2012年初出の「ブラックベイ」で時計業界に一石を投じたチューダー。プライスレンジ以上の外装を持つこのコレクションは自社製ムーブメントの採用でさらに魅力を増した。その進化をもたらしたのは、半世紀にもわたるチューダーのダイバーズウォッチへの取り組みだった。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2021年9月号掲載記事]
BLACK BAY CERAMIC[Ref. M79210CNU]
マスター クロノメーターに準じた超耐磁モデル
ほぼセラミックス製の外装に、マスター クロノメーター準拠の高性能ムーブメントを合わせた野心作。実用性は傑出している。自動巻き(Cal.MT5602-1U)。25石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。セラミックス×SS(直径41mm)。200m 防水。53万9000円(税込み)。
2016年発表の2代目「ヘリテージ ブラックベイ」(Ref.79230)で、一躍ダイバーズウォッチのメインストリームに躍り出たチューダー。万人が好むであろうレトロシックなデザインに、約70時間という長いパワーリザーブ、シリコン製のヒゲゼンマイにフリースプラングテンプを組み合わせた自動巻きムーブメントの搭載は、この価格帯では随一と言って良いハイスペックだった。
しかし、チューダーはこの傑作のさらなる改良を進めていた。2021年に発表された「ブラックベイ セラミック」は、外装の大半にセラミックス素材を採用しただけでなく、1万5000ガウスの耐磁が求められる、マスター クロノメーター規格をクリアしていたのである。長らく、オメガの独擅場だったマスター クロノメーター規格。まさかチューダーも採用するとは誰が想像しただろうか?
ケースの構造も既存のブラックベイとは全くの別モノだ。一見すべてセラミックス製だが、実はSS製のインナーケースにセラミックス製の外枠を被せ、そこにSS製のベゼルと裏蓋を合わせている。あえて、すべてをセラミックスにしなかったのは、おそらくチューダー独自のユニークな回転ベゼル機構をそのまま生かし、またねじ込み式の裏蓋を与えたかったためだろう。ベゼルを硬いセラミックス製にすると回転ベゼル機構が傷むし、インナーケースがセラミックス製では、ネジを切ることもできないためだ。頑強さを考慮した設計は、1954年以降続く、チューダー製ダイバーズウォッチの美点と言える。
2012年のブラックベイ以降、内実共に大きく変わったチューダー。本作は、そんな「攻める」チューダーを象徴するモデルと言える。ではチューダーは、いかにして、導入不可能と言われてきたマスター クロノメーター規格をクリアしたのだろうか?
METASの検査ラボを導入した
マニュファクチュール最新事情
長らく、オメガの独擅場だったMETASによるマスター クロノメーター規格。理論上は可能だが、他社は採用不可能と思われたこの規格を、チューダーはクリアしてみせた。では、なぜそれが可能になったのか。背景と理由をひもといていきたい。
39mmケースの「ブラックベイ フィフティ-エイト」が搭載するのが、小径のCal.MT5400系。直径30.3mmのMT5400と、直径26mmのMT5402がある。自動巻き(直径26mm、厚さ5.0mm)。27石。パワーリザーブ約70時間。シリコン製ヒゲゼンマイとフリースプラングテンプ。C.O.S.C.クロノメーター。静態精度-2秒~+4秒以内。
METAS(スイス連邦計量・認定局)によるマスター クロノメーター規格は、現時点で、機械式時計に対する最も過酷な規格と言ってよい。これは、カリテ・フルリエのような極端な耐衝撃テストはないものの、精度、耐磁性、防水性、パワーリザーブなど、機械式時計に求められる機能特性のほぼすべてを検査対象としたものだ。
スイスで機械式時計を製造するメーカーならば、マスター クロノメーターのテストを受けることは可能だが、2021年までオメガが独占していた。その理由は3つある。ひとつは、C.O.S.C.クロノメーターと異なり、ムーブメントをケースに収めた状態で精度を測る必要があること。一見簡単そうに思えるが、精度が出なければ、ケースからムーブメントを取り外す必要がある。ムーブメント単体をテストするC.O.S.C.クロノメーターと異なり、マスター クロノメーターのモデルを大量生産するなら、組み立てる工場内に検査用のスペースを設けなければならない。今後、マスター クロノメーターを大々的に採用するという意志がない限り、工場内にこういったスペースを捻出するのはまず不可能だ。
直径41mmの「ブラックベイ」を駆動するのが2015年初出のCal.MT5600系である。これはカレンダーを省いたCal.MT5602。自動巻き(直径31.8mm、厚さ6.5mm)。パワーリザーブ約70時間。シリコン製ヒゲゼンマイとフリースプラングテンプ。C.O.S.C.クロノメーター。静態精度-2秒~+4秒以内。
