創業175年の軌跡 不撓不屈のA.ランゲ&ゾーネ

2021.05.30

2020年12月7日は、A.ランゲ&ゾーネ創業175年と再興30年の記念日である。当時とその後を振り返り、同社が困難にいかに打ち克って2度にわたって興隆し、今日の隆盛を成し遂げるに至ったか、その土台となった数々の功績に迫る。

A.ランゲ&ゾーネ

リュディガー・ブーハー:取材・文 Text by Rüdiger Bucher
岡本美枝:翻訳 Translation by Yoshie Okamoto
[クロノス日本版 2021年1月号 掲載記事]


不撓不屈のA.ランゲ&ゾーネ

 A.ランゲ&ゾーネは今日、世界で最も有名な時計ブランドのひとつである。クロノスドイツ版編集部がニュルンベルク近郊の街、シュヴァイクにあるパルス・マーケティングGmbHと2019年に実施した調査では、ドイツ語圏の高級時計愛好家に最も人気のあるブランドがA.ランゲ&ゾーネであった。A.ランゲ&ゾーネはどのようにして現在の地位を築き上げたのだろうか。19世紀から20世紀初頭にかけて、どのような偉業が成し遂げられたのだろうか。

 そして、1990年の再興後、新生A.ランゲ&ゾーネはどのようにして高級時計愛好家の高い期待に応え、今日に至るまで続く名声を高めることに成功したのだろうか。

着想

フェルディナント・アドルフ・ランゲ

フェルディナント・アドルフ・ランゲ(1815年2月18日~1875年12月3日)は、グラスヒュッテで時計産業が発展する原動力となった。

 A.ランゲ&ゾーネもグラスヒュッテの時計産業も、19世紀にザクセン王国で始まった時計作りにその起源を持つ。1815年にドレスデンで生まれたフェルディナント・アドルフ・ランゲは、1830年にヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・グートケス(1842年よりザクセン王国の宮廷時計師に従事)に弟子入りした。グートケスの下で時計作りの見習いを終えたF.A.ランゲはその後、何年もかけてスイスやフランスへ修業の旅に出る。若きF.A.ランゲは数年に及ぶ修業の旅の中で、ある壮大な構想を育んでいた。ザクセン王国は当時、ナポレオン戦争の影響で疲弊しきっており、特にエルツ山地では人々が貧困に喘いでいた。スイスでまったく新しい方式の時計製造、いわゆる問屋制家内工業を学んだF.A.ランゲは、人々が職を得て日々の糧が得られるように、故郷ザクセンでも作業分担制の時計産業を構築できないかと思案するようになった。この製造法が確立されれば、時計職人はひとつの時計を作るのにすべての部品を一から自分で作る必要がなくなり、それぞれの専門に特化し、自宅で加工を行うパーツ職人から部品の供給が受けられるようになるのだ。

 若きF.A.ランゲが特に感銘を受けたのは「ヌーシャテル州だけでも8000人以上もの職人が時計作りで生活している」という現状だった。F.A.ランゲは1843年に、ヴァイセンバッハにあるザクセン政府の評議会にこの事実を伝える報告書を送っている。F.A.ランゲの報告書はいくつかの理由からザクセン政府の関心を捉えた。時は1830年代、ドイツでも鉄道が建設されるようになり、鉄道網が急速に拡大していった。1839年4月8日、ライプチヒ│ ドレスデン間にドイツ初の長距離鉄道が開通すると、精度が高く、持ち運び可能で、しかも手頃な価格の時計の需要が急速に高まることとなる。時計の調達を輸入に依存せずに済むようになる、というのは政府にとって魅力的な目標だった。これに加え、時計産業を確立すれば新たな雇用が生み出されるとの見通しもあった。スイスの問屋制家内工業に倣い、F.A.ランゲはまず15人の若者を時計師として育成する事業計画書を提出した。それぞれが特定の工程を専門的に学び、徒弟期間の終了後に時計師として独立するというものであった。

工房設立

グラスヒュッテ

1845年、フェルディナント・アドルフ・ランゲはグラスヒュッテにおいて時計師の育成を始めた。右の写真の中央の建物が当時の時計師養成所。左の写真は1855年のグラスヒュッテの様子を描いたイラスト。

