1992年以降、ジャガー・ルクルトの屋台骨であり続けるマスター・コントロールコレクション。レベルソほどの分かりやすさは持っていないが、それ故にこのコレクションは面白さに満ちている。同社のブレッド&バターであるマスター・コントロール。その長くて興味深い歩みをひもといていこう。
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
デザインとバリエーションで辿る
時代性を反映してきた〝スタンダード〟の軌跡
1980年代半ば、倒産の危機に瀕していたジャガー・ルクルトは、レベルソに続く、新しい柱を模索していた。同社はさまざまな3針モデルをリリースしたが、決定打となったのはマスター・コントロールだった。成功を収めたこのコレクションは、やがてそのバリエーションを急速に広げることとなる。
った。3温度、6姿勢での精度チェックに加えて、磁気や気圧、衝撃などにさらして、精度の変化を確認する。
1980年代のジャガー・ルクルトは、エボーシュ販売で、どうにか企業を存続させていた。アイコンであったレベルソは72年に最後のストックをイタリア向けに販売。79年にはクォーツでリバイバルを遂げたが、相変わらずイタリア向けのニッチなプロダクトでしかなかった。
経営の立て直しが始まったのは86年のことだ。ドイツの計器メーカーであるVDOからアドバイザーとして送り込まれたギュンター・ブリュームラインは、この年にジャガー・ルクルトの全権を握ったのである。97年、彼はオーストリアのジャーナリストであるアレキサンダー・リンツにこう語った。「(経営を受け継いだ)当時のジャガー・ルクルトは瀕死の状態だった。そこで私が見つけたのは、想像したことがすべて行われているという状態だった。彼らは他のブランドのためにライターやペンを作り、医療機器や測定機器、もちろんムーブメントや時計も作っていた」
1992年に発表された7モデルのひとつ。大ぶりなリュウズは防水性能を高めるため。97年にはムーンフェイズが追加された。なお初期のローターは21Kゴールド製。自動巻き(Cal.891/447)。36石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約38時間。SS。5気圧防水。
新しいCal.899を搭載したモデル。文字盤のボンベが控えめになり、ベゼルが太くなった結果、デザインはかなりモダンになった。ベルトとケースの間も詰められている。自動巻き。32石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約43時間。SS(直径40mm)。5気圧防水。
ブリュームラインが全権を握った86年当時、ジャガー・ルクルトは倒産の危機に瀕していた。この当時注目を集めていたのは、薄いクォーツやアナログ・デジタルウォッチであり、同社の得意とする機械式時計は時代遅れと見なされていたのである。120万スイスフランの追加融資を必要とする同社に、手をさしのべる銀行がなかったのは当然だった。対してジャガー・ルクルトは、所有していた約4割のオーデマ ピゲ株をすべて売却することで、かろうじて一息ついた。
倒産に直面したブリュームラインは、ジャガー・ルクルトのビジネスを根本から刷新しようと考えた。彼がまず取り組んだのが、時計ビジネス以外からの撤退だった。続いて下請けからの脱却を図るべく、ジャガー・ルクルトのメインビジネスであったエボーシュの供給先を25社から4社に絞った。残されたのは、オーデマ ピゲやヴァシュロン・コンスタンタンといった、超一流のメーカーに限られた。
新型ムーブメントの採用に伴い、マスター・カレンダーも刷新された。ケースサイズが拡大されたほか、12時位置にパワーリザーブが追加されている。自動巻き(Cal.924)。41石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約43時間。SS(直径40mm)。5気圧防水。
1997年に初めてマスター・コントロールに追加されたジオグラフィークは、06年に新型ムーブメントを採用した。これは07年のみに販売された文字盤違い。自動巻き(Cal.937)。38石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約43時間。18KPG(直径40mm)。5気圧防水。
選び抜かれたエボーシュの供給先が示す通り、ブリュームラインの狙いは、ジャガー・ルクルトを下請け場ではなく、高級なマニュファクチュールとして認識させることだった。そして幸いにも、ジャガー・ルクルトにはレベルソという強力なアイコンが存在していたのである。レベルソへの注力と併せて、ジャガー・ルクルトは取り扱い店舗の見直しに着手。86年には2500を数えた販売店は、わずか2年後には700まで削減されたのである。
もっとも、ブリュームラインの戦略がすべて当たったとは言いがたい。86年以降、ジャガー・ルクルトはレベルソの認知度を高めることに成功したが、売れ線である3針モデルでは試行錯誤を続けていた。同社は86年に女性向けコレクションの「リラ」を、87年にはIWC「ダ・ヴィンチ」のモジュールを転用した永久カレンダーを、88年には自社製のメカクォーツを載せた新コレクションの「オデュッセウス」を発表したが、いずれも成功したとは言いがたい。
一時期、ラインナップから消えていたメモボックスは、新しいCal.956と共に復活した。フリースプラングテンプにより、アラームを鳴らしても精度に影響が出にくい。自動巻き。23石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約45時間。SS(直径40mm)。5気圧防水。
