パテック フィリップの古典となったゴールデン・エリプス。確かに、黄金分割のケースデザインはアイコンたるに相応しい。また、ユニークなブルーゴールド文字盤も、語るべきストーリーに満ちている。しかしこのモデルで最も重要なのは、このモデルが量産されたことにある。1960年代当時、生産は不可能と思われたオーバル型のケース。同社はいかにして、このケースを完成させ、進化させたのだろうか?
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota(Chronos-Japan)
Sppecial Thanks to PHILLIPS, ZENMAIWORKS, LUXURYDAYS
[クロノス日本版 2021年5月号 掲載]
変わることなき黄金分割の楕円
~アイコニックな造形美を生んだ数学的均整~
ゴールデン・エリプスを語るうえで欠かせないのが、黄金分割から生まれたケースデザインである。しかしいっそう重要なのは、パテック フィリップがこのデザインを製品化させたという事実だ。当時不可能と思われたオーバル型のケースを量産し、同社はその改良に取り組んでゆく。
ゴールデン・エリプスのファーストモデル。文字盤にはサンジュールの開発した、18Kゴールドのベースに、コバルトと24Kゴールドを付着させたブルーゴールド仕上げを採用。4ピースケース。手巻き(Cal.23-300)。18石。18KYG(縦32×横27mm)。非防水。参考商品。
Ref.3548より以前に発表されていた、ラグ付きの“エリプス”。見た目はほぼ同じだが、ケース構造は3ピース。製造に苦心した黎明期ならではの試みか。オリジナルはベゼルの加工がダイヤカット。手巻き(Cal.23-300)。18石。18KYG(縦32×横27mm)。非防水。参考商品。
1960年代に入り、パテック フィリップは薄型時計のバリエーションを増やすようになった。といっても、それらの多くは、実際的な薄型時計ではなく、手巻きの23-300を搭載した、〝薄く見える時計〞だった。
こうした変化の一因には、同時期に他社が進めていた薄型化がある。薄いムーブメントを載せることで、ドレスウォッチやジュエリーウォッチのバリエーションを広げていく。ジュネーブの老舗がライバル各社の動向を意識したとは思えないが、最大の市場である、アメリカの変化は無視できなかっただろう。
3ピースケースに、最新のCal.215を搭載したモデル。1994年まで製造されたヒット作である。文字盤のσ(シグマ)マークは、インデックスが金という記号。71年から95年まで採用された。手巻き(Cal.215)。18石。18KYG(縦32×横27mm)。非防水。参考商品。
Ref.3738と同じ“ジャンボ”ケースにクォーツムーブメントを搭載したモデル。ケースが気密性の高い2ピースに進化した他、センターラグの位置も変更された。文字盤にはオパールを採用する。クォーツ(Cal.E27)。6石。18KYG(縦35.5×横31.1mm)。25m防水。参考商品。
この時期、パテック フィリップは技術的にも面白い試みを行った。ひとつは、サファイアクリスタルの採用である。少なくとも1964年の時点で、パテック フィリップは一部薄型モデルの風防に、丈夫で割れにくい〝新素材〞を採用していた。そしてもうひとつの試みが、異形ケースへの挑戦であったのだ。
もちろんそれ以前も、パテック フィリップは風変わりなデザインのモデルを製作していた。好例は、通称アワーグラスこと、「1593」だろう。もっとも、この時代のパテックフィリップは、業界の慣習に従って、サプライヤーから提案されたケースを採用しただけだった。つまり、こういったユニークなモデルは、パテック フィリップが先導したものとは言いがたく、コレクションと呼べるほどの生産数も持たなかった。
そんなパテック フィリップの在り方を大きく変えたのが、1968年発表の「ゴールデン・エリプス」だった。カタログに掲載されたのは、ラグの付いた「3546」と、ラグを持たない「3548」。デザイナーの名前は不明だが、かつてないオーバル型のケースデザインは、ケースメーカーではなく、パテック フィリップのイニシアチブがもたらしたものだった。パテック フィリップが、時計のトータルデザインを意識するようになったのは、実にこのモデル以降と言ってよい。
