2005年に発表されたブレゲ「トラディション」は、実用性とブレゲらしい審美性を両立させようと考えた、ニコラス G. ハイエック肝煎りのプロジェクトだった。彼亡き後も、ブレゲの開発チームはこの困難な課題に取り組み、今やトラディションを、一大コレクションへと成長させた。その歩みを、省スペースという観点から見ていこう。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2022年1月号掲載記事]
トラディションを彩る多様な付加機構
原点回帰から始まった拡張の足跡
裏に隠すべき香箱や輪列などを、あえて文字盤側に露出させたトラディション。その発想は、このコレクションをたちまちブレゲの新しいアイコンへと成長させた。しかし、それ故に高機能化の歩みは、決して容易なものではなかったのである。
2006年初出。手巻きの7027をベースに、片方向巻き上げ自動巻きを搭載したモデル。ケースサイズは1mm拡大された。自動巻き(Cal.505SR)。41石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50時間。18KYG(直径38mm、厚さ12.2mm)。30m防水。参考商品。
2009年の時点で、トラディションのさらなるファミリー化を公言したハイエック・シニア。多彩なラインナップをもたらしたのは、マニュファクチュール・ブレゲ(旧ヌーヴェル・レマニア)への莫大な設備投資だった。買収からわずか10年で、スピードマスター用のムーブメントを細々と製造していたエボーシュメーカーは、ハイエンドのコンプリケーションを製造する第一級のマニュファクチュールに姿を変えたのである。
1980年代以降、スウォッチ グループとその前身にあたるSMHグループは、多様なヒット作を生み出してきた。その好例がオメガの採用したコーアクシャル脱進機である。ハイエック・シニアはグループの総帥として生産性の改善やマーケティングに辣腕をふるい続けたが、プロダクトの開発で本当のイニシアチブを取るようになったのは、ブレゲの買収以降だったのである。さらに言うと、本当に彼が手掛けたと言えるのは「マリー・アントワネット」と、一連の「トラディション」シリーズだけだったのではないか。彼の力の入れようを思えば、ブレゲの公式サイトが、今なお筆頭にトラディションシリーズを挙げるのは当然だろう。
7057をベースにしたGMT時計が2016年発表の本作だ。10時位置のボタンを押すと、12時位置の時針を単独修正できる。昼夜表示付き。手巻き(Cal.507DRF)。40石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50時間。18KRG(直径40mm、厚さ12.65mm)。30m防水。466万4000円(税込み)。
2005年の手巻きから始まったトラディションコレクションは、翌06年に18KWGケースを追加。続いて自動巻きモデルと鎖引きのトゥールビヨンをラインナップに揃えた。10年には「トラディション 7027」が直径40mmへと拡大された「7057」に置き換わり、11年にはブラックダイアルとアンスラサイトカラーのムーブメントを組み合わせた、色違いも追加された。12年には、デュアルタイム表示を加えたGMTウォッチの「トラディション7067」が登場し、15年には全く新しい設計を持つ「トラディション インディペンデントクロノグラフ 7077」が発表された。
ハイエック・シニアのアイデアを、驚くべきスピードで形にしてきたのが、現副社長のナキス・カラパティスと、彼の率いたR&Dチームであった。05年に同部門のコーディネーターとしてブレゲに転籍した彼は、06年からR&D部門の責任者となり、16年には副社長に就任した。「真夜中にハイエック・シニアから電話がかかってきて、お客が困っているからブレゲの磁気帯びを解決しろと叱られた」と述べた彼に、筆者はトラディションの難しさを聞いたことがある。対してカラパティスは「機能を足すことよりも、審美性を満たすことが難しい」と即答した。
彼の言う「難しさ」を示す一例が、10年に「トラディショントゥールビヨン・フュゼ 7047」が採用したシリコン製の巻き上げヒゲだ。自由な形状を与えられるシリコン製のヒゲゼンマイであれば、そもそも巻き上げにする必要がない。しかしカラパティスは、ハイエック・シニアが望んだからわざわざシリコン製の巻き上げヒゲを作ったと答えた。硬いシリコン製のヒゲゼンマイを巻き上げることは不可能だが、ブレゲのR&Dチームは、線状に切り出したヒゲゼンマイをコネクターで連結することで、擬似的な巻き上げヒゲを完成させたのである。
10時位置にレトログラードセコンドを備えたモデル。裏側に機構を回すことで、シンメトリーなデザインを維持している。自動巻き(Cal.505SR1)。38石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50時間。18KRG(直径40mm、厚さ11.8mm)。30m防水。389万4000円(税込み)。