そしてもうひとつが、1万5000ガウスという超耐磁性能である。これをクリアするには、少なくとも全く磁気帯びしない、シリコン製のヒゲゼンマイを採用しなければならない。しかし、この部品を使える時計メーカーは、スイスでもごくわずかだ。また、それ以外の重要な部品にも、非磁性の素材を使う必要がある。こういった部品の入手は難しくないが、非磁性の素材は簡単に摩耗してしまう。筆者の知る限り、スイスでも、トライボロジー(摩擦学)に取り組めるほどのメーカーは数えるほどしかない。
そして最後の難関が「ふたつの異なるパワーリザーブ残量状態での精度テスト」だ。これは主ゼンマイの残量が100%の状態と、33%の状態での精度を測定するもの。1万5000ガウスの試験に比べて簡単そうに思えるが、これが一番やっかいなのである。
Cal.MT5602をマスター クロノメーター化したのがCal.MT5602-1Uである。仕上げもブラックに変更された。C.O.S.C.クロノメーターおよびMETASマスター クロノメーター。1万5000ガウス耐磁。静態精度±0秒~+5秒以内。他の基本スペックはCal.MT5602に同じ。
オメガの採用するコーアクシャル脱進機は、かつてマリンクロノメーターなどが採用した、デテント脱進機をベースとしている。複雑で生産性も悪いが、主ゼンマイの残量が少ない状態でも、精度を維持しやすいというメリットがある。これが、オメガが成立に関わったマスター クロノメーター規格に、主ゼンマイの残量が33%という状態での精度テストが加えられた理由と言われている。
対して大多数の機械式時計が使うスイスレバー脱進機は、生産性に優れ、衝撃にも強いが、主ゼンマイの残量が少なくなると、たちまち精度を悪化させてしまう。軽いシリコン製脱進機を使えば問題は軽減されると言われるが、それでもコーアクシャル脱進機ほどの安定性は保てない。リシュモン グループのある設計者が「マスター クロノメーター規格は、コーアクシャル脱進機を前提としたものでしかない」と苦々しげに語ったのには、こうした理由があったのである。
しかし、チューダーはこれらの課題をクリアし、「ブラックベイ セラミック」を、マスター クロノメーター規格に通すことに成功した。もっとも、最初のモデルがセラミックス製であったのは偶然ではなさそうだ。フランスのジャーナリストであるグレゴリー・ポンスは「(ブラックベイ セラミックが採用した)セラミックス製のケースとシリコン製のヒゲゼンマイは磁気帯びしないし、総タングステン製のローターもほぼ磁気帯びしない。だから、他のモデルに比べてマスター クロノメーター化は容易だったのではないか」(『BUSINESS MONTRE』より抜粋)と記している。
チューダー曰く「METASとの作業は2019年末に始まり、ジュネーブの工場内にMETASの検査工程を設けることになった」(『LE TEMPS』より抜粋)とのこと。導入を可能にしたのは、チューダーの工場が、時計メーカーらしからぬほど効率的であるから、だろう。実際にジュネーブ・アカシア地区にあるチューダーの工場を訪問した先述のSJXは、ここではカイゼンを含むトヨタ式の「ジャストインタイム生産システム」と、いわゆる「5S」(整理、整頓、清掃、清潔、躾)が徹底されている、とわざわざ記している。
グレゴリー・ポンスのレポートによると、METASの検査工程は新しいビルディングの一角に設けられたようだ。ここでは完成品の時計が、マスター クロノメーターに準拠させるべく、6姿勢と2温度での静態精度、1万5000ガウスの耐磁性、200mの防水性、そして100%と33%のパワーリザーブテストを受ける。
興味深いのは、1万5000ガウスの耐磁テストが、完全な流れ作業であることだ。ポンスは、まだマスター クロノメーターモデルの年産は少ないと説明するが、流れ作業の工程は、将来チューダーがマスター クロノメーターモデルを量産する、という証しだろう。また、防水機能も、ISO規格の22810(2010年改訂版)に準拠しているかチェックされている。単なる防水テストではなく、すべての個体に対して、公的な基準にのっとった防水テストを行うのは、ありそうでなかった試みである。
マスター クロノメーターの導入でさらに競争力を高めるブラックベイ。しかし、チューダーの強みはそれにとどまらない。次ページではもうひとつの取り組みである、外装についても触れたい。今のブラックベイが人気を博した理由は、マスター クロノメーターが代表する優れた性能はもちろんだが、それ以上にいわゆる〝シックスポーツ〞を体現しているから、である。
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