1980年代に入ると、パテック フィリップはゴールデン・エリプスをポピュラーなものにしようと考えた。定番のRef.3748にスモールセコンドを加えたのが、81年発表のRef.3948である。手巻き(Cal.215 S)。18石。18KYG(縦32×横27mm)。非防水。参考商品。
モダンなデザインを持つ丸型のカラトラバRef.5000。そのディテールを転用したのが本作。ブラックの文字盤や白塗りの針など、ゴールデン・エリプスらしからぬデザインを持つ。自動巻き(Cal.240 PS)。27石。18KWG(縦35.5×横31.1mm)。25m防水。参考商品。
ゴールデン・エリプスを特徴付ける黄金分割のケースが、何をモチーフにしたのかについては諸説ある。しかし、現時点で最も信頼がおける説は、ニック・フォークスが「パテック フィリップ マガジン」に記したものだろう。彼はこう記す。電子部門の責任者であったドレセールのコメントによると、アメリカにあるハイウェイのインターチェンジのフォルムがデザインの手本になった、と。一方で彼は、当時パテック フィリップでデザイナーを務めた、ジャン-ダニエル・デュプリのコメントも併記する。「(彼は)ゴールデン・エリプスは、自分自身のインスピレーションによるもので、それは黄金分割に基づくものだ、と主張していました」。
しかし、ゴールデン・エリプスが示したより重要な事実は、黄金分割されたオーバルシェイプという変わったデザインを、量産化したことだった。工作機械の進化した現在、エリプスのケースを作るのはさほど難しくない。しかし、加工に制約のあった1960年代後半では、これは不可能と見なされていた。
90年代に入るまで、大半のケースは、プレスで打ち抜かれた貴金属や金属を、フライス盤や旋盤で仕上げ直したものであり、デザインには大きな制約があった。時計のデザインが自由になるのは、時計業界に型彫り放電加工機が普及し、プレス用の金型を作りやすくなった80年代以降であり、さらに言うとNC制御の工作機械が当たり前になった2000年代以降のことだ。フライス盤や旋盤で加工していた60年代当時、ケースの形は、ラウンドかスクエア、あるいはレクタンギュラーに限られたのである。
ゴールデン・エリプスの完成形。1980年にケース工場を買収したことにより、ゴールデン・エリプスの完成度はさらに高まった。2018年まで製造されたロングセラーである。その完成度は圧巻だ。自動巻き(Cal.240)。27石。18KYG(縦35.5×横31.1mm)。25m防水。参考商品。
その限界に挑んだのが、ゴールデン・エリプスのケースであった。確かに、旋盤やフライス盤を使っても、時間さえかければオーバルケースは成形できる。パテック フィリップは、他社が取り組まなかった複雑な形状に挑み、その量産化に成功したのである。以降、ケース製造のノウハウを蓄積した同社が、76年に、より複雑なデザインと、より硬いステンレス素材を持つ「ノーチラス」を完成させたのも納得だ。それほどまでに、ゴールデン・エリプスとは、野心的な試みだったのである。
もっとも、かつてないシェイプのケースを量産するという試みは、パテック フィリップに試行錯誤を強いることにもなった。初期に発表されたふたつのモデルは、ほぼ同じ外観を持ちながらも、まったく違うケース構成を持っていた。サイドラグの3546は、ベゼル、ミドルケース、そして裏蓋で構成されたスリーピースケース。対して、センターラグの3548は、ベゼル、ミドルケース、裏蓋と、ムーブメントカバーを持つ4ピースケースだった。これだけ細分化された外装を、ひとつのケースにまとめるには、驚くほどの修正加工が必要だったに違いない。
パテック フィリップが、異形ケースの量産化に取り組むようになったのは、ジャン・ピエール・フラティーニが、パテック フィリップに戻った70年以降だろう。ケースメーカーのバンゲアで、高級時計メーカー向けにケースを製造していた彼は、以降、ジュネーブの老舗に、ケース製造のノウハウをもたらすことになる。余談になるが、後にジェラルド・ジェンタと協力して、ノーチラスのプロトタイプを完成させたのはフラティーニだった。
ゴールデン・エリプスの40周年を記念したモデル。サイズが拡大されたほか、初のプラチナケースが与えられた。自動巻き(Cal.240)。27石。2万1600振動/時。パワーリザーブ約48時間。Pt(縦39.5×横34.5mm、厚さ5.9mm)。3気圧防水。641万3000円(税込み)。