インディペンデント クロノグラフ 7077も同様だった。クロノグラフ用の別輪列を備えると、シンメトリーなトラディションのデザインは損なわれてしまう。そこでクロノグラフを駆動するための動力源として、ブレゲは普通のゼンマイに変えて、極薄の板バネを採用した。理論上はトルクの出方が不安定になるが、リピーターなどで使われるクシ歯を2枚重ねることでトルクを安定させた、とブレゲは説明する。駆動時間は20分しかないが、クロノグラフの精度はわずか±0.04秒と驚異的なうえ、シンメトリーなデザインにもほぼ影響がない。
普通に考えれば、こういう革新的な機構は、ブレゲよりも、オメガが載せるにふさわしい。しかし、スウォッチ グループは、あえて制約の大きなトラディションに採用したのである。カラパティスの言う審美性は、古典的でシンメトリーな造形に限らない。ブレゲの開発チームは、注意深く薄さと立体感の両立を目指したのである。開発に際してさまざまな特許を得てきたが、それらの大半はシンプルでコンパクトなメカニズムを実現するものだった。トラディションの方向性は、最初から一貫して変わっていないのだ。
ハイエック・シニアがトラディションに魅せられた理由は、05年のマルコム・ラキンが著したインタビュー記事から読み取ることができる。ラキンに対してハイエック・シニアはこう述べた。「他と違うからといって、私たちが絶対にバカげた時計を作ることはない。しかし、私たちは、他の人たちを無視して、自分たちの直感、感覚、美意識に基づいて時計を製作する」。
トラディションの10周年に発表されたクロノグラフ。手巻き(Cal.580DR)。62石。2万1600振動/時(時計)およびパワーリザーブ約50時間(時計)。3万6000振動/時及び20分(クロノグラフ)。18KRG(直径30mm)。3気圧防水。939万4000円。
1980年代にスイスの時計業界を立て直したハイエック・シニアは、ブレゲという「真珠」を手中に収めることで、経営者としてだけではなく、プロダクトマネージャーとしての才能も自覚した。ブレゲの買収から間もなく、彼があれほど力を入れていたコンパクトカーのプロジェクトから撤退をめた理由だろう。そしてハイエック・シニアは、自らがブレゲと同じくらいの天才であることを、プロダクトを通じて示したかったに違いない。マリー・アントワネットの完璧な復刻と、ブレゲのお家芸であるシンメトリーデザインへの傾倒は、晩年のハイエック・シニアが、どこに向かおうとしていたかを示している。
ハイエック・シニアの突き付けた高機能と審美性の両立という命題は、彼亡き後も、ナキス・カラパティス率いるブレゲの開発チームに受け継がれた。その豊かな実りを示すのが、下で紹介するトラディションの最新作、「レトログラード デイト 7597」だ。
TRADITION QUANTIEME RETROGRADE 7597
最新作を彩る初代ブレゲのレトログラード式日付表示
9時位置から3時位置にかけてレトログラード式の日付表示を備えたモデル。クシ歯を文字盤下に隠した構成は巧みだ。自動巻き(Cal.505Q)。45石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約50時間。18KRG(直径40mm、厚さ12.10mm)。30m防水。451万円(税込み)。
機能性と審美性を両立させてきたトラディション。その最新作がレトログラード式の日付表示を持つ「トラディション レトログラード デイト 7597」である。既存の7057にレトログラードを増やしただけかと思いきや、決してそうではない。ベースとなった7057のケース厚は11.65mm。対して本作は、香箱真と同軸にレトログラード式のデイト表示を加えながらも、厚さ0.45mm増に留まっている。
スウォッチ グループに参加した1999年以降、ブレゲはさまざまな特許を得てきた。トラディションに関して言えば、特許の方向性は機構の小型化に集中している。トラディションのレトログラード デイト化を実現したのは、初代ブレゲが発明した香箱真を細くする技術だった。これはそもそも、同じ体積の香箱により長いゼンマイを詰め込んでパワーリザーブを延ばすための手法だが、ボールベアリングで保持することで、高さを抑えられるというメリットもある。
ブレゲは明示していないが、穴石ではなく、ベアリングで保持される薄い香箱は、同軸にレトログラード機構を重ねることを可能にした。レトログラードの針にも工夫が凝らされた。日付を示すための青針には、複雑な曲げ加工が施されているが、青焼きした時分針と色味を揃えたのは、さすがブレゲである。また針が軽いため、レトログラードは無理なく帰零する。
機能性と審美性を両立させる中で、ブレゲはトラディションに載せる機構の省スペース化に取り組み続けた。最もベーシックに見える7597は、そんなブレゲが至ったひとつの完成形といえる。付加機構を加えながらも、オリジナルの7027とほぼ変わらないデザインにまとめたのは、ブレゲの非凡な努力の帰結だ。ニコラス G. ハイエックが愛したトラディションとは、そう言って差し支えなければ、新しいブレゲを最も体現する存在なのではないだろうか。
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