1969年の「セイコー クオーツ アストロン 35SQ」の登場によって、腕時計のメインストリームは機械式からクォーツ式に取って変わることとなる。なぜ、クォーツは腕時計の主流となれたのか? そして、いかにしてそこから機械式時計は復権することができたのか? 本誌読者であり、大の時計コレクターとしても知られる白苺氏がセイコーを例に解説する。
Photographs Eiichi Okuyama,Yu Mitamura, Masanori Yoshie
白苺:文
Text by Shiroichigo
高精度への探究心が結実したクォーツウォッチの量産化
1969年12月25日に発売された世界初の量産型クォーツウォッチ。搭載するCal.35SQは、後の標準となった集積回路(CMOS IC)を用いず、セラミック基板上にトランジスタ76個、コンデンサ29個などを固定したハイブリッドICを搭載した。なお、この年の大卒初任給が3万4100円であることを考慮すれば、販売当時の価格45万円がいかに高価だったかが伝わってくる8192Hz(後に1万6384Hz)。8石。18KYG(直径35mm)。
セイコーはクォーツムーブメントを開発した世界最初のメーカーのひとつである。クォーツが登場した際にはさまざまなメーカーが開発に取り組んだが、例えば欧州の競合他社が作り上げたβ21は、そのスイープ運針が示すように現代のクォーツとは異なる、いわば試作品的な存在であった。それに対してセイコーの「アストロン」は、当初から市販を前提に作られたものであり、以後も順調に発展を遂げていった。いわば現代のクォーツはおおよそ全てがセイコーのクォーツの子孫、と言ってよいのである。
セイコーはアストロンに先駆けて、数多くの機械式クロノメーターや、それを上回る高精度の「V.F.A.」を作り出した。そんな同社が、さらなる高精度を追求した結果として、スイスの天文台クロノメーターコンクールにクォーツムーブメントで参加し、その量産化を考えたのは、むしろ自然な流れだった。
クォーツへの傾倒はセイコーのプロダクトにも影響を及ぼした。セイコーは機械式ムーブメントの主力を、精度を追求した10振動(3万6000振動/時)の傑作である61系や45系キャリバーから、精度の追求そのものよりも、精度と信頼性のバランスをとった8振動(2万8800振動/時)の56系キャリバーなどへシフトさせた。
同時期にロンジンのウルトラクロンなども10振動から8振動に変更されたが、それには耐久性の問題があった。これはセイコーも同様で、45系でも主ゼンマイが切れるという問題があったのである。高精度を求めると長期の信頼性に問題が出てくる、高振動機械式ムーブメントの代わりに、セイコーはより安全性の高いクォーツムーブメントを発展させ、ツインクォーツやトリプルクォーツを用いた年差高精度機へと深化させていったのであった。
ここで時間を少しさかのぼりたい。日本の経済は第2次世界大戦の敗戦後、1950年代の朝鮮特需などを経て、軽工業から重工業への転換に成功した。加えて生産技術の発達もあり55年からは高度経済成長期を迎えた。工業製品の品質向上と、顧客の購買能力の向上は顧客により高級な製品に目を向けあせた。そこで60年に登場したのがセイコーの高級ライン「グランドセイコー」である。
当時は悪名高い高額な物品税もあり、日本国民の舶来品(輸入品)に対する抵抗は少なくなかった。上流階級を除いて日本人が輸入品に対して身構えずに接するようになったのは80年代のプラザ合意とその後のバブル景気以降(編集部注:物品税の廃止は1989年である)のことである。そのため国産の上級ラインとして登場したグランドセイコーは、大いに人々に歓迎されたのであった。
精度に情熱を注いだセイコーのひとつの答えが、初代グランドセイコーだ。当時のスイスB.O.クロノメーター規格を凌駕する5姿勢の平均日差-3〜+12秒、最大日較差が7.0秒、復元差が±5.0秒以内という精度基準「グランドセイコー規格」が発表と同時に設けられた。当然、セイコーの高精度に対する探究心は、クォーツの開発・改良重視へとつながり、結果的にグランドセイコーはカタログから消えていくこととなる。なお、写真は市販されなかった「幻のモデル」と呼ばれるプラチナケース版。手巻き(Cal.3180)。25石。1万8000振動/時。パワーリザーブ約40時間。Ptケース(直径34.95mm、厚さ9.55mm)。非防水。
