“ラグスポ”寄りのドレスウォッチ
23年に入ってステンレススティールケースのCODE 11.59が発表されましたが、それまでCODE 11.59はずっと18Kゴールド、もしくはセラミックケースのみでした。にもかかわらず、ラグは側面から見ると大きく肉抜きされており、腕に載せてもそこまで重みを感じません。このケース構造はいかにも意匠に重みを置いたまま、のちに技術が確立してからできたものであり、構造上の強度を実現するためにかなりの労力を要したに違いありません。
とあるファッションおよび腕時計関係者が、この時計をドレスウォッチ寄りの“ラグスポ”と称した際には耳を疑いました。しかし、これはれっきとしたAPがラグスポすなわちロイヤル オークで培った要素を込めたドレスウォッチであり、あえて言うのであれば最強の“ラグスポ寄りドレスウォッチ”です。
APはドレスウォッチであれ、ラグスポであれ、その仕上げに手を抜きません。近年の事情から、往年のような手の込んだ針は採用していないかもしれませんが、仕上げの基本とそのやり方は変わっていません。
この時計も、ブリッジだけでへこみ角が70以上存在しており、その全てを職人が面取りしています。22年6月に本社を訪れた際も、ひと部屋に10人以上の職人がおり、その全員が肉抜きされたブリッジを磨くだけの仕事に携わっていました。
現在スイスの人件費は、時計師であれば最低年俸が日本円に換算して850万円以上はしますから、この時計だけでもブリッジの磨きには100時間単位を要し、それだけでもかかるコストは100万円単位となるでしょう。
下手をすると、それだけで最も安いAP時計の原価を超えるでしょう。しかも、1カ所ミスがあれば全てやり直しの一発勝負であり、部品が一瞬でダメになってしまう大きなリスクを抱えた上での作業です。
トゥールビヨンのパーツにおいても、そのキャリッジ組み立てと精度チェックのためだけの部門と職人がいます。私が訪れた際には、そこに使われるサイズが1mmもないネジを締めるところと、トゥールビヨンキャリッジの状態で精度を測るところを見せていただきました。それが組み上げられて時計として動く状態でも、もちろん精度チェックがされます。
そして、この時計には3つのブルーが使われています。インナーベゼルリングにはCVD処理によるブルー、ブリッジにはALD処理(原子層推積)によるブルー、そしてミドルケースには先述のとおり着色セラミックスによるブルーです。
コストを優先して考えれば、たとえば全てのブルーをCVDのみに集約すべきでしょう。しかし、コンセプトの意匠実現や品質の確保に妥協をしなければ、こういった複数の技術を採用することとなります。まさにそれが為された結果がこの腕時計です。
ほら、だんだんこの時計が高い理由に納得がいき始めましたよね? しかし残念ながら、今は我が国の弱小通貨による円安も相まって、売価はすでに3000万円を超えてしまっています。私にとっては、それらを冷静に考慮して考えても、2針のトゥールビヨンとしては価格に納得のいく素晴らしい時計です。
オーナーのみが楽しむことを許される魅力
通常は曲面から構成される部品を成形するだけで大変なコストがかかりますが、CODE 11.59に至っては、風防までもがアーチ状に湾曲しています。
一般的な腕時計であれば、サプライヤーにすでに規格が存在するサファイアクリスタル風防を探して、そこから時計自体のサイズやデザインを修正することになります。すなわちAPは、CODE 11.59専用に風防を製作しているということです。
へこみ角の仕上げや、裏面と表面のブリッジの交差具合など、写真や動画だけでは見えずに通り過ぎ去ってしまう魅力が詰まっているのが高級腕時計の醍醐味ですが、このクラスの腕時計となれば、その度合いはますます高まります。
よく見ると、ブリッジには直線のヘアライン加工が施されているにもかかわらず、香箱、歯車といった円を基調とする部品には、サーキュラー(円状)のヘアライン加工がされており、主張しすぎることなくその役目を訴えかけています。
そして、私がCODE 11.59史上最高とうたうティック音(機械式時計のチクタク音)は、トゥールビヨンと極限まで肉抜きされたブリッジ、セラミックスのミドルケースの組み合わせにて生み出されたものと考えています。
ケース全部がセラミックスであれば、音質は硬くなりすぎることでしょう。セラミックスと18Kホワイトゴールドとの組み合わせが、うまく高音域から中音域を響かせ、広いスペースがしっかりと低音域も殺さずに鳴らしています。
故にこれは、最小限を突き詰めつつも、AP最新の技術の水を集めた「温故知新」スケルトントゥールビヨン腕時計の傑作と言えます。腕時計大人気時代を通ったからこそ作れた、体積あたりの手間暇が最大にかけられた、APによる自信作に違いありません。
日本国内では数本しか存在しないため、なかなか現物を見て、そのティック音を聞くことは難しいでしょうが、もしその機会に恵まれたとしたら、絶対に逃さぬようにしましょうね。
1000円のチープカシオ、1970年代のデジタルウォッチ、1億円を超えるパテック フィリップのミニッツリピーターまで、700本以上の時計を収集する腕時計愛好家。独立系腕時計ブランドを取り扱うクロノセオリーをプロデュースし、ニューヨークタイムズにも2度取り上げられた。日本を代表する時計コレクターのひとり。
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