今なお時計市場が成長を続ける中、時計に関する情報はさまざまな媒体で発信されている。しかし、スマートフォンを使って手軽に情報発信したり、写真撮影したりする手段がなかった“過去”の記録は、決して豊富とは言えない。webChronosでは、30年以上にわたって時計業界を取材してきたジャーナリスト菅原茂氏が、「スイス時間旅行−追想の90年代」として、1990年代の時計業界を当時の写真とともに振り返る連載を開始した。第2回は、1994年に開催されたバーゼル・フェア、そしてスイス・シャフハウゼンで取材した当時のIWCを振り返る。若かりしクルト・クラウス氏と菅原氏のツーショットは必見。
Text and Photographs by Shigeru Sugawara
[2024年7月23日公開記事]
バーゼル・フェアの顔
スイスのバーゼルで春に開催されていた時計宝飾展、通称「バーゼル・フェア」には2019年まで毎年欠かさず通っていた。1回目はちょうど30年前の1994年4月だった。見本市の名称は「バーゼル94」というシンプルなもので、翌年の「バーゼル95」から「ワールド・ウォッチ・クロック&ジュエリー・ショー」という、世界規模を強調する副題を加えて正式名称になったが、二度に及ぶ会場の大規模リニューアルを行い、「バーゼルワールド」と改称してスケールアップを図ったのは2003年からだった。
さて本題だが、バーゼル94のメインホール、エントランスを抜けて一番手前の左側にブースを構えていたのがほかならぬIWC。しかもブランドカラーのホワイトを基調とする立派な2階建て。特等席に構えるIWCが当時のバーゼル・フェアの「顔」であったのは間違いないだろう。ちなみにIWCというブランド名は、時計好きなら御存知のように、International Watch Companyの頭文字を組み合わせたもの。直訳すれば国際時計会社だ。ブランド名といいブースの立地といい、この世界的な時計展の看板みたいに思えたのだった。ところでブランドの呼び方だが、日本では愛好家や業界人の間で「アイダブリューシー」や「インターナショナル・ウォッチ・カンパニー」よりも、単に「インター」という呼びやすい略語が一般的だった。ではバーゼル・フェアにおける現地の人々はどうかというと、ドイツ語読みの「イーヴェーツェー」がけっこういた。たしかに3拍子で言いやすく、質実剛健なこのブランドのイメージにも合っている。筆者は今でも隠れイーヴェーツェー派なのだが。
パイロット・ウォッチの復活
バーゼル94では、取材初日にIWCを訪れた。90年代前半は1992年発表の画期的なスプリットセコンドクロノグラフ「ドッペル・クロノグラフ」を皮切りに、ブランドのアイコンとなるパイロットウォッチの復活に力を注ぎ、当時の副社長ハンネス・A・パントリー氏のもとで系統的なシリーズ化に取り組んでいる最中だった。ブースのウィンドウに展示されていた歴史的なパイロット・ウォッチもその象徴だ。新作のハイライトは「メカニカル・フリーガー・クロノグラフ」(当時の名称)のスティールモデルと、外装としては珍しいセラミックモデル、そして「マークXII」と「ドッペル・クロノグラフ」のスティールブレスレット仕様などだった。以上すべて機械式だが、ベースがクォーツでクロノグラフ機構が機械式という一種のハイブリッド版「フリーガー・クロノグラフ」というのもあった。他には「ダ・ヴィンチ」の永久カレンダー機構を手巻きのドレスウォッチ応用したモデルなども興味深かった。前年に創業125周年を記念したばかりで、ブランドを指揮するギュンター・ブリュームライン氏の意欲的な姿勢がプロダクト全体に表れていた。
初めてのシャフハウゼン
翌日はさっそくIWCの本社工場である。ホテルのあるチューリヒ郊外からレンタカーで約50km北上し、一路ライン河畔のシャフハウゼンに向かった。90年代の工場取材では自力で直接行くことも多かった。運転はカメラマンに任せ、自分は助手席で地図や道路標識を確認しながら初ルートをナビ。右も左もわからぬドライブだったが、なんとか無事に到着することができた。
シャフハウゼンはスイスでありながら、中世の城塞都市の面影を遺す街の眺めから受ける印象は紛れもないドイツ。また、第2次世界大戦の時、ライン川の北側に位置するシャフハウゼンがドイツ領と誤解され、アメリカ軍の空爆を受けて大きな被害を受けたことでも有名だ。そんなライン川北側に面したIWCの社屋は1875年の建設と伝えらているが、長い歴史の中で拡張、整備されてきた目の前の社屋は、街の景観とは異なり、けっこう機能的なモダン建築の雰囲気が感じられた。社屋に相対する小さな公園には、シャフハウゼンの工業化に貢献したハインリッヒ・モーザーの像があった。そう、現在の時計ブランドH.モーザーを創業した伝説の人物である。
