“良い時計の見分け方”をムーブメントから解説。良質時計鑑定術<ヒゲゼンマイ編>

FEATURE本誌記事
2024.08.05

「良い時計」の基準は、人によってさまざまだ。しかし分かりやすいポイントとして、仕上げやつくり、そして性能が挙げられる。そんなポイントから“良い時計の見分け方”を解説する、良質時計鑑定術。今回は、時計の心臓部のひとつである、ヒゲゼンマイに注目したい。

“良い時計の見分け方”をディープに解説する「良質時計鑑定術」まとめ

https://www.webchronos.net/features/119515/
奥山栄一:写真 Photographs by Eiichi Okuyama
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2020年5月号掲載記事]


ヒゲゼンマイから見る“良い時計”

ブレゲのシリコン製巻き上げヒゲ

[シリコン製ヒゲゼンマイ]ブレゲ「シリコン製巻き上げヒゲ」
エッチングで生産するため、理論上はシリコン製ヒゲゼンマイの外端を巻き上げられない。しかしブレゲは、カットしたシリコン製の部品をつなぎ合わせることで、シリコン製の巻き上げヒゲを開発した。もっとも、ブレゲ副社長曰く「理論上の性能よりも、見た目を重視したため」とのこと。製造コストがかかるため、採用はごく一部のモデルに限られる。

 時計の心臓部であるテンプ。構成するのはテンワやヒゲゼンマイなどである。そのヒゲゼンマイで重要なのは、磁気帯びしにくく、ショックに強く、そして拡大収縮しても、ヒゲゼンマイが中心からずれないこと、である。この3つのポイントから、ヒゲゼンマイを見ていくことにしたい。


「巻き上げヒゲ」と「平ヒゲ」

 性能だけを考えると、良いヒゲゼンマイの条件は決まっている。磁気帯びしにくく、ショックを与えても変形しにくく、拡大収縮時にも中心がずれにくいことだ。

 磁気帯びは素材によるところが大きいが、後者ふたつは改善可能である。変形しにくくしたければ、硬いヒゲゼンマイを載せれば良い。一般的に高振動のムーブメントはヒゲゼンマイが硬く、それが耐衝撃性能を改善し、姿勢差誤差を減らす。拡大収縮時に中心をずれにくくさせたければ、ヒゲゼンマイの外端を巻き上げる(巻き上げヒゲ)のが、現実的な解になる。これはヒゲゼンマイの外端を内側に持ち上げることで、ヒゲゼンマイの拡大/収縮時にも、天真を中心に留める試みだ。しかし普通のブレゲヒゲでは、等時性は大きく改善されない。より望ましい結果を得たいなら、エドワルド・フィリップスが開発した「フィリップス型」の巻き上げヒゲが理想的とされている。

パラクロム・ヘアスプリング

[巻き上げヒゲ]ロレックス「パラクロム・ヘアスプリング」
驚くべきことに、現行品のロレックスはすべて等時性に優れる巻き上げヒゲゼンマイを採用している。理論上はばらつきのある巻き上げヒゲを、これほど大量生産できるメーカーはロレックスしかない。名称はパラクロム・ヘアスプリング。85%のニオブと15%のジルコニウム合金を酸化処理することで、コバルトやニッケルをベースとするヒゲゼンマイよりはるかに優れた耐磁性と耐衝撃性を得た。
Cal.9SA5

[巻き上げヒゲ]グランドセイコー「Cal.9SA5」
グランドセイコーの新型ムーブメントもフリースプラングテンプに加えて、等時性の高い巻き上げヒゲを採用した。詳細は不明だが、8万通りのシミュレーションから生まれたものとのこと。また、回転式のヒゲ持ちをねじることで巻き上げヒゲの外端を調整し、精度を調整できるという。おそらく、これは世界唯一のメカニズムだ。なお素材は、既存のムーブメントと同じスプロンを使用している。

 しかし現在、これを採用するのは、H.モーザー、ルノー・エ・パピ製のトゥールビヨン、一部の独立時計師など、ごく少数に限られる。筆者の知る限り、さらに優れているのはヴティライネンの「ヴァントゥイット」のみだ。これはヒゲゼンマイがフィリップス型の外端カーブを持つほか、内端カーブの一部(ヒゲ玉からの巻きだし部分)も修正され、より等時性を高めている。

