オールドスタイルを貫き通すマニュファクチュールの現況
~生産性向上と旧き良き手法の狭間で~
1980年代以降、スイスエナメルの独占供給元として知られてきたル・ロックルのドンツェ・カドラン。スタッフはみな30年前後のキャリアを重ねたベテラン揃いで、3割にも満たないと言われる歩留まり率にしても、業界内では例外的に良好な数字をキープし続けているのだ。つまりこれが、現行エナメルの最大値である。30年以上も前に確立された“オールドプロセスによる手工業的大量生産”。その実体はどのようなものだろうか?
2005年に旧スターン・クリエイションが生産再開に踏み切るまで、スイスでエナメルダイアルを製造できる“大規模工房”と言えば、ル・ロックルのドンツェ・カドランに限られていた。しかし大規模と言っても、その年産数は1500枚程度。この決して大きくはないキャパシティを、長い間スイスやドイツの時計メーカーが奪い合ってきたのだ。近年、ようやくパテック フィリップ傘下のフルッキガーがホワイトエナメルの生産を軌道に乗せたと聞くが、通常のダイアルとは異なり、まだ他社に供給できるほどのキャパシティは持ち合わせていないようだ。ドンツェ・カドランの創業は1972年。自身もエナメル職人であったフランソワ・ドンツェが起ち上げたこの工房は、まだスイスエナメルに分業制が残っていた最後の時代に生まれた工房のひとつである。フランソワ自身も同社マスター・エナメラーとして87年まで腕を振るい、フランケやクロワゾネなどの技巧を後進に伝授している。2代目のオーナーが高齢を理由にリタイアした2011年以降は、長年にわたって良好なパートナーシップを築き上げてきたユリス・ナルダンが経営を引き継いでいる。
近年になってエナメルの技術を復活させた工房の多くが、分厚いシャンルベ状のダイアルベースを好むのに対し、ここでは薄い銅板を使ったオールドプロセスを大切にしている。ドンツェ・カドランが銅の地金を好むのは、白を美しく発色させるのに最も適しているからだ。周囲に少しだけフチをつけた銅板をボンベ状に歪ませ、表面に接着剤を塗布した後に、巨大な乳鉢で細かな粒子状にしたホワイトリモージュ(リモージュ産の白い陶釉)を振りかける。同社がパウダーによる施釉法を用いるのは、かなりの枚数を一度に処理するためだ。実際、続く下地焼きの工程では10数枚を並べたプレートを巨大な焼成窯に放り込む。その大きさはピザを焼く石窯程度だろう。焼成窯にダイアルを入れた最初の一瞬だけ、釉薬の成分に火が付いて大きな炎が上がる。高温焼成エナメルを“グラン フー”と称する所以だ。焼成温度は、下地焼成の段階で650〜700℃程度。この際に発生するブラックスポット(純白のエナメル表面に黒い粒子が残ること)は、やはり原因不明なのだという。焼成ごとにブラックスポットを削り取り、再び釉を乗せて焼き上げる。これを4〜5回繰り返すことで過剰な柚肌がやわらぎ、徐々に平滑さを増してゆく。
デカルクを施した後に1枚ずつ行う最終焼成では、約850℃まで温度を上げる。なお焼き上がった直後のダイアル表面は、まだガラス質が溶けているうえ地金の銅板も大きく歪んでいる。これをカーボンの丸棒(木材の消し炭)を押しつけてフラットに均す。ドンツェ・カドランでは表面を研ぎ上げることはせず、棒で均すだけで平滑に仕上げている。エナメル表面に現れる微妙な“揺らぎ感”は、こうしたハンドメイドプロセスによって醸し出されるものだ。
筆者は14年と17年にドンツェ・カドランを訪れたが、6名のスタッフは顔ぶれがまったく変わっていない。仮に年産数を1500枚として、歩留まり率を3割とすれば、6名で年間5000枚を焼き上げて、そのうち3500枚を破棄している計算だ。6名の古参スタッフたちは、みな30年前後のキャリアを重ねてきたベテランばかり。彼らの年齢を考えればこの先、生産数が減ることはあっても、劇的に増えるという事態は考えにくい。なお現在は、新たに2名のエナメリストを招き入れたと聞くから、若手の成長に期待を繋ぐしかないだろう。
