原点たるに相応しい1957年の奇跡と復刻
TRILOGY 1957-2017
レイルマスターのファーストモデルは、シーマスター300、スピードマスターと同じファミリーに属していた。しばしばこの3モデルが“兄弟機”と言われる所以だ。ではこの3モデルは何が共通していたのか。当時としては革新的だった防水システムのナイアードロックから、その革新性を解き明かしたい。
1957年に発表された、レイルマスター、シーマスター300、スピードマスターのいわゆる3部作(トリロジー)。オメガはひとつのファミリーとして打ち出したが、実のところ開発年度も、その経緯もバラバラだった。先述したとおり、レイルマスターの祖は、53年のイギリス空軍向けの時計だった。防水時計のシーマスターも同様で、48年の広告は「イギリス王室空軍のパイロット向けの時計がベース」と謳っていた。最後発は57年に始まったとされるスピードマスターのプロジェクトで、カーレースで使用されることを想定したモデルだった。
では誰がトリロジープロジェクトを指揮したのか。読者諸氏も周知のとおり、高名なスピードマスターには携わった人々の名前が残されている。ケースデザイナーといわれるのはクロード・バイヨで、プロトタイプを完成させたのはジョルジュ・ハートマン。スピードマスターを含むトリロジーのディレクターは不明だが、おそらくクリエイション部門の責任者を務めたピエール・モワナではなかったか。彼は55年から少なくとも60年代後半までこの職にあり、オメガに優れたデザインをもたらした。一例が、オメガ・ジュネーブの「ダイナミック」コレクションだ。
ここからは少し余談。モワナの前任者はルネ・バンヴァルトである。48年、彼は新設されたクリエイション部門の責任者となり、100周年記念モデルの「センテナリー」や「シーマスター」(48年)、「コンステレーション」(52年)などのデザインを手掛けた。55年にオメガを去った彼は、コルムの共同創業者兼デザイナーとして、「アドミラル・カップ」 「コインウォッチ」 「ゴールデンブリッジ」などの傑作を生み出した。バンヴァルトの下でクリエイション部門の権限が拡大し続けたことを考えれば、後継者のモワナが、トリロジーの監修者と考えて間違いなさそうだ。
閑話休題。さまざまな成り立ちを持つトリロジーを、なぜオメガはひとつのファミリーとして打ち出せたのか? 理由のひとつは間違いなくマーケティングである。当時オメガが注力していたアメリカ市場は、ペットネームの付いた時計を歓迎する傾向にあった。
しかし大きなファミリーとして打ち出せた本当の理由は、これらが新しい防水システムの「ナイアード」(Naïad)を備えていたためではなかったか。手巻きの超耐磁時計に、自動巻きを載せたダイバーズウォッチ、そしてカーレースで使用される手巻きクロノグラフは、異なるユーザー向けの時計だったが、いずれも当時の水準を超えた防水性能を持っていた。事実、3モデルを載せたパンフレットには、際だった防水性能と、それを可能にしたナイアードシステムに、相当量の紙幅が割かれている。
古代ギリシャ神話に出てくる〝ナイアデス〟とは、湖、川、海のニンフであり、水に関する神秘的な保護者だった。かつて、水が乾いた川を見たギリシャ人たちは、ナイアードが去ったので川から水がなくなった、と語った。ギリシャ語で完成を意味するオメガ。同社が防水システムにも、ギリシャ神話にちなんだ名前を与えたのは当然だろう。ちなみにナイアードの名前が出てくるのは、30年代のこと。オメガはこの防水システムに、ナイアードという名称を与えた。
50年代初頭に完成したナイアードは、30年代のそれとは大きく異なるものだった。それ以前の防水システムは、ナイアードを含めて、ケースの防水性能を高めるものだった。分かりやすい例がロレックスのオイスターケースである。ねじ込み式のリュウズとケースバックを持つオイスターケースは、ケースに依存した防水システムの完成形といえる。しかしねじ込み式の防水システムは、しばしばリュウズ周りに不具合を起こし、たちまち防水性能を失った。ロレックスがリュウズを操作する必要の少ない、パーペチュアル自動巻きの開発を急いだ一因である。
イギリス空軍向けの耐磁時計を祖に持つ超耐磁時計。高精度な30mmキャリバーを搭載するほか、約60mの防水性能を誇った。手巻き(Cal.284)。17石。1万8000振動/時。SS(直径38mm)。200フィート(約60m)防水。1957年当時の価格275スイスフラン。参考商品。