 しかし近年は、より理論的に優れたヒゲゼンマイも見られる。A.ランゲ&ゾーネはヒゲゼンマイの設計を一新。巻き上げヒゲを、より等時性の高いものに進化させた。また、セイコーの9SA5が採用する新しい巻き上げヒゲも、8万通りのシミュレーションから導き出された形状を持っている。詳細は不明だが、理論上の性能は既存の巻き上げヒゲよりも高いという。しかし、巻き上げヒゲは大量生産に向かない上、手作業で巻くため、個体差も小さくない。フランソワ-ポール・ジュルヌは「下手な巻き上げヒゲを載せるならば、安定した平ヒゲを使った方がいい」と、巻き上げヒゲの採用には懐疑的である。

Cal.01

[平ヒゲ]ブライトリング「Cal.01」
外周を巻き上げたヒゲゼンマイに比べて、平ヒゲの方がテンプの重心はずれやすくなる。しかし、巻き上げヒゲを大量生産し、安定した質を与えるのは非常に難しい。そのため、多くのメーカーは平ヒゲを用いて、精度を上げるというアプローチを採っている。その最も成功した例のひとつがブライトリングだ。変形しにくい硬いヒゲゼンマイを用いるほか、入念な調整を加えることで精度を改善している。
Cal.α

[平ヒゲ]ノモス グラスヒュッテ「Cal.α」
薄いムーブメントにも巻き上げヒゲは載せられない。そのため、薄型ムーブメントは例外なく、標準的な平ヒゲを採用する。典型例はノモスだ。ノモスは1200万ユーロを投じて、自社でヒゲゼンマイを生産する体制を整えた。そのため大半のムーブメントには自社製ヒゲゼンマイを使用するが、αのみニヴァロックスを使っている。普通、高級な機械式時計は5姿勢で精度を調整するが、ノモスは6姿勢で行っている。

 なお、標準的な平ヒゲにも、性能を改善したものはある。ニヴァロックス製の平ヒゲは、外周を焼きなますことで柔らかくし、ヒゲゼンマイの耐衝撃性能を高めている。同社曰く、Nivacourbe(ニヴァコーヴ)とのこと。


シリコン製ヒゲゼンマイという選択

 耐磁性能と耐衝撃性能を一挙に改善しようという試みが、シリコン製のヒゲゼンマイである。とりわけ、耐磁性能は既存のヒゲゼンマイとは比較にならない。加えて最新のシリコン製ヒゲゼンマイは、形状を工夫することで、巻き上げヒゲのような効果を加えた。パテック フィリップ、ブレゲのシリコン製巻き上げヒゲゼンマイ(!)、ロレックスのシロキシ・ヘアスプリングなどが、そういった好例だ。また、近年はヒゲ玉を一体成形できるメリットを生かして、ヒゲ玉を小さくする試みが見られる。

スピロマックス

[シリコン製ヒゲゼンマイ]パテック フィリップ「スピロマックス」
パテック フィリップの採用するシリコン製のヒゲゼンマイ。平ヒゲだが、理論上は巻き上げヒゲ以上の等時性を持つ。理由は、内端・外端カーブを成形するのではなく、部分的に太さ(=弾性)を変えたため。ヒゲゼンマイを変形・補強したのと同等の効果が得られるため、重心移動が起こりにくい。エッチングで加工するシリコンの利点を生かしたヒゲゼンマイである。
シロキシ・ヘアスプリング

[シリコン製ヒゲゼンマイ]ロレックス「シロキシ・ヘアスプリング」
ロレックスが発表した新しいシリコン製ヘアスプリングが、シロキシ・ヘアスプリングである。同社の資料に従うと、耐磁性に優れ、気温の変化にもかかわらず高い安定性を保つ上、従来のヘアスプリングの10倍もの耐衝撃性を持つとのこと。また特許を取得した形状により、どの姿勢でも等時性を保つという。ロレックスの女性用ムーブメントが、ケーシング後でも日差±2秒を実現した一因だ。

 なお、メンテナンスができることを考えれば、ヒゲゼンマイはシリコンではなく金属製の方が良く、ヒゲゼンマイの外端もレーザー溶接ではなく、古典的なカシメやネジ留めでヒゲ持ちに固定する方が望ましい。ヴティライネンのCal.28は、写真が示すとおり、ヒゲゼンマイの外端をネジで取り付けている。

Cal.28

[巻き上げヒゲ]ヴティライネン「Cal.28」
高級機らしく、Cal.28は巻き上げヒゲを採用する。素材(エボーシュ)はプレシジョン・エンジニアリング製。外端は典型的なフィリップス曲線に従って巻き上げられているが、現行品としては珍しく、内端にもグロスマン型のカーブを付けている。内端まで手を加えた腕時計のムーブメントは、筆者の知る限り、今までに数本しか存在しない。理論上はヒゲゼンマイの重心が移動しにくく、優れた等時性を持つ。


ニヴァロックス・ファー社によるヒゲゼンマイの供給削減が引き起こした時計業界の激震

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