クルト・クラウスという時代
スイスの時計業界に、名設計者といわれる人物は少なくない。しかし手掛けたムーブメントの多様さと、業界全体への影響力の大きさを考えると、クルト・クラウスに勝る設計者は今もって存在しない。往年の名設計者、アルバート・ペラトンに学んだ彼は、やがて独自の世界を拓き、それを後進たちに伝えた。本人とその周囲へのロングインタビューから、クルト・クラウスという“時代”を振り返ることにしたい。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota
「私はアルバート・ペラトンの見習いとして多くを学んだ。彼は最高の品質にしか興味がなかった」 - クルト・クラウス
As an assistant, I learned a lot from Mr.Pellaton.
He was always striving for best quality. - Kurt Klaus
もし、クルト・クラウスがいなければ、現在のようなIWCは存在しなかっただろう」。そう語ったのは、IWCミュージアムで学芸員を務めるデヴィッド・セイファーである。しかし筆者の見るところ、彼がもたらした功績はそれだけに留まらない。
クルト・クラウスは、懐中時計用のモジュール設計からキャリアをスタートさせ、やがてエボーシュの改良まで手掛けるようになった。後年に彼は永久カレンダーやロングパワーリザーブの自動巻きを作り上げ、最後はトゥールビヨンも設計するに至った。
今やこうしたマルチな才能を持つ設計者は少なくない。カルティエのキャロル・フォレスティエ=カザピ然り、APルノー・エ・パピのジュリオ・パピ然り、フランソワ-ポール・ジュルヌ然り。しかし時計産業に与えた影響の大きさを考えると、クルト・クラウスという時計師は、もう一段高い位置にいる。
彼はETA2892を、ETA2892-A2に進化させた陰の立役者であり、ジュリオ・パピに時計作りを教えた師であり、モジュールの在り方を一新した革新的な設計者であった。そして機械式時計冬の時代に、先達であるアルバート・ペラトンの思想をIWCに残した、いわばメンターでもあった。しかし、実際にクラウス本人と言葉を交わしても、彼がそれほどの業績を残した設計者には見えない。何が彼を〝ペラトンの見習い〟から〝大設計者〟へと変貌させたのだろうか。
「ゾロトゥーンの時計学校を出た後、すぐIWCに就職した。その際アルバート・ペラトンの見習いとして多くを学んだよ。ペラトンは最良の品質にしか興味がなかった。というのも、時計は50年や100年は使えるものと考えていたからだ。こういう話がある。ペラトンはしばしば製造現場に足を運んだ。彼はホゾ磨きの工程をじっと見て、0.003㎜ではだめだ。0.002㎜にまで詰めて欲しいと現場にプレッシャーをかけた」
「手作業で時計を作るのは決して難しくない。しかし工業的に生産できなければ、それは玩具でしかない」」 - クルト・クラウス
It’s not difficult to make a complicated movement
entirely by hand. However, it would
remain just a toy without the industrial process. - Kurt Klaus
ペラトンの退任後、IWCは新しい薄型自動巻きである「キャリバー100」の開発を始めた。クラウスはそのプロトタイプの組み立てに携わったという。しかし動かないため、リタイアしたペラトンが急遽呼び戻された。
「キャリバー100は、100個ほど作ったと思う(セイファーによると製造数は15〜20個らしい)。品質は良かったが、ペラトンはムーブメントを見るなり、〝これは薄すぎる。製造すべきでない〟と言い切った。ムーブメントに携わるエンジニアは、同時に時計師の資質も併せ持つべきだ。そうしたら、組み上げる前にプロトタイプの不備を見抜けたはずだ」
クルト・クラウスが、ペラトンの思想を学んだのはこの時だろう。彼はペラトン同様、薄型ムーブメントには懐疑的であり、設計者は時計師であることを求める。以降もIWCは極力厚いムーブメントを採用してきたし、設計者の出自はほとんどが時計師である。
「重要なのは、時計師としていくつもの機械に接してきた経験だ。現在のムーブメント開発責任者であるステファン・イーネンが好例だろうね。彼は優れた時計師だったから、私の後継者になったのではないかな」
