IWC/パイロット・ウォッチ

広田雅将:取材・文 吉江正倫:写真
[連載第10回/クロノス日本版 2012年7月号初出]

純然たるミリタリーユース向けに設計されたIWCの「パイロット・ウォッチ」。その信頼性と高精度は、多くのパイロットたちから、高い信頼を勝ち得てきた。
1980年代以降、同社はパイロット・ウォッチを民間にも販売するようになる。しかし軍用時計をルーツに持つその血脈は、質感が大きく向上し、時計愛好家の認知度を高めた現在もなお、決して揺らぐことがない。

BIG PILOT’S WATCH 52T.S.C. [1940]

大戦の空を飛んだミリタリーモデル

ビッグ・パイロット・ウォッチ 52T.S.C

ビッグ・パイロット・ウォッチ 52T.S.C.
1935年(異説あり)の航空用デッキウォッチ計画によって誕生した、士官用の高精度パイロット・ウォッチ。出撃前に航空基地のマリンクロノメーターと時刻を合わせ、その時刻を各パイロットの腕時計に伝える役割を果たす。旧所有者はドイツ空軍のヘルムート・ナーゲル少尉。手巻き(Cal.52T.S.C.)。16石。1万8000振動/時。真鍮またはスティール(直径55mm)。重さ183g。IWC蔵。

 先の大戦中、IWCは英独両軍にパイロット・ウォッチを提供していた。イギリス向けが通称マークシリーズ、ドイツ向けがビッグ・パイロットこと航空用クロノメーターである。両者の性格は異なり、前者は戦闘機パイロット向け、対して後者はクロノメーターの腕時計版だった。

 ドイツ海軍は、各地の天文台に高精度な振り子時計やラジオ時計を設置した。その時刻は各地に送信され、空軍基地に置かれたマリンクロノメーターの時刻合わせにも使用された。航空用クロノメーターには、そのマリンクロノメーターの時刻をパイロットの腕時計に伝える役割が求められたのである。

 1935年、ドイツ海軍は軍艦に載せるためのデッキクロノメーターに4つの基準を設けた。IWCは、海軍の審査に懐中時計用ムーブメントのキャリバー52(後にキャリバー67)を提出。最優秀の「特別級」を獲得した。

 海軍の動きに触発されたのか、帝国航空省(RLM)もドイツ海軍天文台と共同で航空用クロノメーターの開発に乗り出した。求められた基準は不明だが、ドイツ海軍のそれに加えて、ストップセコンド機能と-20℃までの寒冷性能を加えたものとされる。やはりIWCはテストに合格。40年にはベルリンのジークフリード・ヘインドルフ社経由で、約1000本の航空用クロノメーターを納入した。この時計が搭載するキャリバー52T.S.C.は、海軍用を転用したもの。6姿勢と3温度での精度補正に加え、内端と外端を成形したヒゲゼンマイと、ニッケル合金製のテンワは、携帯時計とは思えぬ超高精度を誇った。

 事実、ドイツ空軍による42年1月9日の「クロノメーター日誌」は、この時計が日差±0秒であったと記録する。以降も、優れた航空時計は数多く作られた。しかし機械式に限っていえば、ビッグ・パイロットを超える高精度機はおそらく存在しないはずである。

ビッグ・パイロット

ヘルムート・ナーゲル少尉の使用した個体。彼とそのチームはこの時計と八分儀を使い、天文航法の実験を行った。マリンクロノメーター級の精度を持つ、ビッグ・パイロットならではの使い方だろう。(左上)直径49mm、厚さ0.9mmのダイアル。視認性を高めるため、インデックスにはラジウム系の夜光塗料が施された。(右上)標準的な“ポコ蓋”。しかし1948年のマーク11に先駆けて、このモデルはスティール製の耐磁ケースを内蔵していた。(中)ケースサイド。ビッグ・パイロットの特徴は、円錐状のリュウズとされている。しかし前期型のリュウズはこの円柱状が正解。おそらくは、同年代のポルトギーゼから転用したものか。(左下)センターセコンド針。秒針の挙動を安定させるために、大きなカウンターウェイトが備えられる。(右下)IWCのパイロット・ウォッチは、2ピースのケース構造に特徴がある。急激な気圧の変化によって、風防が外れないようにするためだ。しかしこれはまだ3ピース。ジャケットの上から取り付けられるよう、長いストラップを持つ。なお搭載するCal.52系は、基本設計を1883年の「キャリバーIWC」にさかのぼる。あえて当時最新のCal.67系(1936年初出)を使わなかった理由は、Cal.52よりもサイズ(とテンワ)が小さかったためだろう。