エナメルアーティストたちの手法
~ 混沌の中からセオリーを紡ぎ出す者たち~
下地のギヨシェを透明釉で封じ込めるフランケや、有線七宝を意味するクロワゾネ、象嵌七宝のシャンルベ、ようやく復活を遂げたプリカジュール……。実のところ、これまでエナメルの本質を分かりにくくしていたのは、特にメティエ・ダールの分野で七宝技法として解説されてきた、こうした用語かもしれない。これらの技法は、極論してしまえば、応用的に派生した“地金の装飾加工”であり、肝心の釉や炎の扱い方ついては、何ひとつ語っていないのだ。今回は、第一線で活躍するアーティストたちを訪ねながらも、“超絶技巧”については特に触れない。知りたいのはもっとベーシックな、釉と炎の関係だ。
スイスエナメルを独自に復権させた先駆者と言えば、故ドミニク・バロンの名が真っ先に思い当たる。ストラスブール大学で美術を専攻した後に、伝統的なジュネーブエナメルの技法を習得した彼女は、個人作家として活動しながら、いくつかのダイアルサプライヤーでコンサルタント業務を請け負ってきた。2000年からリシュモン グループ傘下となっていた旧スターン・クリエイションにも05年頃から携わり始め、後進の指導に尽力。生前の彼女は、それぞれ細かく異なるエナメルの手法を、多くの作家が開示していないことに危機感を募らせていた。事実、1893年に創業したスターンでも、半世紀前までは普通にエナメルダイアルを生産していたが、その技法を継承してこなかったために、彼女の参画までは生産再開の目処すら立たなかったのだ。その後、正式にスターンに入社(08年)した彼女は、ニヨンに新しい工房を構える。ここで実習生や技術開発部を含めた10人程度を指導していたのだが、彼女は突然、若くしてこの世を去ってしまった。理由は知らない。現在、彼女のエナメル工房は再びジュネーブのメイランに移され、リシュモン グループが研究開発と教育の拠点として新設したキャンパスの一部となっている。彼女が育てた人材の多くは、今も第一線で活躍中だ。
時計師から転向して、独学でエナメル作家となった先人としては、ジャガー・ルクルトのミクロス・メルツェルがいる。21歳で同社に入社した氏は、エナメル細密画が施されたアンティーク懐中時計に触れて深い感銘を受けたと語っている。ここから独学での試行錯誤が始まるが、当初は手掛かりとなる文献すら見つけることができなかった。しかし、ルイ-エリー・ミレネが1963年に著した『MANUEL PRATIQUEDE L’EMAILLAGE SUR METAUX』という本に出会ったことが大きな転機となった。これは、70年代頃までスイス国内で金属釉を生産していたミレネ社の公式ガイドブックのようなもので、金属エナメルの技法が詳細に記されていたのである。しかし現在では、ミレネの金属釉など簡単に入手することはかなわない。氏は約4年の歳月をかけて、陶器の上絵付けに用いる陶釉なども併用しながら、独自のエナメル細密画を完成させる。プレゼンテーションはすぐさま社内に受け入れられ、氏の職責はジャガー・ルクルトの時計師から同社マスター・エナメラーとなった。96年のことである。そんなメルツェル氏も引退が間近だと聞くが、やはり同社のマスター・エングレーバーから転向したソフィー・ロシュ・ケナオンらを筆頭に、何人かの実習生に、独自研究した技法を伝授している。
そのため作品に必要となる釉の発色やグラデーションの階調などを、事前に研究して、すべてを準備しておかなければならない。
(中右)アニタ・ポルシェが、“最良のミニアチュール”と賞賛するスーザン・ロウの作品。彼女は1970年代に直接指導を受けているが、当時はまったく仕事もなく、忘れ去られた存在でもあった。
しかし、一度焼き上げてしまえば何世紀でも変質しないエナメル細密画に、大きなクリエイションの可能性を感じたと言う。
(中左)細密画を手掛ける作家にとって、自らの技術と同等以上に重要なものが、発色に優れた往年の“金属釉”。加えてアニタさんは、パイヨンも昔のほうが優れていたという。ゴールド
製の薄板を、ハンドエングレービングで仕上げた金型で打ち抜く昔のパイヨンは、現在のレーザーカット仕上げとは立体感がまるで異なる。
(左)透明にも不透明にもなるというオパール調の金属釉は、現代では失われてしまった色のひとつ。この色で覆われたフランケエナメルは、下地のギヨシェが見え隠れして実に美しい。金
属釉自体が鉛を多く含むだけでなく、ラジウムまで含むというから規制対象となるのも無理からぬ話だが、焼き上げた作品自体に有害成分はない。