1960年代後半から70年代にかけてさらに業績を伸ばしたIWC。しかし74年に入ると、経営は急速に傾いた。アメリカがドルの固定相場制を止めた結果、スイスフランが急騰したためである。輸出に依存していたスイスの時計産業は、クォーツの普及以前に大きな打撃を受けていた。
「この時代は、週に4日しか働けなかった。私はシャフハウゼンに自分のワークショップを持っていたので、そこで作業することが許された。空き時間に考えたのは、懐中時計にムーンフェイズのモジュールを載せるアイデアだった。鉛筆で簡単なスケッチを描き、ミングマシンで地板や部品をカットして、プロトタイプのムーブメントを作った」
彼は完成したムーブメントを、当時の営業責任者であったハネス・パントリに見せた。「クレイジーだが立派な仕事だ。これを100個作れないか」と言われたという。このムーンフェイズがひとつの契機となって、不振にあえぐ70年代後半のIWCはこの時期、懐中時計の専業メーカーに転進しようとしていたらしい。しかし、続いてカレンダー付きの懐中時計を作り上げたクラウスに、パントリはこう言った。「次は腕時計で作って欲しい。しかも永久カレンダーでなければダメだ」。
クラウスによると、彼が永久カレンダーの設計を始めたのは80年のことであった。
「本を読んだり、昔の懐中時計を見て、永久カレンダーがどういう機構かは学べた。ただ私は単に作るのではなく、今までにないものを作りたいと思った。考えたのは、何を作りたいかではなく、何を作りたくないかだった」
やがてIWCとクルト・クラウスに名声を与える「ダ・ヴィンチ」のプロジェクトは、こうしてささやかなスタートを切った。
「開発前に市場調査を行った。永久カレンダーはすでに存在していたが(オーデマ ピゲが78年に極薄の永久カレンダーを発表)、当時永久カレンダークロノグラフはなかった」
既存の永久カレンダーのような、複雑で使いにくいものは作りたくなかったと語るクラウス。彼は新しい永久カレンダーを簡潔なものにしたかった。やがて彼は、日付表示を司るデイトリングの回転で、すべてのカレンダーを動かすというアイデアに至る。当時の経営責任者は、計器メーカーVDO出身のギュンター・ブリュームライン。彼はクラウスに次の条件を突きつけた。「好きに作っていい。しかしムーブメントは既存の物を使うこと」。
「ベースムーブメントとして、バルジュー7750以外の選択肢はなかったね。これはデイト表示がついていたし、しかも日付の切り替え動作がゆっくりだったので、動力源として使えると思ったよ。ベースには、当時のIWCが使っていたジャガー・ルクルトの888/889も検討した。しかしこれは日付の切り替わりが急で、永久カレンダーの動力源には使えなかった」
日車ではなく、デイトリングを動力源とするという離れ業により、この新しい永久カレンダーは、リュウズを一段引きして回すだけでカレンダーの早送りが可能になった。またデイトリングが動力源のため、日付表示付きのムーブメントならば、クォーツにさえ永久カレンダーを載せることができた。
「クォーツで動かすことまで考えたから、モジュールの抵抗は非常に小さくしたよ」
すでに知られていることだが、彼はダ・ヴィンチの設計に、コンピュータを使わなかった。122年に1日の誤差しか生じない月齢表示も、『Logarithemen Tabelle』という本を読んで、動きをコンマ以下5桁まで計算したという。最初のドローイングが完成したのは、プロジェクトのスタートから3年後の83年7月19日のこと。
「重要なのは堅牢で使いやすいこと。しかしそれ以上に大切なのは、工業的規模で生産ができることだった。永久カレンダーやトゥールビヨンを手作業で作るのは難しくない。しかしそれは玩具でしかない。重要なのは大量生産できることであり、ダ・ヴィンチで目指したのはすべて機械で作れることだった」
彼が〝手作業は難しくない〟と強調したのには理由がある。83年に図面を完成させた彼は、続くプロトタイプの製作もひとりで行ったのである。当時は私しかいなかったからねと苦笑するが、凡庸な時計師にできる仕事ではない。ともあれ、まったく新しい永久カレンダー、ダ・ヴィンチは大ヒットを遂げた。しかも生産性に優れていたため、あるスイスの時計関係者が「発表年だけで、市場に存在する永久カレンダー以上の本数を作った」というほどの数量を作ることにも成功した。