 幾度かの調整を経て、F.A.ランゲの事業計画は承認され、工房開設のための資金5580ターラーと工具を購入するために1120ターラーが貸し付けられることになった。工房設立の地にはグラスヒュッテが選ばれた。このほかにも、アルテンブルクやクリンゲンタール、ヨハンゲオルゲンシュタットなど、貧困に陥っている地域があったが、最終的にグラスヒュッテが選ばれた背景には、歴史に埋もれがちなあるひとりの人物の尽力があった。ディポルディスヴァルデの司法官、グスタフ・アドルフ・レーマンである。レーマンは是が非でもグラスヒュッテで時計産業を興したいと考えており、F.A.ランゲの起業と若き職人の育成に資金援助するよう、市議会に働きかけたのである。同時に、レーマンはF.A.ランゲに対し、当初計画していたようにドレスデンに留まるのではなく、自身もグラスヒュッテに移り住み、現場で若者を直接指導する必要性を説いた。

 こうして1845年12月7日、グラスヒュッテにおいて、F.A.ランゲの工房と時計師養成所の開設式が厳かに行われた。F.A.ランゲはドレスデンから同僚のアドルフ・シュナイダーを同行させた。シュナイダーは生徒たちに数学と設計図の書き方を教え、主にF.A.ランゲが出張で長期にわたって留守にした場合など、工房の責任者として製造工程の隅々まで目を配った。ユリウス・アスマンや、後に時計師養成所を設立したモリッツ・グロスマンなど、グラスヒュッテの歴史に名を連ねる時計師たちも、F.A.ランゲの弟子として数年間、工房で仕事をした後で独立している。

隆盛

 工房開設直後の数年間は困難の連続だった。F.A.ランゲの長男リヒャルトは後に、政府から援助があったにもかかわらず、資金はまだまだ足りず、父アドルフは自分と妻の貯金を事業に投入しなければならず、事業を継続するために、その後も繰り返し個人名義で資金を借り入れなければならなかったと回顧している。工房開設から3年後の1848年、17個の時計がようやく完成した。だが、当初の目標だった年間600個を達成するまでには、まだ何年も待たなければならなかった。

A.ランゲ&ゾーネの懐中時計

ムーブメントの4分の3プレートに「A.Lange & Söhne Glashütte」の銘が刻まれたトゥールビヨンを搭載したA.ランゲ&ゾーネの懐中時計。9個の存在が実証されているうちのひとつ。1903年製。

 だが、F.A.ランゲは非常な勤勉さをもって、諦めることなく、細部に至るまで絶えず改善を試みた。工房開設後、F.A.ランゲは直ちにメートル法を導入する。また、数多くの工作機械を開発し、改良を加えながら、ムーブメントをより薄く作る努力を重ねた。当時、F.A.ランゲが作るムーブメントはスイス製のものに比べるとかなり厚く、市場で優位に立つためには構造を薄くすることが必須だったのである。

 1860年頃、F.A.ランゲは3分の2プレートを導入した。ここでは、4番車以外のすべての歯車がムーブメント全体の約3分の2を覆う大きな受け板の下に配置されたが、ガンギ車とテンプだけは独立した個別の受けを持っていた。この構造は、受けを複数に分割するスイス製ムーブメントの様式とは大きく異なっていた。1865年頃になると、ガンギ車の受けも3分の2プレートに統合されるようになった。これこそが、いわゆる4分の3プレートの誕生にほかならない。F.A.ランゲとその息子たちがその後、何年もかけて取得することになる約30もの特許技術のひとつであり、現在もグラスヒュッテの時計たる証しとなっているものだ。