まだスイスエナメルの技法が生きていた1970年代に、著名なエナメル作家たちから実践的な訓練を受けた“失われた技術の継承者”。細密画を最も得意とし、あらゆる技術を使いこなす“孤高のエナメル作家”ではあるが、実際には朗らかなご婦人だ。
機械式時計の復権期から現在に至るまで、当代随一とされているエナメル作家と言えば、それは間違いなくアニタ・ポルシェだろう。緻密なエナメル細密画をはじめ、クロワゾネやシャンルベ、パイヨン、グリザイユなど、あらゆる技巧を駆使しながら、まさしく芸術品と呼ぶにふさわしい作品を多く生み出してきた。なぜ“スイスエナメル復権の立役者”として最初に名を挙げなかったかと言えば、彼女は独学の徒ではないからだ。彼女は言わば、現在は失われてしまった技法の正統なる継承者なのである。
1961年、ラ・ショー・ド・フォン生まれの彼女は、12歳のときに親戚のエナメル作家、ピエール・シュネーベルガーに才能を見いだされ、エナメルの基礎的な技術を伝授されたという。その後、美術学校に通いながら、ジュネーブエナメル(エナメル細密画)のアーティストとして特に著名なスーザン・ロウをはじめ、メイ・メルシエら何人かのエナメル作家たちから実践的な訓練を受けながら育った。最初にエナメルの仕事を手掛けたのは75〜76年頃。彼女がまだ14〜15歳だった時代である。学業を修めた後はデザイナーやアートスクールの講師をしながら作家活動を続けてきたが、95年からはエナメルだけに専念。アーティスティックな感性を持った時計ブランドと組むことで、彼女が生み出す繊細なメティエ・ダールの需要はさらに拡大していったという。現在のクライアントは、パテック フィリップやヴァシュロン・コンスタンタン、ピアジェ、シャネル、エルメスに限られているが、かつてはジャケ・ドローなどにも作品を提供していた。ローザンヌ近郊にある現在のアトリエは10年ほど前にオープンしたもので、アニタさん本人の個人工房と、3人の弟子のための工房スペースが併設されている。細密画を手掛けるのは本人のみ。クロワゾネやシャンルベには弟子たちも携わるが、デザインとフィニッシュワークは必ず自らが行うという。彼女の作品にはさまざまな技巧を組み合わせたものも多いが、彼女が直接手掛けた作品はサインがフルネーム、工房製の作品はAPというイニシャルのみという違いがある。
「現在はいろいろな方法で作られたエナメルがありますね。例えばミクロスさんの細密画は素晴らしいけれど、陶器用の釉薬を使っているので火の入れ方が私と違うはず」
時計業界ではカルティエやグローネフェルド、オブジェとしてはファベルジェのインペリアル・イースター・エッグなどを手掛けたエナメリスト。ユニークピースが多く、ビジュティエとしても作品を生み出す傍ら、エナメル全般に関する基礎研究も手掛ける。
隆盛を極めたスイスエナメルが終焉を迎えようとしていた1970年代に、最高峰の技術を直接受け継いだアニタ・ポルシェ。そんな彼女は、現在のスイスエナメルを取り巻く環境をどのように見ているのか?「現在のスイスには専門的にエナメルの技術を学べる教育機関はありません。だから1カ月ほどトレーニングしただけで、もう一人前の職人扱いです。これは技術の破壊の始まりです。日本には国が技術を保護する“人間国宝”などの制度がありますね。地震なども多いし、日本人はいろいろなものが簡単に失われてしまうことをよく知っているのでしょう。だからノウハウを保存しようとするのだと思います。現在のスイスは、失ってしまった技術を別の方法で解決しようとしていますね。例えばエンジニアが考えたホワイトエナメル。真空のオーブンを使えば気泡が出ないとか、熱に耐える地金を誰かが発明したとか、でもそんなことは私の仕事とは関係のないこと。進化や発展を否定はしないけど、それではノウハウを護ることができません。だから私はひとりで製作する道を選んだのです。工業化されていないエナメルは、確かに不完全かもしれません。リアルエナメルは変形するものですから、時計に組み込むには技術も必要でしょう。でもそれが本物のエナメル。工業化されたものは、技術がなくても作れてしまう。だから技術のロス。でも何が最大の問題かって分かる? それはね、きっとエンジニアが頭で考えたホワイトエナメルのほうがパーフェクトなことなのよ」