午前9時30分、当時の日本の輸入代理店コサ・リーベルマンの方と合流し、さっそく取材というか見学のスタート。案内役はあのクルト・クラウス氏だ。挨拶では「ダ・ヴィンチ」の設計をはじめ、グランドコンプリケーションの開発で有名な時計師と紹介された。彼は今、国内外からのゲストの対応に当たっていて、特にバーゼル・フェアの時期は来客も多いと話していた。我々は、工場の主要な製造ラインを巡り、窓外にライン川を望む特別な複雑時計工房を訪れたあと、クラウス氏が「とっておきの場所」と呼ぶ、急な階段を上った先の屋根裏部屋のような場所に設けられた私設ミュージアムへと誘われた。
IWCの歴史を知るミュージアム
白い部屋と黒い部屋に分かれた展示室のショーケースには、19世紀後半の懐中時計から、20世紀のさまざまな腕時計、すなわち「ポルトギーゼ」の原型や歴代パイロット・ウォッチ、「インヂュニア」、クォーツによる初の「ダ・ヴィンチ」などが年代順に並ぶ。アンティークを中心とした時計の約8割は当時副社長のハンネス・A・パントリー氏の個人的所有物だというが、なかなかの充実したコレクションである。
ミュージアムでクルト・クラウス氏がこれぞ革新的技術と強調していたのが、自身の設計による1985年の永久カレンダー・クロノグラフ「ダ・ヴィンチ」のそのまたセラミック(酸化シルコニウム)モデルだった。伝統的な複雑機構と現代的なハイテク素材の融合を力説するクラウス氏。IWCは常に未来志向なのだと。そういえば前日見たばかりのセラミックス製「メカニカル・フリーガー・クロノグラフ」もたしかにその例だろう。
IWCの歴史や技術については、取材に先立ってある程度予備知識があり、加えてIWCに精通する専門家マンフレッド・フリッツの著書で時計の知識を得るための最適な参考書 Grande Complication by IWC(1990)には何度も目を通していた。こうして実際に時計を見たり、クラウス氏による解説によってさらに詳しく知ることができたのは貴重な体験であり、あらためて「技術のIWC」を実感する機会になった。
ポルシェデザインの愛好者
取材時に筆者が着けていたのはシンプルな「ポートフィノ」だった。自動巻きムーブメントはETA2892A2ベースのCal.37521というもの。IWCカスタマイズ仕様による、あの全面的に金色で彩り、見栄えを強調したことで知られるムーブメントだ。IWCの愛用者は親しい仕事仲間にもすでに何人もいた。覚えているだけでもジェンタのデザイン、ジャガー・ルクルト製ムーブによる「インヂュニア」、それからポルシェデザイン By IWCシリーズのスタイリッシュな「スポルティボ」やチタン製ダイバーズ「オーシャン 2000」などだ。技術バリバリの面と同時に、これらのように、スポーティでかっこいいデザインが日本でもウケていた。愛好者はここシャフハウゼンにも。作業中の彼らの手元を見ると、ポルシェデザインをけっこう発見した。その人気の高さはIWCの工場スタッフの間でも同じだったようだ。
ラインの滝を見て思うこと
今回の対応は午前中の限られた時間だったため、急ぎ足の見学で終わってしまったのが少々残念だったので、本格取材の機会をいずれ持ちたいと伝えてその場を後にした。IWCを辞すと、カメラマンと一緒にシャフハウゼンのムノート城塞に上って眼下の街の眺望を楽しみ、続いて近くのノイハウゼン・アム・ラインファルへと足を延ばした。せっかくだからラインの滝を見物しようと思った。名瀑の誉れ高いラインの滝は、日本の山で見られるような豪快に水が落下する滝ではなく、荒々しい岩が作る川の段差を大量の水が暴れながら流れ下る滝だった。とはいえ、このライン川の水勢を活かしてハインリッヒ・モーザーがシャフハウゼンに発電所を作り、ここを訪れたフロレンタイン・アリオスト・ジョーンズが彼の協力を得てIWCを創業したことを考えると、今朝見たばかりの工場とモーザー像にもちゃんと意味があったことをライン川が教えてくれた気がした。
菅原茂氏のプロフィール
1954年生まれ。時計ジャーナリスト。1980年代にファッション誌やジュエリー専門誌でフランスやイタリアを取材。1990年代より時計に専念し、スイスで毎年開催されていた時計の見本市を25年以上にわたって取材。『クロノス日本版』などの時計専門誌や一般誌に多数の記事を執筆・発表。休日はランニングと登山に精を出す。
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