対して新しいナイアードシステムは、ケースではなくリュウズに防水性を持たせるものだった。これならばリュウズのチューブが摩耗して防水性能を失うこともないし、消耗部品を替えるだけで、防水性能を元に戻せる。
あくまで筆者の推測だが、新しいナイアードのアイデアは、48年のシーマスターに由来するのではないか。このモデルは金属製の見返しでヘザライト(プラスティック)製の風防を支える、「アーマードガラス」を採用していた。水圧で風防がゆがんでも、膨張した見返しが圧力をかけて気密性を保つというアーマードガラスの構造が、水圧を利用して気密性を高めるナイアードシステムに、影響を与えなかったとは考えにくい。
オメガはリュウズに依存する新しいナイアードシステムをさらに改良し、57年のトリロジーで全面的に採用した。その構造は97ページ左上の図が示すとおり。ナイアードのリュウズ内にはドーナツ状の空洞があり、そこにコルクのようなゴムの小片と、いくつかの天然素材を混合したシーリングパックを押し込み、金属製のリングで蓋をする。水圧がかかると、金属リングは押され、伸縮性のあるシーリングパックを圧縮する。水圧が高くなるほど、シーリングパックはさらに圧縮され、リュウズのチューブとの隙間を防ぐ。簡単に言うと、ナイアードとは、水圧を利用してリュウズの防水性能を高める仕組みだった。
レース業界に携わる人々や生産管理者向けに開発されたクロノグラフ。2重のケースにより高い耐衝撃性能を持つ。手巻き(Cal.321)。17石。1万8000振動/時。SS(直径38.6mm)。200フィート(約60mm)防水。1957年当時の価格415スイスフラン。参考商品。
200m防水と、3万2000フィート以上の耐圧性能を持つダイバーズウォッチ。回転式ベゼルの表記は、通常とは逆である。自動巻き(Cal.505)。20石。1万8000振動/時。SS(直径39mm)。600フィート(約200m)防水。1957年当時の価格360スイスフラン。参考商品。
57年に採用された新しいナイアード(オメガの関係者はしばしば〝ナイアードⅡ〟と呼ぶ)は、シーリングパックの安定性と復元性を高めるため、さらにスプリングを加えたものだった。シーリングパックにスプリングが常時圧力をかけるため、水圧が急激に変動しても防水性が保たれるようになった。オメガはこのシステムによほど自信を持っていたのか、新しいナイアードのリュウズに、星状のロゴマークをあしらった。
ちなみに57年のナイアードシステムは、ねじ込み式ではない防水システムのスタンダードとして、62年以降、スイスの時計業界に普及した。最も著名なのは、ケースメーカーのピケレの開発した通称「コンプレッサーケース」だろう。水圧がかかるとOリングが圧縮されて防水性能を高める構造は、ナイアードにまったく同じだった。IWCの「アクアタイマー」が採用した防水システム、CATも、やはりリュウズの構造はナイアードに酷似していた。
リュウズのチューブを傷めずに防水性能を高められるナイアードは、当時最も革新的で、汎用性の高いシステムだった。恩恵を受けたのは、手巻きムーブメントを載せたレイルマスターとスピードマスターである。ひんぱんにリュウズを操作する手巻き時計に、ねじ込み式のリュウズは与えづらい。対してケースではなくリュウズの気密性を高めることで、レイルマスターとスピードマスターは、200フィート(約60m)という高い防水性能を持てるようになった。
CK2914の復刻版。なおシーマスター300とレイルマスターの風防は内面無反射コーティングを施したサファイア製である。自動巻き(Cal.8806)。35石。2万5200振動/時。パワーリザーブ約55時間。SS(直径38mm)。60m防水。限定3557本。73万円。
耐水性を高めたひとつの理由が、アーマードガラスである。スティール製の見返しで風防にテンションをかけるアーマードガラスは風防の気密性を大きく高めた。オメガはさらに改善を加え、シーマスター300の風防を3倍の厚さに増したほか、金属製の見返しを接着した。その結果、シーマスター300は飽和潜水にも耐えられる防水性能を確保できたのである。いわば、スポーツウォッチのスタンダードを打ち立てたオメガの「トリロジー」。発表60年を迎えて、オメガは復刻を行おうと考えた。