グランド・コンプリケーションNo.42500

A.ランゲ&ゾーネの初期の歴史におけるハイライト。1902年に作られたグランド・コンプリケーションNo.42500。

 F.A.ランゲは、修業でパリを訪れていた間に時計産業の関係者との親交を深め、工房開設後の数年間はこのネットワークを利用して時計を販売していた。大きな飛躍となったのは、1851年に開催されたロンドン万国博覧会への参加である。ここで出品したリュウズで巻き上げる方式のふたつの時計が大きな称賛を浴びた。世界初のリュウズ巻き機構は1842年にジャン・アドリアン・フィリップ(後にパテック フィリップに合流)がすでに設計し、1845年に特許を取得していたが、リュウズ巻き方式は、扱いが面倒でも当時広く普及していたカギ巻き機構に比べるとまだ珍しいものであった。ロンドンで、F.A.ランゲはザクセンから持参した10個の時計を完売しただけでなく、英国やアメリカの数多くの時計メーカーや販売店との知己を得ることになる。特にアメリカは、その後数年で最も重要な市場のひとつとなった。大西洋をまたぐ取引が成功した理由のひとつに、F.A.ランゲが受けや地板に洋銀を使用していたことが挙げられる。真鍮で出来たムーブメントとは異なり、洋銀には金メッキを施す必要がなく、規制や課税といった輸出に伴う困難を回避することができたのだ。A.ランゲ&ゾーネのムーブメントには今日でも加工に手間のかかる洋銀が使用されており、他のブランドとは一線を画す特徴となっている。

 1850年にライプチヒ、1854年にミュンヘン、1871年と1875年にドレスデンで開催された産業展示会で数々の賞を受賞したことで、F.A.ランゲの名声と時計作りの町、グラスヒュッテの評判は確固たるものになっていった。また、ゴールド製のグラスヒュッテ・アンクル式脱進機など、F.A.ランゲの名前と結び付く革新的な技術が次々に生み出されていった。ムーブメントの改良と同時に、F.A.ランゲはさまざまな複雑機構の開発にも取り組んだ。1865年には動力制御機構(コンスタントフォース)の実験を開始し、1866年にはアメリカでクォーターリピーターの特許を取得、1867年にはジャンピングセコンドを開発した。

A.ランゲ&ゾーネというブランド名

リヒャルト・ランゲ エミール・ランゲ

フェルディナント・アドルフ・ランゲの息子たち、リヒャルト(左)とエミール(右)。

 1868年、息子のリヒャルトが工房の経営に参画してから、F.A.ランゲは作った時計に「A. Lange & Söhne Glashütte」の銘を入れるようになった。間もなく、次男エミールも経営に加わったが、父アドルフは1875年に60歳の若さでこの世を去る。彼の健康状態について周囲の関係者は長い間、心配していた。F.A.ランゲは身長150㎝と小柄で、体質もあまり強い方ではなく、発作にも繰り返し苦しめられていた。にもかかわらず、労を惜しむことをせず、夜中まで働くこともしばしばで、絶え間なくハードな出張に出かけていた。また、グラスヒュッテの市長(1848〜1866年)やザクセン王国の国会議員(1857〜1875年)を務め、町の発展にも貢献した。「ウォッチメイキング・アート・ジャーナル(訳注:Journal der Uhrmacherkunst)」は追悼文を掲載し、A.ランゲ&ゾーネの時計の卓越したクォリティと、グラスヒュッテで作られる時計が世界中で高く評価されるに至った功績に触れ、故人を次のようにたたえた。「英国やスペインだけでなく、ハバナ、そして北南米のすべての主要都市で、A.ランゲ&ゾーネは高い名声を獲得しました」。

 ふたりの息子たちが経営を引き継ぎ、企業は順調に成長していった。技術部門の責任者を務めたリヒャルト・ランゲは、クロノグラフやジャンピングセコンドを開発した。さらに、針がジャンプして戻る永久カレンダー、チェーンフュジーを備えたリュウズ巻き機構、ひとつのプッシャーで操作できるダブルクロノグラフなど、数多くのイノベーションを導入した。間もなく、バイエルン国王ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム2世といった王侯貴族がA.ランゲ&ゾーネの顧客リストに名を連ねるようになった。ザクセン王国のアルベルト国王夫妻も1878年にグラスヒュッテの工房を訪れている。