2005年以降、ジャガー・ルクルトは毎年のようにマスター・コントロールのデザイン変更を行った。デザインはややクラシカルに変更されている。自動巻き(Cal.899)。32石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約38時間。18KPG(直径39mm)。5気圧防水。
当時、ブリュームラインはLMHグループの総帥として、傘下にあるIWCとジャガー・ルクルトの経営を見るだけでなく、A.ランゲ&ゾーネの再興に取り組んでいた。いわば「時計コングロマリット」を牽引する彼は3社のポートフォリオを明確に切り分けていた。IWCはスポーツモデル、ジャガー・ルクルトはオーセンティックなモデル、そしてA.ランゲ&ゾーネはパテック フィリップに並ぶ超高級モデルを手掛ける。つまりレベルソに並ぶ新しい柱は、正統派にして、ジャガー・ルクルトらしいモデルである必要があった。ブリュームラインは「オデュッセウス」をそう見なしていたようだが、このラウンドモデルは、良く出来たベーシックウォッチ以外の売りを持っていなかった。
(右)1984年に発表されたCal.889。その完成版であるCal.889/2の自動巻き機構をシンプルな片巻き上げに改めたのが2004年のCal.899である。巻き上げ効率が改善された結果、21Kゴールドローターは廃された。(中)Cal.899の改良版が2020年のCal.899AC。シリコン製の脱進機により高い耐磁性を持つほか、香箱の改良で長い主ゼンマイを搭載した結果、パワーリザーブは約43時間から約70時間に延長された。(左)右ムーブメントのローターをロジウム仕上げに改めたのがCal.899AB。ポラリス・マリナー・デイト用のムーブメントである。
そう言って差し支えなければ、92年に発表されたマスター・コントロール コレクションの7モデル(ビッグ・マスター、マスター・クラシックなど)は、「オデュッセウス」の反省から生まれた後継機だった。デザインは思い切って復古調に振られただけでなく、C.O.S.C.のクロノメーター試験を上回る1000時間テストは、際立った精度と信頼性をこのコレクションにもたらした。しかも、薄型ケースにもかかわらず50mの防水性能があるだけでなく、発表当初からブレスレット付きのモデルがラインナップされていたのである。当時、日本デスコでジャガー・ルクルトのセールスに携わっていた飛田直哉(現NHウォッチ創業者)はこう回顧する。「バーゼル・フェアで発表された後、副社長のジャン-マルク・ケラーがマスター・コントロールを持って来日しました。彼は、オデュッセウスは売れなかったけど、新しいマスターはいいと話していましたね。確かにレベルソは良い時計でしたが、普通の人にとっては特殊でした。マスター・コントロールのほうが売りやすかったし、事実、私が担当する九州マーケットではかなり売れましたよ」
2013年のモデルチェンジで、マスター・カレンダーは往年のデザインに回帰した。併せてケースサイズも39mmに縮小されている。ケースとストラップの間隔も広い。自動巻き(Cal.866)。32石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約40時間。18KPG。5気圧防水。
2017年のモデルチェンジで、マスター・コントロールは古典味を強めたデザインを追加した。個人的には好みだが、2010年代のマスター・コントロールは試行錯誤が多すぎた。自動巻き(Cal.899)。32石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約38時間。SS(直径39mm)。5気圧防水。
飛田のコメント通り、マスター・コントロールは普通の良質な時計を求める人たちにとって、うってつけのモデルだったし、90年代半ばの時点でいえば、このジャンルではほぼ唯一の存在だった。レベルソに続く強力な柱を得たジャガー・ルクルトは経営の立て直しに成功し、97年にはル・サンティエの社屋を拡充するまでになった。
マスター・コントロールがさらに進化を遂げたのは、LMHグループがリシュモン グループに参画した2000年以降のことだ。新しくCEOとなったジェローム・ランベールは、コレクションの柱である、クロックのアトモス、レベルソ、そしてマスター・コントロールのてこ入れを図ったのである。彼が目指した方向性はふたつだった。ジャガー・ルクルトの得意とするコンプリケーション化と、同社が一貫して距離を置き続けてきた、スポーツウォッチへの取り組みである。前者を象徴するのが、約8日間という長いパワーリザーブに加えて、昼夜表示とビッグデイトを備える「マスター・エイトデイズ」だろう。ラウンドケースを持つマスター・コントロールは、付加機能を載せるにはうってつけのベースだったのである。
後者の代表例は、2004年に発表された「マスター・コンプレッサー」だろう。リュウズの防水性を確保するコンプレッサーキーを備えることで、防水性能は200mに向上。加えて、「レベルソ・グランスポール」(1998年)の設計を転用した、頑強なクラスプを備えていた。もちろんマスターの名を冠するこのモデルも、マスター・コントロール同様、1000時間テストを受けたものだった。
マスター・コントロールの25周年を祝って、ジオグラフィークも古典的なデザインに改められた。てこ入れを図るためか、日付とパワーリザーブ表示が省かれ、価格も抑えられた。自動巻き(Cal.939B/1)。34石。2万8800振動/時。SS(直径39mm)。5気圧防水。
