広田雅将、古川直昌:取材・文 吉江正倫、ヤジマオサム、三田村優:写真
[連載第1回/クロノス日本版 2010年11月号初出]

1976年、“世界で最も高価なステンレス製ウォッチ”が登場した。パテック フィリップの「ノーチラス」である。“新時代の剣”と銘打たれたこの時計は、卓越した仕上がりを持つだけでなく、120m防水という、当時の薄型時計としては例外的な防水性能を備えていた。しかし、薄さと防水性能を両立させたノーチラスは、その特殊な構造ゆえに搭載できるムーブメントが限定されてしまった。転機が訪れるのは2006年である。この年、パテック フィリップはノーチラスのバリエーション拡大に成功したのである。では何が、ノーチラスのバリエーションを拡大させたのか。その歴史を、06年までの旧ジェネレーションと、それ以降に分けて振り返ってみたい。

1976年に生まれたファーストモデル

Ref.3700/1A

Ref.3700/1A
通称「ジャンボ」。船の舷窓がデザインモチーフのスポーツウォッチである。厚さ3.15mmのCal.28-255Cを搭載することで、7.6mmという薄さを実現した。ベゼルの「耳」でケースを固定するという防水システムは、30年後のRef.5800まで受け継がれた。フラットな裏ブタにより、装着感も極めて優れている。自動巻き。SS(径42mm)。1976年初出。120m防水。当時の定価は2350USドル。個人蔵。
Cal.28-255C

Cal.28-255C
時計史に残る傑作自動巻き。ベースは1967年初出のジャガー・ルクルトCal.920。しかし920より厚さが0.1mm増している。堅牢さを重視した、パテックらしいモディファイと言えそうだ。また、文字盤側からリュウズの巻き芯を取り外すことが可能だ。スイッチングロッカー式両方向自動巻き。直径28mm、厚さ3.15mm。36石。1万9800振動/時。フリースプラング。

 ジェラルド・ジェンタは、一貫して薄型時計のデザインを得意としてきた。しかし、薄いケースにはスクリューバックは支えられないという問題があった。では、いかにして薄型ケースに高い防水性を持たせるのか。彼が着目したのが、2ピースケースであった。1972年のオーデマ ピゲ「ロイヤル オーク」に結実したそのアイデアは、76年の「ノーチラス」でいっそうの進化を遂げた。彼はベゼルに耳を設け、裏蓋と一体化したケースにビスで結合させたのである。これによって厚さわずか7.5㎜のノーチラスは、120mという「らしからぬ」防水性能を持った(ちなみにヴァシュロン・コンスタンタンの「222」は、ジェンタ・デザインではない)。しかしベゼルの切削にコストを要したため、ノーチラスは、当時世界最高額のステンレスウォッチとなった。

 搭載したのは自動巻きのCal.28-255C。ベースは、67年登場のジャガー・ルクルト920である。この希代の名機があればこそ、ジェンタは創作意欲を駆り立てられたのかもしれず、この極薄自動巻きは、当時最高額のステンレスウォッチに相応しい超高級機だった。

 しかしコンペティター同様、ノーチラスのセールスは、決して順調ではなかった。ロイヤル オークより大きい、42㎜というケース径が影響したのかもしれない。パテック フィリップ現名誉会長のフィリップ・スターンは、当時を回顧してこう語った。「アクアノートやノーチラスのようなSSモデルの生産を開始した時も、我々は若い方向きに考えていました。しかしそれは誤算となり、スポーツ時やオフの週末用のものを求める〝年配の方〟に売れたのです」(『アームバントウーレン』2000年)。Ref.3700/1Aの製造本数は、わずか1200本程度と言われている。

(上左)18KWG製のインデックスを備えた文字盤。現行品に比べて「緩い」カットの風防にも注目。あえて角を丸めることで、破損を防いでいる。(上右)当時のステンレスは304L。現行品に比べてグレイッシュである。(下左)ベゼルと「耳」。現行品に比べてフラットである。(下中)「耳」とケースバック。一見はめ込み式に見えるが、実は2ピースケース。(下右)時代を感じさせる、簡素なバックル。しかしブレスレットの作りは極めて良い。