本田雅一、ウェアラブルデバイスを語る/第3回『スマートウォッチと体験の質』

携帯電話端末の発展方法が他国とは一線を画していたため、独自の進化を遂げるガラパゴス諸島の生態系になぞらえて当時の携帯電話端末は“ガラケー”と呼ばれていた。そんな日本の携帯電話市場において、スマートフォン普及の兆しが見えたのは「iPhone 3G」が登場した2008年あたりだ。この頃から“通話専用機”のガラケーד汎用機”のスマホ、どちらが定着するか、という議論がしばらく繰り広げられたが、同様の対立は現在、スマートウォッチと腕時計で行われている。これらの議論は天秤にかけられるデバイスが未熟な“体験の質”しか提供できないと生じてしまう、というのが本田氏の見立てだ。写真はiPhone 3G(左)と、同時期にドコモより販売されたP906i(右)。

体験の質の重要さ

 少しばかり前振りが長くなったが、まだ寄り道は続く。こうして頭の中でスマートウォッチ、具体的にはApple Watchの位置付けを言語化できたのは、ここ最近のことだ。アップル自身は、最初からこの場所を目指していたのかもしれないが、初期のApple Watchには未成熟な部分もあり、その良さが伝わり切れていなかった……ということもあると思う。

 なかなか製品の話にたどり着かず恐縮だが、もうひとつスマートウォッチに対する視点を加えておきたい。スマートウォッチというジャンル、とりわけApple Watchが切り開こうとしているジャンルが、スマートフォンそのものを身にまとうというコンセプトなのだと定義づけるなら、かつてさまざまなジャンルで繰り返されてきた“あの議論”が繰り返されることになる……ということだ。“あの議論”とは「専用機と汎用機は、いずれが勝るのか?」という議論である。そしてこの視点こそが、筆者がApple Watchだけでなくスマートウォッチ全体に対して否定的だった理由であり、またアナログウォッチに簡単なスマートフォン連動機能を追加したハイブリッドウォッチを好んでいた理由だった。

 大昔の1980年〜90年代にかけては「パソコンとワープロ」、つい最近は「スマホとガラケー」という対比があった。言うまでもないがパソコンは汎用コンピューターであり、スマホもある程度の制約はあるものの(ガラケーに比べれば)自由度の高いパーソナルコンピューターである。対してワープロとガラケーは、特定の機能を実現するために作り込まれた専用機と言える。ガラケーにはアプリもあったじゃないか? という細かいツッコミは、話が複雑になるだけなので今回はナシにしてほしい。ここで言いたいのは基本的なコンセプトの話だ。

 コンピューターという製品は、基本的に“汎用”の方が発展性を持っている。しかし、それは能力や機能に一定以上の余裕があるときだ。能力的な余裕がない場合、利用者に十分な“体験の質”を与えられない。

 体験の質は重要だ。一般消費者が求めるのはコンピューターとして、さまざまな用途に使える合理性、あるいはいろいろなアプリが動く面白さ、知的好奇心よりも、道具としての効率である。さらに個人が財布の紐を弛めるには、「これが欲しい!」と思わせるプラスαの体験も必要だろう。

 コンピューターとしての能力が不十分で、機能面、使いやすさなど、多くの面で未成熟な汎用のコンピューターは、特定用途向けに作り込んだ専用機にはかなわない。ワープロの方が文書を手早く作成でき、作業効率が良い……なんて時代は古すぎるとしても、ガラケーの方が電話としての完成度は高く、特にたくさんのアプリを使いたいわけじゃないならスマホよりずっと良かった……という話なら、みなさんもピンと来るだろうか。