新生ブライトリングの序開きを
飾った三鼎の一座
またはハイブリッドクォーツの嚆矢として
1979年にスタートを切った新生ブライトリング。CEOのアーネスト・シュナイダーは、
矢継ぎ早に3つの新コレクションをリリースした。
伝統ある「ナビタイマー」、新しいフラッグシップとなる「クロノマット」、
そして最新の技術を盛り込んだ「エアロスペース」である。
エアロスペースの発表は、最も遅い1985年。
しかしこれは、シュナイダーが一番作りたかった時計ではなかったか。
1985年初出。クロノグラフ、カウントダウンタイマー、デュアルタイム表示、アラーム、セミパーペチュアルカレンダーを備える。クォーツ(Cal.ETA988.332)。7石。Ti(直径40mm)。100m防水。発表当時の価格は15万円。参考商品。
1976年のヨーロッパ時計宝飾展(現バーゼルワールド)で最も注目を集めたのは、シクラの〝デジアナウォッチ〟「スーパーマン」だった。縦長のケースは12時位置にLED、6時位置にアナログ式の2針表示を備え、2針を駆動する自動巻きムーブメントは、LEDを発光させる交流発電機も兼ねていた。後のセイコー「キネティック」を思わせる、おそらく世界初のデジアナ時計(同年にオメガもデジアナクロノグラフを発表)であった。量産化には失敗したものの、スーパーマンは時計史に残る1本と言えるだろう。
クォーツウォッチ研究の第一人者であるルシアン・F・トリュープはこう記す。「ロスコフウォッチの製造者として重要だったグレンヘンのシクラ(同社は79年にブライトリングを買収する)は、時代の流れに敏感であり、マイクロエレクトロニクスウォッチへの転換を図った」(『Electrifying the Wristwatch』)。同社のCEOであったアーネスト・シュナイダーは、当時最新だったクォーツの製造販売に傾注し、社業の立て直しを図ったのである。
電子工学者であるシュナイダーは、同時に際立ったアイデアマンでもあった。例えば同年の「ソーラースタークォーツ」。これは太陽電池を内蔵したLCDウォッチであり、〝ロウソクの明かりでも動く〟ことを謳い文句にしていた。翌77年の「VIP 2000 シカト」はいっそう独創的だった。これはFHF製のキャリバー102.001の3時側に太陽電池のセルを埋め込むことで、受光感度を大幅に高めた試みであった。
1970年代の半ば以降、高級時計市場でのプレゼンスを高めつつあったシクラ。そう考えれば、ウィリー・ブライトリングがシュナイダーを後継者に指名したのは当然だろう(ウィリーはクォーツを理解していることを事業継承の条件に挙げていた)。79年4月5日、シュナイダーはブライトリング買収の契約書を締結。82年11月30日、シクラを発展解消させる形で「ブライトリング時計会社」を設立している。
一方のシュナイダーは、なぜブライトリング買収に踏み切ったのか。クロノグラフとパイロットウォッチに関心を持つシュナイダー(スーパーマンのLED表示には〝パイロットウォッチ〟という名称が与えられていた)にとって、ブライトリングという名前はもちろん魅力的だったはずだ。しかしトリュープは別の要因も指摘する。「当時最新のビデレック製TN液晶は、シクラの価格帯で載せるには高価すぎた」。これを言い換えると、〝高級ブランド〟のブライトリングならば、TN液晶の採用は決して難しいことではない。
メディアの多くは、ブライトリングが機械式クロノグラフを救ったと述べる。しかしアイデアマンの電子工学者がまず情熱を傾けたのが「スーパーマン」や「シカト」といったクォーツだったことは事実なのである。
それをうかがわせる証拠が、シュナイダーが初めて手掛けた「ナビタイマー クォーツ2100プルトン」(80年)であろう。搭載するのはESA/EEMが77年(公式には78年)に発表したキャリバーESA900.231。シクラの価格帯では決して搭載できなかったであろう、高価で多機能なデジアナムーブメントであった。しかしシュナイダーはこれに満足できなかったようだ。彼はETAにコンタクトを取り、新しいデジアナムーブメントの開発を急がせた。完成したのが、「エアロスペース」が搭載するキャリバー56こと、ETAのキャリバー988.332であった
開発の経緯をシュナイダー本人に聞いたおそらく唯一の人物が、現『WATCH FILE』編集長の山田龍雄氏である。曰く、988の開発に携わったのは4人。その中心がシュナイダーだったという。面白いのは、彼がこれを今のスマートウォッチのような超多機能時計にしたがったこと、そして操作をリュウズだけで行うということだった。アイデアマン、シュナイダーの面目躍如であるETA988。そう言って差し支えなければ、988とは〝ブライトリング初の自社製ムーブメント〟そのものだったのだ。
幸いにも80年代のETAには、シュナイダーの要求を実現できる、卓越した設計者たちが集まっていた。傑作2892や940を開発したアントン・バリー、彼の後継者であるレネ・ベッソン、そして「スウォッチ」の開発に携わったエルマー・モックなど。988の設計者名は明らかでないが、特許資料から判断する限り、後にロレックスの設計部長になるレネ・ベッソンと考えてよさそうだ。
もっとも、才能あるETAの技術者たちにとってさえ、988=全面液晶のデジアナは野心的な試みだった。トリュープはこう述べる。「最大の挑戦は、液晶表示に時分針の軸を通す穴を開けることだった」。穴自体は問題なかった。しかし穴を開けた結果、液晶にはムラが生じたという。ただしアイデアマンのアーネスト・シュナイダーにとって、これは障害でさえなかったようだ。「彼は液晶の上に文字盤を被せて、ムラのある中心部を隠させた。後にそれを知った他社の人間は、これは反則だと悔しがった」(山田氏)。エアロスペースが、本来必要のなかった文字盤(正しくは文字盤カバー)を備えた理由である。
またシュナイダーは、この新しいデジアナウォッチに、相応しい外装素材を与えようと考えた。それが軽くて錆びにくいチタン材である。結果、ヘッド部分の単体重量は、わずか34.3gに抑えられた。
多機能なのに説明書なしで使え、しかも装着感に優れるエアロスペース。その非凡な完成度は、新生ブライトリングに圧倒的な名声をもたらすことになる。