーの申し出をにべもなく拒絶し、自らブレゲのCEOに就任したのである。彼はまず生産設備を改善するために約8000万スイスフランを投じ、以降も巨額な投資を続けた。
ハイエックの手法はきわめて明快だった。まずは、生産性を向上させ、流通網をスウォッチ グループと共有することで、価格をライバル並みに引き下げる(これは後にナイラ・ハイエックがハリー・ウィンストンで採用した手法と同様だ)。同時に並行市場への供給を抑制し、市場価格を底上げする。最後に、スポーツウォッチに傾倒していたマーケティングの手法を、歴史と複雑時計に戻す、である。その鍵となったのが、アブラアン-ルイ・ブレゲが1795年に発明したトゥールビヨンだったのだ。2001年の広告を見るとスポーツウォッチは姿を消し、「あなたのために発明しました」というタイトルのもと、自動巻きのペルペチュアル、高名なブレゲ針、そしてトゥールビヨンの3つが強調されている。続いて行われた「トゥールビヨンの発明者:ブレゲ」というプロモーションは、たちまちトゥールビヨンブームを巻き起こしたのである。
その象徴が、2002年の5月にヴェルサイユ宮殿で行われた「トゥールビヨン発明200年祭」だろう。この中で、ハイエックはブレゲをこう評している。「ブレゲは、起業家になったアーティストである」。ハイエックは、自身の姿を在りし日のアブラアン-ルイに投影したのかもしれず、それを体現したものがトゥールビヨンだったのではないか。「アームバンドウーレン」誌の編集長であるペーター・ブラウンに対して、かつてハイエックはこう語った。「年産10万本、トゥールビヨンは1万本作りたい」。1万本は不可能としても、08年の時点で、ブレゲは年に約1000本のトゥールビヨンを製造するようになっていたとヨーロッパスターは推測する。それを可能にしたのは、07年にブレゲの工房として統合された旧ヌーヴェル・レマニアと、巨額の投資がもたらした、新しい生産設備だったのである。
ハイエックが目指したのは、単にトゥールビヨンを作ることではなく、それが実際に高い精度を持つことだった。実用性を重視するハイエックにとって、約10万スイスフランのトゥールビヨンが、単なる飾りでしかないというのは耐えがたいことだったのである。ハイエックに招聘されてブレゲに入社した現副社長ナキス・カラパティスは、当時をこう回顧する。「ハイエック・シニアからはよく電話がかかってきましたよ。時計が磁気帯びした、解決策を考えろ、みたいにね。タフでしたけれども鍛えられました」。
そうした試みの集大成が、約5日巻きの自動巻きトゥールビヨンである5317だ。キャリッジを磁気帯びしないチタンで作ったこのモデルは、ブレゲのトゥールビヨンが向かう方向性を明確に示していた。以降の展開は読者もよくご存じの通りである。精度を高めるべく、緩急装置はフリースプラングに変更され、新しいモデルの脱進機は、軽くて磁気帯びしないシリコン素材に置き換えられた。ハイエックのもと、ブレゲのトゥールビヨンは、発明者であるアブラアン-ルイが望んだ以上のものとなったのである。
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