初代グランドセイコーはケースの造作の良さもさることながら、現代にも通用する、視認性がよく、見栄えも立派な笹針(ドーフィンハンドの一種だが、上面の広いフラットな面とそれを面で縁取っているのが特徴的)など分かりやすい独自のアイコンを備えていた。それに加えて、後に登場した10振動モデルに代表される機能––特に精度に対する探究心––が、時計に実用性を追い求める日本の国民性と合致して、長くコレクションとして続くことになったのである。
しかし、先に記したクォーツの登場は、精度の面で大きな革命となった。繰り返すが、高い精度に情熱を注ぐセイコーがクォーツの改良に邁進するのは自然の道理である。その結果、それまで与えられてきた「グランドセイコー」の名は発展的に「グランドクォーツ」や「スーペリオクォーツ」(いずれも1975年)に置き換えられ、「グランドセイコー」のペットネームは長らくセイコーの表舞台から姿を消すことになったのであった。
クォーツの登場は、それを「クォーツショック」と呼ぶか、『クロノス日本版』広田雅将編集長が呼ぶように「クォーツエボリューション」と呼ぶのがよいかはさておき、その影響は、通常考えられがちなように、単なる「高級時計製造の本拠たるスイスに打撃を与えた」ものではなかったと筆者は考える。
スイスのメーカーは、当初、クォーツムーブメントを超高精度時計として、少量を極めて高額に生産・販売することを期待していた。しかし、日本のセイコーをはじめとする諸メーカーの努力により、クォーツは逆に極めて安価に数億個単位で生産されて世界に広がることとなった。クォーツの普及で直接打撃を受けたのは、スイスの中でも、むしろ高級時計を少量かつ手作業で製造するメーカーよりも、安価となったクォーツムーブメントと直接競合し、精度面で全く勝ち目がなくなった、より安価な時計を製造するメーカーだったのではないだろうか。
そのようなメーカーの作る時計は、極端な例でいうと簡素なピンレバー脱進機を用いた「ピンレバーウォッチ」や、そこまで安価でなくても量産されたムーブメントを用いた、高級品では15石や21石は用いられる軸受のルビーを、7石だったり、さらには全く用いていなかったりする簡素なムーブメントを載せたものが多数を占めていた。
いわゆる3大といわれる高級メーカー(編集部注:パテック フィリップ、ヴァシュロンコンスタンタン、オーデマ ピゲ)は、今も昔も手作業による工芸品を作っているという印象が強い。しかしその高級メーカーにしても、現在につながるメーカーの多くはその登場当初から実はワンオフよりも量産を考慮していたメーカーが多いのである。スイスに先駆けて名声を博していたフランスやイギリスの高級時計では、宮廷や貴族のための時計に源流を発したこともあり一点ものの時計もしばしば見られた。それに対して、スイスでは例えば3大時計メーカーのひとつであり、その中でも最古のヴァシュロン・コンスタンタンですら、大量ではなくとも量産を意識した工具や設計を用いた「エボーシュ」の導入による高級・高品質時計の量産化を積極的に行っていたのである。
スイスの時計作りは、19世紀末の鉄道時計の開発から高精度時計の量産に成功していたアメリカの時計工業との技術交流や、さらに主に第2次世界大戦期のアメリカの時計工業から自動車・航空機などへの工業構造の転換に伴うスイスへの移管などを経てさらなる発展を遂げていった。それ故にスイスの時計産業は、その職人芸的なイメージ以上よりも、むしろ工業的なものであったと言えよう。確かに40年代から50年代にかけて、スイスにはパテック フィリップ「カラトラバ」Ref.96の様な、雲上クラスの傑作は存在している。しかし、スイスの時計産業の中心的な製品は、実態としては無数の安価な時計だった。
安価な機械式ムーブメントを積んだスイス製の時計は、日本製のクォーツ時計の登場で容易に息の根を止められてしまった。いわゆるピンレバーウォッチなどの安い時計は、おおざっぱな時間を見る事ができる程度の精度と安定性、耐久性しか持たなかった。それに対して数百円で購入することができる(もっとも、当初はもっと高価ではあった)クォーツ時計は、ピンレバーウォッチはおろか、数十万、数百万する高級な機械式時計よりも精度が良く、バッテリーが保つ限りは手間もかからなかったのである。
加えてクォーツの薄く小さいムーブメントは、より薄く使い勝手の良いサイズのケースの時計に防水性すら盛り込めるようになった。どうして時間もズレ、すぐ故障する安価な機械式時計がクォーツ時計に対抗できるだろう? そのようにしてセイコーは安価なものと、超高精度なものの双方でクォーツの頂点に君臨していったのである。