瓦礫の山から救出された130周年記念モデルの運命
初代GSのケースも手がけた林精器ーー震災から復興への道程
福島県須賀川市にある林精器。今は主にセイコーインスツル向けの時計ケースを製造している。
その中には、130周年モデルを含む機械式GSも含まれている。2011年の東日本大震災で、壊滅的な被害を受けた林精器。
しかし同社は不死鳥のごとく蘇り130周年モデル用のケースを、遅延なく完成させた。
同社はいかにして被災から立ち上がり、遅れることなくケースを完成させることができたのか。
初代GSと「130周年モデル」のケース製造を手がけた林精器。2011年3月11日、同社の須賀川工場ではまさにその130周年モデル向けのケースが生産中であった。切削を終え、磨きと組み立ての工程にあったのはすべてのプラチナケースと大半の18K製ケース。しかし14時46分18秒、牡鹿半島沖を震源とする大地震は、須賀川の工場を一瞬で倒壊させてしまった。
震災を受けて同社が取り組んだのは、工場の再建ではなく、まずは130周年モデルのケースを救出することであった。「何はともあれ、130周年モデルのケースをサルベージしなければと思いました。特別なものですから」と林明博社長は語る。社員たちが次々と倒壊した建物に入り、数日後にはすべての貴金属製ケースが救出された。幸いにも破棄するケースはなかったという。やがて切削工程にあったSSケースもすべてが回収された。
3月23日、同市内にあるセイコーインスツル所有の工場へ移転を決めた林精器は、続いて工作機械の搬出・移送に取りかかった。「まず倒壊した工場に600本のサポート(支持材)を立てて、倒壊を防ぎました。その後社員を3班に分け、20日弱で機械の搬出・移送作業を行いました」。幸いにも大半の工作機械を搬出することに成功したという。
移転した機械を使い、4月中旬には移転先の横山事業所で研磨と組み立てを開始。6月6日にはプレス、切削、研磨、組み立ての全工程が再開となった。
林精器の再開に協力したのが、同社と深い関係にあるセイコーインスツルである。1921年に時計ケースの製造を始めた林精器は、その4年後には服部時計店との取引を開始している。戦時中、セイコー各社の疎開に併せて、林精器も須賀川に移転(43年)。以降もセイコーグループ各社、とりわけセイコーインスツルにケースなどの外装部品を供給している。
林精器とセイコーの関係を象徴するのが「ザラツ研磨」だろう。50年代に社長を務めた林満氏は、ヨーロッパの時計ケース工場を視察。ドイツ・ザラーツ(SALLAZ)社製の研磨機械に着目し、その輸入に成功した(58年)。ザラーツ、「ザラツ仕上げ」の語源である。ザラーツの研磨機械とは、回転するスズ板に対象物を当て、鏡面を得るものであった。あくまで下仕上げで使う機械だが、工程に加えると鏡面の歪みがほとんどなくなる。
では、林精器はいつからザラツを使うようになったのか。資料はないものの、製品として採用したのはおそらく63年の「GSセルフデーター」以降だろう。事実このモデルは、いかにもザラツ仕上げらしい歪みのない鏡面仕上げのラグを持っていた。しかし関係者によると、ステンレスケースの初代GSには(試験的に)ザラツ仕上げが施されていたという。世界水準の高精度時計を目指した初代GSに、林精器は世界水準の外装を加えようと考えたのである。
創業まもない時期から、第二精工舎(現セイコーインスツル)と深い関係にあった林精器。しかし初代GSを企画し、製造したのは諏訪精工舎(現エプソン)である。ケース輸送の手間を考えると、諏訪精工舎が近場の工場にケースを作らせようと考えたのは当然だった。選ばれたのは59年創業の天竜工業である。しかし設立まもないメーカーに高級品製造のノウハウがあるはずもない。そのため「林精器が天竜工業にザラツ研磨などの技術指導をした」(セイコー関係者)という。しかし手に余ったのだろう、60年代初頭まで、諏訪精工舎は林精器と天竜工業製のケースを併用した。確かに初期GSには、形状の違う2種類のケースが存在している。