30年以上にわたって時計業界を取材してきたジャーナリスト・菅原茂氏が、自身の所有する時計から、特に思い入れのあるひとつを紹介。取り上げるのは、IWCの懐中時計クロノメーターだ。開かれた裏蓋からのぞく、手巻きムーブメントの“絶景”は必見である。
Photographs & Text by Shigeru Sugawara
[2025年1月15日公開記事]
スイスのアンティーク時計店での出合い
「君もオメガかい?」
スイス、スウォッチ グループの本拠地ビール/ビエンヌのアンティーク時計店に入ったら、店主はまずこう言った。「またかよ」みたいな表情だった。時計好きが来ると、まず「オメガを見せてくれ」というらしい。オメガのお膝元ゆえ、年代物の時計は充実していて、コレクターには見逃せない店らしいのだ。オメガの歴史的モデルのコレクションで知られる時計ライターのN氏も足を運んだと聞く。
ロンジンの記念イベントの帰り
店を訪れたのは2001年2月、とても寒い冬の日だった。当日は、サンティミエのロンジン本社で催されたイベントの取材を終え、帰国前に街でぶらぶら過ごしていた。ちなみにロンジン本社でのイベントとは、ロンジンをブランド名にした最初の時計が作られてから、製造個数が3000万に達したことを祝い、記念モデルの「ロンジン L.990」を3月のバーゼルフェアに先立って発表するという内容で、日本からは時計ビギンと筆者が編集する小学館の時計ムックが参加し、あとは中国と香港からの大勢の人々。いたるところで中国語が飛び交い、スイス人スタッフも、流暢な中国語を話すのにはちょっと驚いた。中華セレブの賓客も来ているそうだ。
Cal.L.990
サプライズといえばもうひとつ。イベントを終えて、ミュージアムを再訪していたら、ロンジンのスタッフがCal.L.990を搭載する1980年代の「コンクェスト」を持ってきて「よろしかったらどうぞ。何本もあるから、1本差し上げます……」と。なんというご厚意! 今でも持ってますよ、もちろん。ついでにもうひとつ。このCal.L.990はセンターセコンド、デイト表示付き自動巻きムーブメントで世界最薄記録を樹立した1970年代後期の名機で、1980年代にロンジンからヌーヴェル・レマニア(現ブレゲ)に引き継がれ、今もその系譜が途絶えないのは興味深い(時計に詳しい本誌読者なら御存知だろう)。
希少なIWC懐中クロノメーターだった
ロンジンはさておき、本題に戻ろう。ビエンヌのアンティーク時計店では、だいたいこんな感じで話が進んだ。
「オメガ以外には何がお勧め?」
「お客さん、懐中時計は興味あるかい」
すると、店主が奥からトレイに乗せていくつか持ってきた。
「どれもグッドコンディションだ」
数点のうち、視線が釘付けになったのはIWCのクロノメーターだ。
「でも、ちゃんとした金時計だし、う~ん高そうだな」
店主はたしか1500スイスフランと言っていたと思う。予想より安い。いちおう当時のスイスフランのレート推移を調べてみたら、2000年が64円、この話の2001年が72円だから今の半分以下だ。「ウッソー」と叫びたくなる円高に驚くが、それで換算すると値段は10万円ちょっと。確か14Kイエローゴールドの美品で、メンテナンス済みというから、1500スイスフランはお買い得に違いない。
値切って買った金時計が酒のつまみに
「こういう懐中時計って売れてるの?」
「そうお客さん、そこなんだよ。オメガの腕時計は売れるけどね、懐中時計はさっぱりさ」
「じゃまけてくれる?」
値引き交渉をしてみようと考えた。結局3割まけてもらい、7万円ほどでこのIWC懐中時計クロノメーターを手に入れることができた。店主とのやりとりを横で見物していたカメラマン氏も、ホイヤーのストップウォッチのデッドストックを約1万円で購入して「いい土産ができた」とご満悦。帰国してからネットなどで調べてみたが、同一モデルには出合うことがなかった。店主の話では、おそらく1930年代頃のもので、ダイアルにクロノメーターとの表記があるレア品であるとのこと。本物なのか疑念も生じたが、まあ、よしとした。たまに裏蓋をあけて年代物のムーブメントを鑑賞しながらビールを飲む、そんな酒のつまみみたいな存在として十分に楽しむことができた。
お宝をうっかり落として壊す
ところがある日、悲劇が起こる。IWCにまつわる有名なエピソード「シュピルマンの時計」を取り上げたテレビ番組を見ていた時のことである。久しぶりに懐中時計を出してきて「これもお宝だ」と眺めていたら、するりと手のひらからフローリングへと落下。運悪くガラスは砕け、そのかけらでダイアルの一部に小さなキズまでついてしまった。修理とムーブメントの点検をリシュモンジャパンに頼んだら「日本では扱えない、スイス送りになる」とのつれない返事。業者に修理を頼むのもひとつの手だったが、結局シャフハウゼンに里帰りさせることに。何度も訪れたIWC本社の工房やミューアジアムに並ぶ懐中時計のことが思い出されたからだ。依頼してから戻ってくるまでに半年近くかかったと記憶する。また、本国送りゆえのけっこうな修理代が請求されたのは言うまでもない。
酒のつまみとかって、十分に注意せず扱ったバチが当たったのだろう。それ以来、丁寧に扱っている。今も日常の実用時計として使用しているわけではないが、時々取り出して眺めながら「俺はやっぱり時計好き!」なんて自己満足の愉悦に浸っている。そうさせる時計は「宝物」以外の何物でもないだろう。
菅原茂のプロフィール
1954年生まれ。時計ジャーナリスト。1980年代にファッション誌やジュエリー専門誌でフランスやイタリアを取材。1990年代より時計に専念し、スイスで毎年開催されていた時計の見本市を25年以上にわたって取材。『クロノス日本版』などの時計専門誌や一般誌に多数の記事を執筆・発表。休日はランニングと登山に精を出す。