当初4ピースケースだった3548は、後に3546同様の3ピースケースに改められた。また、当時のカタログを見る限りは、70年頃に、風防はミネラルガラスからサファイアクリスタルに置き換えられている。その後、パテック フィリップはさらにケースに手を加え、改良版の3648をリリース。もっとも、3548の後期型と3648のケースは共に3ピースで、サイズも同じであった。しかし奇妙なことに、一部の3648は、4ピースケースを持っていたのだ。少なくとも、ベゼルに彫金やダイヤモンドを加えたモデルは、4ピースといって間違いない。
パテック フィリップのカタログに従うなら、3546と3548の後継機が、74年にリリースされた「3746」と「3748」となる。両者の違いは搭載するムーブメント。基本設計の古い23-300が、薄型の215に置き換えられたのである。このモデルは、94年まで製造されるヒット作となった。
ゴールデン・エリプスのケースが大きく進化したのは、77年の「3738」からである。搭載するのは、新型自動巻きの240。ケースが2ピースに進化したことで、ついにゴールデン・エリプスは、25mという標準的な防水性能を持つに至った。
40周年記念として、Ref.5738PとRef.3738/100Pの2本セットも発表。他にゴールデン・エリプスのデザインを模したカフリンクスと、サファイア及びダイヤモンドのネックレスも付属する。限定100セット。時計はいずれもPt製、アクセサリーは18KWG製。参考商品。
ちなみにこのモデルは、71年にリリースされた〝ジャンボ〞こと「3605」の後継機にあたる。そもそも3605が搭載する28-255 Cは、文字盤側からリュウズを外せるという、2ピースケース向けの構造を持っていた。2ピースにできれば、ケースの気密性は大きく上がる。しかしパテック フィリップは、ノーチラス向けの2ピースケースを開発するに際して、引けば抜けるジョイント式の巻き真を加えたのである。理由は不明だが、わざわざ文字盤を外すことを嫌ったためかもしれない。
77年に発表された240は、マイクロローターを持つ自社製の自動巻きだった。これは28-255 Cと違い、文字盤側からリュウズを抜くことができない。しかしパテック フィリップは、ノーチラスで採用されたジョイント式の巻き真を用いることで、240を2ピースケースに載せられるようにした。ケース構造とムーブメントの進化は、ユニークなシェイプの時計に、ようやく実用性をもたらした。あくまで筆者の推測だが、77年の3738とはノーチラスのノウハウから生まれたモデルではないか。だからこそ、パテック フィリップは、81年に、ノーチラスとゴールデン・エリプスのデザインを混ぜた、「3770」を改めてリリースしたのだろう。
初めて、手巻きで気密性の高い2ピースケースを採用したのは、88年の「3978」である。ケースサイズは、3748より大きな33×28mm。215も文字盤側からリュウズを抜くことはできないが、ジョイント式の巻き真は、3738同様に気密性の高い2ピースケースをもたらした。あくまで筆者の私見だが、3738と3978は、ゴールデン・エリプスを完成させたモデルと言ってよい。
68年以降、ゴールデン・エリプスのケースを製造したのは、バウムガルトナーやファーブル・ペレといった、長年の付き合いがあるケースサプライヤーだった。しかし、パテック フィリップは、やがてケースの自製化を考えるようになる。理由のひとつは、おそらくノーチラスだろう。このモデルの開発にあたって、パテック フィリップは、ブレスレットメーカーのゲイ・フレールにケースの製造を依頼した。しかし同社は完成させることができず、製作はアトリエ・レユニが引き継いだ。同社は、70年にβ21向けのユニークなケースを製作したメーカーである。あくまで推測だが、ノーチラスの完成度に満足したパテックフィリップが、レユニを傘下に収めようと思ったのは当然だろう。80年、パテック フィリップはアトリエ・レユニを買収し、ケースの内製化に取り組むこととなった。なお同社があったジュネーブの跡地には、現在パテック フィリップ・ミュージアムが置かれている。
こういった進化を反映させたモデルが、84年の「3738/100」である。このモデルはゴールデン・エリプス史上最大のロングセラーとなり、実に2018年まで製造されたのである。
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