あえて2カウンターに変更されたクロノグラフ。時計としては魅力的だが、6時位置の秒針が省かれたのは本コレクションの趣旨に反するだろう。傑作Cal.751を搭載する。自動巻き。37石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約65時間。SS(直径40mm)。5気圧防水。
併せて、ジャガー・ルクルトはベースムーブメントの刷新を進めた。マスター・コントロールが搭載する3針自動巻きのキャリバー889は、基本設計を1967年のキャリバー900にさかのぼる古典機だった。同社はそれを3針化して、84年に889としてリリースしたのだ。以降毎年のように改良を加えて、94年には決定版となる889/2を完成させた(年代はジャガー・ルクルトの公式資料に従っている)。
かつてのジャガー・ルクルトが889の改良に取り組まざるを得なかった理由は、スイッチングロッカーというユニークな自動巻き機構のためだった。このコンパクトで摩耗しにくい自動巻き機構は、高級機にはうってつけだったが、巻き上げ効率が低いため、重いローターが必須だった。マスター・コントロールが比重の大きな21Kゴールドローターを採用し、889の改良版を用いたIWCが「インヂュニア・クロノメーター」のローターに、いっそう比重の大きなプラチナを使った理由である。重いローターは確かにスイッチングロッカーのプアな巻き上げ効率を改善したが、SSケースを持つ実用時計に21Kゴールドやプラチナは高価に過ぎた。加えて重いローターを与えても、スイッチングロッカーが油切れを起こすと巻き上げが悪くなるという弱点は残された。自動巻き機構にルビーを多用した889/2は間違いなく、889系の完成形だったが、スイッチングロッカーの弱点が解決されたわけではなかったのである。
原点回帰を果たしたジオグラフィーク。ムーブメントが刷新され、パワーリザーブと日付表示も復活した。自動巻き(Cal.939AA)。32石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約70時間。18Kグランド・ローズゴールド(直径40mm、厚さ10.96mm)。5気圧防水。276万円。
対してジャガー・ルクルトは、2004年にキャリバー975、05年に899という自動巻きをリリースし、マスター・コントロールに採用した。これは、レーザー溶接されたヒゲゼンマイ、緩急針のないフリースプラングテンプに、ローターの回転をよりスムーズにするセラミックス製のベアリングなどを採用した、次世代の自動巻きだった。しかし、最も大きな変更は、ジャガー・ルクルトのお家芸というべきスイッチングロッカーに替えて、シンプルな片方向巻き上げ自動巻きを採用したことだった。結果として、975と899(とその派生形)を載せた新しいマスター・コントロールは、実用時計としての性能に、いっそうの磨きをかけたのである。
2000年以降、ジャガー・ルクルトはマスター・コントロールを含むコレクションを、毎年のように刷新した。開発部長のジャン-クロード・メイランを筆頭に、レイチェル・トラザニやロジャー・ギニャール、フィリップ・ヴァンデルといった設計者たちは、当時スイスでも最も才能のある人々だった。同社で975と899の設計に携わり、後にA . ランゲ&ゾーネのためにアウトサイズデイトを完成させたロジャー・ギニャールは、かつて筆者にこう語った。「ムーブメントの設計をやりたいなら、ジャガー・ルクルト以外の選択肢はないだろう」。
加えてジャガー・ルクルトは、「オパール」という新しい開発メソッドを採用した。これはプロダクトごとに関係メンバーが集まり、情報とノウハウをシェアするというもの。結果、部門を超えた情報交換がスムーズになり、製品開発のスピードは大きく改善されることとなった。
もっとも、優れた設計陣とオパールメソッドは、皮肉なことに、マスター・コントロールからその重要性を失わせることとなった。2004年には、マスター・コントロールの所以である1000時間テストが、キャリバー101搭載機以外の全モデルに行われるようになっただけでなく、ジャガー・ルクルトはその技術力で「デュオメトル」などの新コレクションに取り組むようになったのである。
現行品では非常に珍しい、ムーンフェイズ付きのトリプルカレンダークロノグラフ。素材には経年変化の少ない18Kグランド・ローズゴールドを採用する。自動巻き(Cal.759)。41石。2万8800振動/時。パワーリザーブ約65時間。直径40mm、厚さ12.05mm。302万円。
2004年から05年にムーブメントを刷新して以降、マスター・コントロールのモデルチェンジは、ほぼ外装の変更に留まった。1000時間テストが売りにならなくなったことに加えて、975と899はそれ以上改善の余地がなかったためだ。
さらに言うと、毎年のように加えられたモディファイは、必ずしもマスター・コントロールの価値を高めたわけではなかった。かつてダイヤモンドカットで丁寧に処理されていた日付表示の窓はプリントに置き換わり、クロノグラフからは秒針が省かれてしまった。トレンドを意識するのは重要だったが、2010年以降のマスター・コントロールは、控えめに言っても方向性を見失っていた。
そんなマスター・コントロールは、2020年に再び大きくリニューアルされた。3針自動巻きの899とその派生キャリバーが改良された結果、1992年のファーストモデルに同じく、再び第一級のベーシックウォッチに返り咲いたのである。
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