時計専門誌『クロノス日本版』およびwebChronosの編集長であり、時計ハカセとしても親しまれる広田雅将。本記事では、彼の「思い出の1本」として、IWCのRef.810を取り上げる。「すごく良い時計、というわけではない」。しかし手放しては買ってを繰り返してきたこの時計の、「いい悪い、好き嫌いを超えた先にある何か」とは?
Photographs & Text by Masayuki Hirota
[2024年12月24日公開記事]
お金はない、でも時計は欲しい
時計を仕事にして20年を超える。最初の10年は全く食えず、多少食えるようになったら、時計の値段はうなぎ登りに上がってしまった。そして編集長とやらになったら、円安で価格は暴騰だ。時計の神様は、よっぽど筆者に時計を買わせたくないらしい。一時期はひがみっぽく思ったが、最近は諦めてしまった。
もっともお金がないながらも、良い時計、好きな時計は買ってきたつもりだ。趣味人としてはそうだし、職業人としてはなおさらだ。時計は買わないと分からない、という意見に与するつもりはないが、全くの的外れでもないと思っている。少なくとも欲しいという情熱を持って対象を見ないと、見方はおざなりになっていく。偉そうに語る資格はないが、食欲を持ち続けないと良い料理は作れない、のである。
お金はない、でも時計は欲しい。幸いなことに、筆者が欲しい地味な手巻き時計は、全く人気がなかった。ミネルバの「ピタゴラス(ピタゴール)」、クロノスイスの「オレア」、ブランパンの「ヴィルレ ウルトラスリム」に、IWCの「Ref.810」などなど。余裕があったらオメガ「ルネサンス 1894」にも手を伸ばしただろうが、20代、30代の自分に買えるだけのお金はなかった。結果として残ったのは、出来が良い割に球数が多く値段の安いIWCのRef.810だった。今でこそちょっと値段は上がっているが、探せばまだまだ格安の個体はある。
買っては手放しを繰り返した、手巻きのCal.89搭載モデル
IWCのCal.89というキャリバーは、1946年から1974年まで、約22万6000個が作られたと言われている。長らく生き延びたのは、精度が高く、コンパクトだったためだ。直径11.5リーニュ、厚さ4.25mmというサイズのおかげで、Cal.89は大きなゴールドケースにも、SS製の小さな防水ケースにもフィットした。ちなみにIWCには、10リーニュのCal.40*系という手巻きもある。こちらはCal.85系自動巻きのベースとなったもので、コンパクトながらも精度の出る機械だった。初出は1953年。1960年代後半から70年代初頭に見られるIWCの手巻きは、大体この40*系の搭載機だ。
1930年代以降、IWCは防水ケースの開発に苦心してきた。1930年代から40年代に見られるのは、気密性の高い「Hermet」ケースである。その後、裏蓋とミドルケースを一体化させた2ピースケース(Cal.85やCal.852搭載機、Cal.89の初期型に見られる)や、パッキンを噛ませたポコ蓋などを採用してきたが、成功したとは言いがたい。Ref.600番台の一部モデルで、IWCはようやくねじ込み式の裏蓋を採用したが、あまり普及はしなかった。Ref.600番台ケースで唯一成功を収めたのは、Ref.666「インヂュニア」である。
そんなIWCが作り出した防水ケースが、1960年代半ば以降のRef.800番台だ。ねじ込み式の裏蓋はRef.600番台に同じだが、ステンレススティールの質が良くなり、明らかに防水性能は改善された。個人的な意見を言うと、Cal.854系を載せたRef.810Aや820などは、いまだに普段使いできるアンティークウォッチの最右翼だ。それこそCal.560系自動巻きを載せたオメガや、Cal.1500系を載せたロレックスぐらいには。
ただ筆者は手巻きが好きだったので、あえて自動巻きではなく、手巻きのCal.89搭載機ばかりを買ってきた。買っては手放しを何十回も繰り返してきたのは、いつでも買えるという安心感があったからだ。ただし日本の市場にあるまともな個体は、自分で言うのも変だが、自分の手元を通り過ぎたものばかりだ。小さな傷やインデックスの曇りなどを見れば大体分かる。結局Ref.810探求の旅は諦めて、以前自分が売り飛ばした個体を再び買い直すことになった。
「普通」の象徴が、IWCのRef.810
手巻きのRef.810はすごく良い時計、というわけではない。そもそも自動巻きを載せるためのRef.800番代ケースを手巻きに転用したのだから、オメガの「ムーンウォッチ」ほどではないが、リュウズが巻きづらいし引き出しにくい。しかもリュウズのパッキンを効かせてあるため、1940年代や1950年代のCal.89搭載機ほど、嬉しくなるような巻き心地を持っているわけでもない。バーインデックスと針、そして筋目仕上げのシルバー文字盤もひたすらに地味だ。時々知り合いのジャーナリストなどが褒めてくれるが、半分以上はお世辞だろうと思っている。
でも筆者は、なぜかこの時計を好み、何度も買ってきた。離れても結局ここに帰ってきてしまうのだ。つまりはいい悪い、好き嫌いを超えた先にある何か。
時計の世界は面白いが、欲とメンツが渦巻く世界でもある。マトモでない筆者がどうにかここまで続けてこられた一因は、そういう世界と無縁だった、つまりたまたま普通でいざるを得なかったためだろう。仮に30代に大金持ちになっていたなら、その後、この世界に残れたとは思えない。今思うに、そんな「普通」の象徴がIWCのRef.810だったんじゃないか。
残念ながら、これからの筆者がいきなり偉くなったり、小金持ちになることはなさそうだ。今後も、今までと同じように、地味に取材をし、記事を書き、話しをするだけだろう。昔は正直、それを認めるのは心苦しかったが、今ようやく「これが自分です」と語れるようになった。
ちなみに手持ちのRef.810には、松下庵さんがストラップを作ってくれた。身分不相応なベルトが付いたRef.810は、相変わらず地味だが、ちょっとばかりよく見える。長く続ければ、たまにはいいこともあるさ。手元のRef.810はそう教えてくれるように思えてならない。