Hさんの好みは実に幅広い。左下に見えるのは、ブルガリ オクト フィニッシモ ミニッツリピーター。小誌の記事を見て注文したモデルである。日本にある個体はおそらく数点だろう。Hさんは、このモデルをごく当たり前に使っている。右のピアジェ アルティプラノ 900Pも、やはり愛好家好みの選択だ。「900Pには時計の面白さがある」とは、けだし至言だ。そしてゼニスのアカデミー トゥールビヨン ジョルジュ・ファーブル=ジャコ。アカデミー クリストファー・コロンブスも持っているが、現在修理中とのこと。

普段使いの時計の一部。さまざまなコレクターに会ったが、Hさんのように、数千万の時計と同じ感覚で41万円のロンジン マスターコレクションを語れる人は稀だろう。いわく「この価格でこれだけの内容は大変にコストパフォーマンスが高いですね」。ボックス上段の中心に見えるのは、ブラックセラミックケースを持つグランドセイコー。2016年の限定版である。「海外に行くときに使っていますが、正確すぎて面白くない」。ボックスの中で目を引くのは、ノーチラスの40周年限定モデルとロレックス デイデイトのプラチナしかもバゲットダイヤモンド入りだ。後者は本当に時計が分かっている人の選択だが、普通は決して選ばない。

 彼の集中力を物語るエピソードがある。何を買うかよりも、誰から買うかを重視するHさんは、買う時のストーリーも大事にするという。半年で10億円以上使った彼の手元には、当然数え切れないほどの時計がある。筆者ならきっと詳細はすぐ忘れるが、彼はすべての時計のやりとりを完璧に記憶している。「物のやりとりでも、詩心が大事なんです。売るのも買うのも、詩心の交流ですよ。ですから私は、不義理をするような人からは時計を買いません」。

 しかし「店がトゥールビヨンしか持ってこない」というHさんの興味の範囲は、実のところ高価な複雑時計に限らない。箱を開けて手持ちの実用時計を見せてくれた。

「ロンジンのコストパフォーマンスは非常に高いですね。このクロノグラフも41万とは思えない完成度を持っていると思いませんか? ハミルトンも同様ですね。3本持っていますよ。ただ、スウォッチ グループの中でも、ラドーはどこに向かいたいのかちょっと分かりませんね。アーノルド&サンやアンジェラスも、価格に比して良い時計を作っていると思います」

 とはいえ、ひねりを求めるHさんは、冗談めかして、こう語った。

「昔はロレックスを50分進めて使っていました。というのも、時計を見て時間が正しく合うのは面白くないじゃないですか。それと、時計が壊れないのも楽しくないですね。正確だとがっかりするんですよ。機械式時計ならば、±5分ぐらいの遅れはいいんじゃないですか」

 しかしHさんは、時計を見る時間をどうやって捻出するのだろうか。秘書が十数人いるとはいえ、彼の体はひとつだ。対してHさんは短く答えた。「お金と時間は作るか作らないかだけですよ。ただそれだけ」。取材中も、彼は合間を縫って、さまざまなことを決めていた。その早さたるや、尋常ではない。このスピード感をもってすれば、確かに時計にも時間を割けるはずだ。

なぜHさんはそういう性格なのか。少しだけ、少年時代のことを話してくれた。

「高校3年までは勉強しなかったですね。カエルやバッタ、フナやコウモリを捕まえることばかり考えていた。難しいのはコウモリなんです。動くと見つかるから、1時間身動きせずにじっとしている。そして、見つけたら網で捕る。2回捕まえましたよ。高校2年の時は、稚鮎を捕まえることに熱中していましたね。夏休みや冬休みは、毎日どうやって捕まえるかを、朝から晩まで考えていました。何事もやれないのではなく、やれるようになるまでやることです。私は少年時代が長かったのでしょうね」

 なるほど、Hさんの時計収集は、カエルやバッタを捕まえるようなものなのかもしれない。だとしたら、彼がいわゆる高級時計に拘泥していないのも納得だ。しかしHさんは、どこまで時計を買うのだろうか?

「時計収集も人生も、片っ端からやれることはやっています。海外のコレクターですごい人は40億円ぐらい使うんでしょう? 私もそれぐらいは買うかもしれません。ただ最終的にどんな時計が残るのかは、私にも分かりませんね。何かを残したいと考えるのは邪念ですよ。そういう考えは生臭い。正直、どんな時計が好きなのかはまだ分かりません。しかし買っていくうちにその限界が見えるのではないでしょうか」

 筆者は合点がいった。Hさんは時計を買っているようで、実は自分の限界を確認したいのだ。彼ほどの成功を収める人は、なるほど、凡人とはすべてが違う。(広田雅将)