ブルガリ・ブルガリ ヒストリー
進化するタイムレス・アイコン
1977年に正式デビューしたブルガリ・ブルガリは、たちまち同社のアイコンに成長した。ベゼルのロゴが消費者を捉えたという説明はある意味正しい。しかし、この時計が今なおタイムレス・アイコンとして存在し続ける理由は、時計の可能性に着目したブルガリの先見の明と、この時計自体が持つ、デザインの懐の深さにある。
1976年のブルガリ・ローマは、ジェラルド・ジェンタがデザインしたもの――。これが時計業界の定説である。筆者もそう思っていたが、これは必ずしも事実と言えないようだ。少なくともブルガリの関係者は「ジェンタはデザインに携わったかもしれないが、アドバイザー程度だったのではないか」という見解を持っている。「ブルガリ オクト」はジェンタのデザインに由来すると公言するブルガリが、そう言うには理由がある。
ブルガリ・ローマのデザイナーとされるジェンタ自身は、ブルガリとの出会いを次のように述べている。「私はローマに赴き、ブルガリの3兄弟(ジャンニ、パオロ、ニコラ)に対してブルガリウォッチのプレゼンテーションを行った。彼らは私の斬新なデザインを拒否したが、私はこれがブルガリのアイコンになることを主張。やがてデザインは受け入れられた」
しかしジェンタの回顧には、彼一流の〝脚色〟が入っているように思える。先述したとおり、76年のブルガリ・ローマは、ノベルティウォッチの焼き直しである。ジェンタは果たして、顧客に配るためのノベルティが、アイコンに成長すると考えただろうか。仮に彼がLCDウォッチのアナログ化に携わったとしよう。デジタルよりさらに一般的なアナログ2針に対して、ブルガリファミリーが拒絶反応を示したとは考えにくい。
もっとも、ジェンタとジャンニ・ブルガリが、古くから親しい間柄だったことは間違いない。70年代の初め、ブルガリはローマの本店でダブルネームのロイヤル オークを販売していた。当時CEOであったジャンニが、気鋭の時計デザイナーに注目しなかったとは思えない。ブルガリがイタリアのジュエラーであり、ジェンタがイタリア系のスイス人であることを考えればなおさらだ。何らかの形でジェンタはブルガリに噛んだはずだし、だからこそ、彼自身によるブルガリ・ローマのスケッチが残されたのだろう。しかし開発前のいきさつから考えると、ブルガリ・ブルガリは純粋なジェンタのクリエイションではなく、ブルガリに名声をもたらしたコインジュエリーの延長線上に生まれたと考えたほうが妥当だ。
ともあれ、ジェンタ云々という説明を抜きにしても、ブルガリ・ローマとその後継機であるブルガリ・ブルガリは、同社のアイコンになるだけの資質を備えていたし、事実その通りになった。
60年代以降、ブルガリは最も卓越したハイジュエラーのひとつと目されるようになった。しかし、当事者のブルガリにとって、名声の高まりは必ずしも喜ぶべきことではなかった。81年のインターナショナル・デイリー・ニュースで、ジャンニ・ブルガリはこう述べている。「私たちは、ブルガリのイメージを超富裕層向けから、良い趣味を持つ人たちに対するものへと変えようとしている」。また彼はこうも語っている。「70年代までコンドッティ通り本店の格式の高さは、ブランドの評価を高めるのに大きな効果をもたらしたが、それと同時に敷居が高すぎる印象にも繋がってしまった」。
ジュエリーの場合、貴金属以外の素材を使うのは難しい。ブルガリのようなハイジュエラーであればなおさらだ。しかし時計であれば、素材を変えさえすれば、質を落とすことなく価格を抑えられる。ジャンニの考える〝良い趣味を持つ人たち〟のビジネスに、時計はうってつけであり、だからこそ80年代の初頭に、ブルガリはいち早くSSケースを加えたのである。80年代後半、同社が世界進出を本格化させると、素材を変えやすいという利点はいっそう増した。そういった試みの例が、プラスティックケース(93年)やアルミケース(98年)、そしてカーボンとゴールドのコンビケース(2005年)などだ。
しかしその卓越したデザインを欠いて、ブルガリ・ブルガリに成功があったとは思えない。ベゼルに刻まれた〝ローマ風〟のロゴが、消費者に対するアピールになっただけではないのだ。細い針とインデックス、そして太いベゼルという矛盾した要素を両立させたブルガリ・ブルガリは、ドレスウォッチともスポーツウォッチともとれる存在だったのである。加えて、こういった要素のバランスを少し変えるだけで、薄型の2針時計は、たちまちドレスウォッチやスポーツウォッチ、またはジュエリーウォッチに姿を変えた。好例が1979年にリリースされたトゥボガス・ブレスレット付きのモデルだろう。ベゼルを太くしただけにもかかわらず、ブルガリ・ブルガリは、ジュエリーウォッチ然とした佇まいをまとうようになった。
77年の初作から、大きな進化を遂げてきたブルガリ・ブルガリ。その背景にあるのは、いうまでもなくブルガリの先見の明である。しかしこの時計が、アイコンになれるだけのデザイン要素を持ち、かつブルガリがその点を理解していたという事実は、強調してもしすぎることはないだろう。