3月19日、晴れのち曇り
時計の世界に興味を持ち始めて50年、スイスという時計の国に初めて足を踏み入れてから38年、そして時計と宝飾品の祭典バーゼルに通い始めておよそ35年の歳月が流れた。
僕が初めて来た頃、確かその名称は今日のようにバーゼルワールドとは言わず、まだ“バーゼル・フェア”と言っていたように思う。
毎年の春、復活祭の前にこのスイスとフランス、そしてドイツの3国が国境を接する中世以来の町に、春をことほぐ大きな市が立つようになったのは14世紀のことで、それぞれの国の特産品のワインやチーズなどの農産物そして農耕器具や鍛冶屋が作るさまざまなもの、絨毯や家具なども商われたことだったろう。
この春の交易の市が第2次大戦の戦後となり世界に平和が訪れると、やがて時計と宝飾品の見本市へと特化されてきたのだそうだ。
フェアに通い始めた1980年代後半に僕が興味を持っていたのは、大手の時計会社に属さず、ひとりコツコツと時計を作っている、いわゆるインディペンデントな時計師たちで、発起人のスヴェン・アンデルセンやヴィンセント・カラブレーゼによって始められ、通称“アカデミー”という同人に名を連ねていた、ジョージ・ダニエルズ、フランク・ミュラー、アントワーヌ・プレジウソ、フランソワ-ポール・ジュルヌといった、時計の歴史を変えてくれた人々だった。
あの時代、彼らの新しい試みと、工夫にあふれた新作時計を見せてもらうのは、どれほどエキサイティングな体験だっただろうか。
そして黒い森でオルガン・クロックを作っているマシアス・ネシュケや、英国時計の粋を作り続けているシンクレア・ハーディング、世界一長い振り子を持つクロックを、ジュネーブのホテル コルナヴァンのために作ったジャン・カゼスなどの、クロックの世界の面白さに出合えるのもバーゼルならではの楽しみだった。
彼らの作品が展示してあるアカデミーのブースは、1号館の裏手の5号館にあり、なぜかそこには巨大なオリエント・エクスプレスの客車が据えられていたものだった。後で知ったのだがそれは実物のレストランカーであり、そこで食事を楽しむことができたのだそうだ。
そうとは知らずに僕は、会場内にあったフォンデュやラクレットなどのスイス料理がいただける山小屋風レストランや、会場のまわりに出ている屋台の、白くて大きな焼きソーセージを好んで食べていたものだった。
その時代、まだバーゼル・フェアで取材をしている人は少なく、僕のほかは時計専門誌『タイムスペック』(当時)の当時記者だった香山知子・現『世界の腕時計』編集長や、時計宝飾の業界紙の人ぐらい。多くの男性誌が参入するのは1990年代の半ば以降だったと思う。
バーゼルに出かけるといろんな発見があるが、何より時計好きの魂が震えるのは、実際の作り手に会えて、話が聞けるところにあった。当時は珍しかったトゥールビヨンの作り手のダニエル・ロートに会えたり、時計デザイン界の巨匠ジェラルド・ジェンタに会えたりするのも楽しい体験だったものだ。
もちろん時計界のジャイアントであるロレックスやオメガ、当時は1号館の真ん中に陣取っていたカルティエ、ジャン-クロード・ビバーが再建した初期のブランパン、また時計界のピカソの異名を持っていたアラン・シルベスタインなど、たくさんのブースを見て歩くのも楽しかった。
その時計界の春の祭典に今年もやって来ることができた。数年前からバーゼルメッセ会場は新しい建築となり、出展する顔ぶれにも変化があった。
今年はどんなトレンドが会場を埋め尽くすのか、このブログでその様子を紹介したいと思う。乞うご期待。。