しかし長期間にわたって市場を独占してきた老舗のこうした状況を、黙って眺めているほどスイスの時計産業は甘くない。ヌーシャテル近郊に本拠地を置く総合パーツサプライヤーのアバルテルは、優秀なエナメリストを招き入れてエナメルの本格的な生産に乗り出そうとしている。というのも、本人に製造を委託するだけではなく、ヴァル・ド・トラヴェール付近にあった工房設備を本社に移している最中だというから、ゆくゆくは実習生を増やして、本格的な大規模工房に育てる見込みなのだろう。ブラックやブルーも手掛けるその職人は、パテック フィリップにも協力したと噂されるスゴ腕。公表可能な仕事としては、18年にモリッツ・グロスマンが「ベヌー・アニバーサリー」用として企画したブラックとブルーのエナメルがあり、奇しくも同社では、オールドプロセスで製作されたエナメルダイアルが6種も同時に揃うことになった。
SSケースにドンツェ・カドラン製のホワイトエナメルを組み合わせた「ベヌー・エナメル」。ダイアル表面の平滑さと粒状感の均一さは、大量生産ゆえに可能となるもの。世界限定18本。
同じく2018年発表の「ベヌー・エナメル」。こちらもSSケースにホワイトエナメルを組み合わせるが、発色の難しいブルーレターにも、まったく濁りが感じられない。世界限定18本。
まずは名窯ドンツェ・カドラン製のホワイトエナメル。適度に残されたダイアル表面の柚肌と、ホワイトエナメルに独特な、瑞々しい透明感の調和はやはり見事だ。白のエナメルは前述のように不透明釉を用いるのだが、釉に含まれる多くのガラス質が焼成過程で表面を覆うため、このように瑞々しい質感に仕上がる。表面を研がないことで残される適度な柚肌感と透明感。そしてその枠の中でギリギリまで攻めた平滑さのせめぎ合いこそが、エナメルダイアル最大の魅力なのだと再認識させてくれる。大量生産の恩恵もあって品質は最も安定しており、より難しいとされるブルーレターにも色濁りはほとんど見られない。同じくドンツェ・カドラン製ながら、柚肌感をより強く見せるのが、日本からの特注で焼かれたアイボリーとクリームの2種だ。生産数はそれぞれ7枚ずつで、補修用部品としてストックされる予備を含めても10枚がせいぜいだろう。ホワイトよりも釉の粒状感が目立つのは、単純に生産枚数の違いと、釉の特性に対する経験値の違いだろう。細密画を手掛ける作家たちが、釉の発色に関するデータを集めるだけで数年をかけるという事実を思い出してほしい。ソリッドエナメルでもそれは同様で、初めて焼く色ならば、ノウハウはほとんどゼロにも等しい。
一方、ブラックとブルーのエナメルは、新鋭アバルテルの作品だ。特に透明釉を用いるブルーの表面は、凪いだ湖面のように滑らかな柚肌感が美しい。面白いのはブラックだ。本来は半透明釉のはずなのだが、アバルテル製に限らず、透明感はホワイトほど強くない。表面の柚肌感も、書道に使う墨のようにやや硬い印象だ。これが釉の個性なのだろうが、他色との違いが顕著に表れているのも事実である。このあたりが、ブラックが難しいとされる所以なのだろう。
日本からのリクエストで製作された「アトゥム・エナメル “Japan Limited”」の18KWGケース。ドンツェ・カドランに特注したアイボリーカラーは、過去に例のない色味だ。日本限定7本。
こちらは「アトゥム・エナメル “Japan Limited”」の18KRGケース。アイボリーよりも色味が濃いクリームは、パテック フィリップの名作「トロピカル」をイメージさせる、日本限定7本。
「ベヌー・アニバーサリー」の1本として用意されたPtケースには、新鋭アバルテルが製作したブルーエナメルを搭載。さざ波のような透明釉独特の揺らぎ感が美しい。世界限定10本。
18KWGケースの「ベヌー・アニバーサリー」が搭載するのは、アバルテル製のブラックエナメル。半透明釉を用いながらも、カーボンのような硬質感を見せる点が興味深い。世界限定10本。