2013年1月22日の日本銀行金融政策決定会合において、物価安定目標を2%と定めたインフレターゲットの導入決定以降、遅々として進まなかった日本のインフレターゲット政策。しかし、新型コロナウイルス禍とロシアが引き起こしたウクライナ戦争の影響による輸入インフレで、国内物価が押し上げられ、22年4月の消費者物価指数は、生鮮食品を除いたベースで前年比2.1%まで上昇。世界に遅れて日本でもインフレによる景気後退懸念が急速に強まっている。
減速する世界経済を背景に、世界、そして日本の高級時計市場はどうなるのだろうか?気鋭の経済ジャーナリスト、磯山友幸氏がその現状と展望を分析・考察する。
Text by Tomoyuki Isoyama
ロイター/アフロ:写真
Photograph by REUTERS/AFLO
世界に遅れてインフレが進む日本だが
低金利政策と円安で「実物資産」=「高級時計」への需要は高い
世界経済の減速懸念が強まっている。世界銀行が6月6日に発表した「世界経済見通し」によると、2023年の経済成長率(実質GDPの伸び率)は2.1%となり、前年の3・1%から減速する。
激しいインフレを抑えるために急ピッチで利上げした米国の景気減速を見込み、23年は1.1%、24年は0.8%と一気にブレーキがかかるとしている。米国の経済成長率は21年に5.9%、22年も2・1%だったからまさに急ブレーキと言っていいだろう。
また、インフレが収まらないユーロ圏でも金利の引き下げによる景気鈍化懸念が強い。21年は5.4%、22年は3.5%と高い成長率を記録したが、23年は0.4%に落ち込む。
世界経済の減速懸念が強まるも米国と英国は金利を引き上げ
本来、景気後退懸念が強まれば、金利の引き下げに動くのが常道だが、米国も英国も金利引き上げの手を緩める気配がまだ見えない。それほど物価上昇圧力が強いと中央銀行が見ているためだ。
米国のFRB(連邦準備制度理事会)は6月13〜14日に連邦公開市場委員会(FOMC)を開催し、政策金利のフェデラル・ファンド金利の誘導目標を据え置いた。金利の据え置きは22年1月以来で、急ピッチで行われてきた金利引き上げが打ち止めになるとの期待もあったが、インフレ率の見込みが上方修正されたこともあり、年内に再度利上げが行われるとの見方が強まっている。
一方、米国と共に世界経済を牽引してきた中国経済の減速懸念も強い。世界銀行は23年の成長率を5.6%とし、22年の3.0%から回復すると見ているが、懸念材料も多い。国家統計局が発表した4月の若年層の失業率が20%を突破するなど、過去最悪を更新しており、景気の実態は楽観視できないとの声が出ている。6月には中国人民銀行が最優遇貸出金利を10カ月ぶりに引き下げるなど、当局も景気後退を懸念していることをうかがわせる。
今年前半は好調を維持するスイス時計の対外輸出額
そんな中で焦点なのが、好調を続けてきた世界の高級品需要の行方だ。スイス時計協会(FH)がまとめているスイス時計の全世界向け輸出額は、21年、22年と続けて過去最高を記録した。高いインフレ率が続くことは通貨価値が下落することになるため、貴金属や宝飾品、高級時計、不動産といった「実物資産」へのシフトが進んだことが需要を後押しした。また、新型コロナウイルスの蔓延で止まっていた旅行が復活したことで、旅行先での高級時計の購買なども急回復した。
世界経済の減速が懸念される中で、こうした「実物資産」への投資が冷え込むことになるのかどうか。スイス時計の1-5月の輸出額累計を見ると、前年同期を11.3%上回っている。これは22年の年間の伸び率とほぼ同じで、まだ一気に落ち込む気配は見えていない。今年後半の米国景気、中国景気がどこまで落ち込むかによって左右されそうだ。
インフレ圧力が強まる日本
日本銀行は低金利政策を継続
では、日本はどうなのか。世界銀行の経済見通しでは、23年の経済成長率は0.8%と前年の1.0%からさらに鈍化するとしている。もっともこれは物価の上昇を差し引いた「実質」の数字だ。日本では長期にわたってデフレが続いてきたが、この1年、急速にインフレの色彩が強まっている。
消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は4月に3.5%、5月には3.2%上昇した。一見、上昇率が鈍化しているように見えるが、これはガソリンや電気代などエネルギー価格を補助金で抑えていることが大きい。生鮮食品とエネルギーを除いた指数では4月は4.1%、5月は4.3%と大幅な上昇になっている。
一方で、日本銀行は物価上昇がまだ「持続的・安定的とは言えない」として低金利政策を続ける姿勢を示している。また、政府も積極的な財政支出を続け、財政赤字は拡大傾向にある。このため円安がさらに続く可能性が強まっている。
円安、つまり円の実質的な通貨価値が落ちることを懸念した富裕層などは引き続き、預金などを「実物資産」に移す動きを強めている。株価が大幅に上昇しているのもこうした流れの一環と見ることもできる。
さらに円安は欧米やアジアからのインバウンド客を引きつけることになる。こうしたふたつの要因から、日本での高級時計需要はまだまだ伸びる可能性がありそうだ。
経済ジャーナリスト/千葉商科大学教授。1962年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。日本経済新聞で証券部記者、同部次長、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、「日経ビジネス」副編集長・編集委員などを務め、2011年に退社、独立。政官財を幅広く取材している。著書に『国際会計基準戦争 完結編』『ブランド王国スイスの秘密』(いずれも日経BP社)など。
【磯山友幸 公式ウェブサイト】
http://www.isoyamatomoyuki.com/