再現に協力したのはオメガミュージアムだった。トリロジーの復刻に携わった副社長のジャン=クロード・モナションはこう語る。「ミュージアムと開発チームの協力が始まったのは3年前だ。トリロジーの復刻に際して、古い広告やボックス、パンフレットなどすべての資料を提供してもらった」。
ミュージアムのメンバーと、モナションを含む開発チームは何度も打ち合わせを行い、トリロジーの完全な復刻を目指した。モナションが言う「見た目は昔と同じ、しかし中身は最新の時計」を作るためである。しかし完全な復刻への道は遠かった。直面したのは、サイズが分からないという問題だった。
「復刻にあたってオリジナルの設計図を見たが、正確なケースサイズが分からなかった。そこでミュージアムの時計をMRIにかけて、正確なサイズを算出した。このトモグラフィーという手法は、時計業界で初めて使われたものだ」。さらに問題なのはロゴの扱いだった。当時も至る所にロゴが用いられていたが、向きもディテールも違っていたのである。
“ブロードアロー”ことCK2915の復刻版。右の2モデル同様、スーパールミノバの発光量を増やすため、インデックスは深く彫り込まれている。手巻き(Cal.1861)。18石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約45時間。SS(直径38.6mm)。60m防水。限定3557本。77万円。
CK2913の復刻版。1万5000ガウス以上の耐磁性能を持つコーアクシャル マスター クロノメーターを搭載するほか、防水性能も300mに向上した。自動巻き(Cal.8806)。35石。2万5200振動/時。パワーリザーブ約55時間。SS(直径39mm)。300m防水。限定3557本。75万円。
「ロゴがバラバラなのは、当時コーポレートアイデンティティというものが存在しなかったためだ。しかし私たちはそのエラーも含めて、完全な再現を決めた。シーマスター300のベゼルも今と表記が違っている。おそらくデザインに法則はなかったのだろう。しかしこれも残した」(モナション)。
もっとも、完全な復刻についてはモナションの個人的な希望も反映されたのではないか。彼はシーマスター300のベゼル上にある突起を例に挙げた。「ベゼル上の三角モチーフは、2005年のプラネットオーシャンで採用したかった。クォリティマネージャーに反対されて当時は諦めたが、復刻版でようやく再現できた」。ケース上の突起はレギュラーモデルなら難しい。しかしワンショット生産の復刻版ならば、クレーム対象にはなりにくいだろう。まして好んで購入するのが熱心なオメガコレクターならばなおさらだ。
もっともオメガは、トリロジーの実用性を増すため、細かなモディファイを加えた。ひとつはムーブメント。シーマスター300とレイルマスターには、1万5000ガウスの耐磁性を持つ自動巻き、キャリバー8806が採用された。モナションが「論理的な選択」と語った通り、サイズが25.6㎜しかないキャリバー8800系は、小ぶりなモデルにはうってつけだった。仮に8800系という新しい自動巻きがなかったならば、オメガは復刻を断念したに違いない。
もうひとつがブレスレットだ。1957年のオリジナルには、薄いセミエクステンションのブレスレット(Ref.7077)が付属していた。対してオメガは、新しいトリロジーに、重厚なネジ留めのブレスレットを与えたのである。しかも見た目は同じだが、3つのブレスレットに共通性がないというのは、今のオメガらしい凝りようだ。
文字盤もオリジナルとはわずかに違う。57年のシーマスター300とレイルマスターが採用したのは、インデックスを彫り込み、そこに自発光塗料を流し込んだいわゆる7749タイプの文字盤だった。オメガはその意匠と仕上げをほぼ完全に再現したが、スーパールミノバの発光量を増やすため、インデックスの彫り込みをわずかに深くしたのである。
そしてもうひとつ。新しいトリロジーのリュウズには、ナイアードの星マークが再現された。しかしケースとリュウズの気密性が高まったことを反映して、ナイアードシステムは採用されていない。
細部まで忠実に再現しただけでなく、使い勝手にも配慮が施されたトリロジーコレクション。バーゼルワールド期間中だけでほぼ完売という実績も当然だろう。