フルリエ近郊のトラヴェールに自宅兼アトリエを構えるイネス・ハマグチは、これまでにカルティエなどの作品を手掛けてきたエナメル作家。ジュウ渓谷でビジューのノウハウを学んだビジュティエでもあり、在学中にスイス留学中だった夫と出会った。彼女の人生のパートナーは、ヴォーシェ・マニュファクチュールで開発・製造責任者と副社長を兼任する浜口尚大である。アトリエの隅には時計師用のワークベンチが置かれているが、これは浜口氏が持ち込んだものらしい。「ここに居候させてあげてるの」と彼女は笑う。ユニークピースをメインとする彼女の作風は、とにかく“時間のかかるもの”。開発2年、製作だけで1カ月というものも少なくない。ちょうどプレゼンテーション用の資料をまとめていたという彼女は、釉について詳しく教えてくれた。「エナメル装飾に使える酸化金属はだいたい1000色程度と言われています。元々は7万色もありますが、温度や衝撃に耐えることを考えるとだいたい1000色に絞られてくる。実際に使うのはそのうち700色くらいです。1970年代まではスイスにも、ミレネという金属釉を作る会社がありました。当時は環境問題なども気にしていなかったので、ラジウムという名前のオパール調の釉もありました。クリスタルには約25%の鉛が含まれていますが、金属釉に含まれる鉛はもっと多く、50〜70%ほどにもなります。環境や健康被害に対する規制が厳しくなった影響もあって、どんどん色数が減っていきました。赤も成分が変わって、鮮やかさが失われてしまいました」
現在、多くのエナメル作家が探し求めているのが、ミレネのオールドストックだ。イネスさんは、かつてトレーニングを受けたエナメル職人が亡くなった際に、貴重なオールドストックを譲り受けている。それでも揃わない色などは、エナメリスト同士で分け合うこともあるそうだ。「陶器と金属では、温度に対する耐久性と、温度管理の方法がまったく異なってきます。陶器に施釉する場合、急激な温度変化は厳禁。同じ800℃で焼く場合でも、ゆっくりとオーブンの温度を上げて、それこそ24時間かけて冷まします。金属の場合はいきなり800℃のオーブンに入れて、すぐに取り出すことも可能です。現在、金属専用に作られている釉は10色ほど。それらも鉛などの成分が昔とは少し異なっています。基本は同じでも、使える/使えないをひとつひとつテストしなければなりません。また今は金属用に特化したメーカーがないので、どうしても陶器用を転用しなければならない。そうなると長い時間をかけた研究と、経験値が重要になってきます」
純金、YG、WG、銀、銀箔、銅などの異なった地金に釉を載せて、試し焼きするカラーパレットは、どんなエナメリストでも必ず作っているものだ。では金属釉と陶釉の最も大きな違いとは何だろう?「それは釉に含まれるガラス質の量ですね。本来の金属釉は成分のほとんどが酸化金属です。また、陶釉よりもさらに細かく砕いて使います。釉薬自体にガラス成分が少ないので、最終的にはフォンダン(無色透明な釉)をかけてコーティングしなければなりません。ジュネーブエナメルがフォンダンを使うのはそのためです。スイスのエナメリストには、この違いを説明できない人も多いですね。ほとんどの場合、陶釉で代用するので、違いを理解していないのです」
ところで筆者は、最近エナメリストに会うたびに同じ質問を繰り返している。それは、ブラックエナメルはホワイトより難しいと聞くけど何故? というものだ。答えはいつも決まっている。「同じでしょ?」。ところがイネスさんは、面白いことを教えてくれた。「白とか黒のソリッドエナメルなら、スペシャリストがひとりいるわよ」。
レ・マン湖沿岸に沿ったヴォー州エトワに昨年オープンしたばかりのアトリエ棟。その一室にソフィー・メイランの工房がある。もともとセラミスト(彫塑家)だったという彼女は、2010年からニヨンにあった故ドミニク・バロンの工房でエナメルを学んだ。エナメリストとして独立した12年以降は、ピアジェやローマン・ゴティエ、ドゥ ラノー、またD&LやGTカドランといったダイアルサプライヤーなどの仕事を請け負っており、取材時は「ロジカル・ワン」のエナメルを手掛けていた。
「単色エナメルの場合は、高品質の釉をよく選んで、正しく準備することが重要です。今ではビジュー用の釉を供給する会社はスイスにありませんが、ブライスエナメルのオールドストックを手に入れたり、他にはシャウアーやフランス・サンポールのクリスタル会社や、もちろん日本の製品も使います。色によって準備方法も変わってきますね。例えば、黒は不純物が最小となるように、比較的大きな欠片から砕いていきます。そして酸を加え、釉の中にもともと含まれている気泡を少なくしていきます。対して白は、メーカーである程度細かくしたものを使っています。いくつかの色では、砕いた後に数日休ませることも大切だと分かってきました。こうすることで、焼成後の表面全体に、小さな気泡が浮き出てくることを避けられます。もうひとつ、地金のクォリティも重要なんですけど、そこはエナメリストに管理できない分野ですよね」