 第1次世界大戦が始まるまでの数年間は、A.ランゲ&ゾーネにとって実りある時期であった。ハイライトのひとつは、1902年に製作されたグランド・コンプリケーション№42500である。大小のハンマー打ち機構(グランソヌリとプチソヌリ)、ミニッツリピーター、永久カレンダー、フドロワイヤントを備えたスプリットセコンドクロノグラフが搭載され、合計883個の部品で構成されていた。だが、A.ランゲ&ゾーネはこうしたハイエンドモデルを生み出すことだけに勤しんでいたわけではない。リヒャルトとエミールは、時計の精度をさらに上げる努力を怠らないという父の遺志を受け継いでいた。1895年には社内にクロノメーター部門が作られた。エミールの長男オットーが技術部門の責任者を務めていた1935年、もうひとつのハイライトを迎える。ランゲが開発した大型の懐中デッキウォッチのうちの2個が、フリードリヒスハーフェンのツェッペリン工場に納品されたのである。第2次世界大戦中、A.ランゲ&ゾーネはドイツ空軍に腕時計タイプのデッキウォッチを供給していた。

再興

 1945年の終戦前夜、グラスヒュッテは空襲に見舞われ、A.ランゲ&ゾーネ社屋は全焼。終戦後の1948年には会社が接収、国有化され、100年を超えるA.ランゲ&ゾーネの歴史はいったん幕を閉じる。以降、ベルリンの壁が1989年に崩壊し、1年後の1990年に東西ドイツが再統一されるまで、ブランドの名を聞くことはなかった。そして、ついにその日が訪れる。それは、フェルディナント・アドルフ・ランゲの曾孫にあたるウォルター・ランゲと、当時、IWCとジャガー・ルクルトのCEOを務めていたギュンター・ブリュームラインが明確に設定していた目標であった。特にブリュームラインは、この伝統あるブランドをどのような方向に導きたいか、明確なビジョンを持っていた。1993年初頭に行われたクロノスドイツ版編集部のインタビューで、ブリュームラインは次のように述べている。

ウォルター・ランゲ ギュンター・ブリュームライン

1990年代にA.ランゲ&ゾーネを眠りから覚醒させた立役者、ウォルター・ランゲ(右)とギュンター・ブリュームライン(左)。

「私たちは徹底して、高級腕時計のブランドという路線を歩みたいと考えています。すべてを一から開発し、限られた本数の時計を職人の手で作りたい。A.ランゲ&ゾーネは、理路整然とした独自の価値観と、最高のラグジュアリーを追求することで、高級腕時計のセグメントにおける最も小規模なマニュファクチュールを目指します」

 フェルディナント・アドルフ・ランゲがグラスヒュッテに創業してから、ちょうど145年後に当たる1990年12月7日、ウォルター・ランゲは、ランゲ・ウーレンGmbHと「A.ランゲ&ゾーネ」というブランドをドレスデン地方裁判所に商業登記した。これが「新たなスタートだった」と、ギュンター・ブリュームラインは当時の様子をクロノスドイツ版編集部のインタビューで語っている。

「1994年には計画通り、最初のコレクションを発表します。準備は順調に進んでおり、現在、『ランゲ1』に必要なパーツの量産体制に入ったところです」

ダトグラフ

1999年に発表された「ダトグラフ」は、A.ランゲ&ゾーネの比類なき様式美を受け継ぐモデルである。搭載されるムーブメントCal.L951.1の複雑な造形や入念な仕上げは、世界中の時計愛好家を魅了した。
トゥールビヨン“プール・ル・メリット”

1990年に復興された新生A.ランゲ&ゾーネ初の4つのコレクションのうちのひとつとして、1994年に発表された「トゥールビヨン“プール・ル・メリット”」。チェーンフュジーを備えた初の腕時計である。

 インタビューでは極めて冷静かつテクニカルに語られた内容は、1990年代におけるドイツ時計産業の一大イベントとなって実現した。1994年10月24日、ギュンター・ブリュームラインとウォルター・ランゲは、新生A.ランゲ&ゾーネで初めてとなる4つのコレクションを発表する。ブリュームラインはこの時、どのモデルに焦点を合わせるべきか、はっきりと意図していた。それは、クラシカルな「サクソニア」でもなく、レディスウォッチの「アーケード」でもなかった。また、超絶に複雑な「トゥールビヨン〝プール・ル・メリット〞」でもなかった。香箱から脱進機までの動力を一定に制御するチェーンフュジー機構はそれまで、懐中時計にしか搭載されたことがなく、「トゥールビヨン〝プール・ル・メリット〞」がこれを備えた史上初の腕時計であったにもかかわらずである。ブリュームラインは「ランゲ1」こそが、新生A.ランゲ&ゾーネの顔になるとすでに確信していたのだ。