[特別インタビュー]
最盛期のジェンタを識る3人の証言
時計デザイナーの先駆けとして、広くその名を知られるジェラルド・チャールズ・ジェンタ。80年の生涯に残した膨大なドローイングに対して、その言葉はほとんど残っていない。最盛期のジェンタとはどんな人物だったのか?それを知るために、かつてジェンタと机を並べ、また深く親交のあった3人のキーパーソンを訪ね歩いた。
時計師、エンジニア/ファブリック・ドゥ・タン マスター・エンジニア(取材時)
(中)Jorg Hysek ヨルグ・イゼック
時計デザイナー/HD3コンプリケーションCEO(取材時)
(右)Pierre Michel Golay ピエール・ミッシェル・ゴレイ
時計師、エンジニア/フランク ミュラー ウォッチランド テクニカル・ディレクター(取材時)
80年の生涯と、57年に及んだ時計デザイナーとしてのキャリアの中で、巨匠ジェラルド・チャールズ・ジェンタが描いたドローイングは10万枚を優に超える。しかし意外なことに、自らを語ったインタビュー文献は、その業績に対して驚くほどに少ない。私(鈴木)が生前のジェンタと言葉を交わしたのは、2002年にジェラルド・チャールズがローンチされた際の一回限りとなってしまったが、それでさえ、決して寡黙な人柄ではなかったと記憶している。
なぜこうも、ジェンタ自身の言葉は残されていないのか? 最盛期のジェンタはどのような人物だったのか? 手がかりを求めて、私は3人の人物を訪ね歩いた。ひとりはジェンタを高級時計製造の世界に招き入れたピエール・ミッシェル・ゴレイ。もうひとりは時計学校の卒業と同時にジェラルド・ジェンタの門を叩き、ジェンタ、ゴレイのもとで研鑽を重ねたエンリコ・バルバシーニ。最後に、同じく時計デザイナーとして、ジェンタと同時代を生きたヨルグ・イゼックである。
ジュネーブ近くのヴォー州ロールに生まれたゴレイ氏の父親は時計師で、時計学校の講師も長く務めたが、本人は1964〜70年までオペラ歌手として活躍していたことは有名だ。歌手を引退した71年からジュネーブのオーデマ ピゲに籍を置き、主にアフターセールスを担当していたという。当時はジュネーブに懐中時計の部品を作る工房があり、そこでゴレイ氏はジェンタに出会った。この時ゴレイ氏36歳、ジェンタは40歳。72年には代表作となる「ロイヤル オーク」が発表されているが、69年に設立したばかりの「ジェラルド・ジェンタSA」の名声はまだ確立されておらず、ケースやダイアルのサプライヤーと組んで、いわゆるOEMのような仕事を多くこなしていた。後に同社に合流するバルバシーニ氏も「セイコーからムーブメントを買い、ケースを作って日本に売っていた」と証言している。ゴレイ氏は「もっと自分のための時計を作るべきだ」と口説き、73年から共同で製作を開始。ジュネーブの最初のアトリエは、ジェンタ、ゴレイ、彫金師、石留め職人の4名態勢で、開発部門すらなかったが、同年にまったくの手作業で最初の永久カレンダー懐中時計を完成させている。
78年にはゴレイ氏の父親が働いていたル・ブラッシュの小さな時計工房(ジュステッティ)にアトリエを移し、新たに開発部門を設立。翌79年6月に、ジュネーブ時計学校を卒業した21歳のバルバシーニ氏と、同期のマルク・フーアルデン氏が合流した。余談だが、ふたりは卒業生のワンツーだったそうだが、現在フーアルデン氏は時計業界を退き、名前のとおり消防士をしているらしい。
バルバシーニ氏の言葉を借りれば、79〜81年にかけての2年間は、目まぐるしいスピードで推移した。3名の時計師だけで、6つの永久カレンダー懐中時計と、ふたつのグランソヌリ懐中時計を開発。そんな折、ジェンタ自身から「腕時計用のミニッツリピーターを開発せよ」との指令が下る。
「まったく、少しクレイジーだと思ったさ。だけどジェンタさんは、明確なビジョンを持っていた。やはり先見性があったんだね」
ジェンタはクリエイター。それを実現させるのはゴレイ氏。バルバシーニ氏はふたりのもとで研鑽を重ねた最初の5年間を、とても楽しかったと振り返る。――経験のない若い時計師でもチャンスを掴めた。その言葉どおりバルバシーニ氏は、84年にパテック フィリップに移籍したが、86年には再びジェンタに舞い戻り、90年までに多くの開発を手がけることになる。同様にゴレイ氏は、ジェンタとの共同作業をこう表現している。
「(代表作のひとつであるサクセスの)ファセットのように、さまざまな面を持った人でした。他人を魅了しつつも、エゴも強い。感情の起伏がとても激しかった。本質的な部分で、やはり彼はアーティストだったのです」
創業222年の記念モデルとして1977年に発表された、ヴァシュロン・コンスタンタンにおけるラグジュアリースポーツの始祖。ファーストモデルの通称“ジャンボ”(写真)は、77年にSS/500本、SS×18KYG/120本、18KYG/100本が作られたのみ。翌78年からセカンドモデルに移行し、直径34mmの3針と、直径25mmの“レディ”(クォーツ)に変更された。ムーブメントの脱着は、ねじ込み式のベゼルを外して文字盤側から行う。自動巻き(Cal.1121)。36石。1万9800振動/時。パワーリザーブ約40時間。SS(直径37mm)。120m防水。ヴァシュロン・コンスタンタン蔵。
では同じデザイナーとして、イゼック氏はジェンタをどう評価するのか? だがその前に、〝なぜイゼックを訪ねたのか〟という点をもっと明確にするために、1本の時計を紹介しておきたい。ヴァシュロン・コンスタンタンの「222」。これまで明らかにされてこなかったが、このデザインを手がけたのは、デビュー間もない時期のイゼック氏なのである。この点だけで言えば、氏は明らかな〝ジェンタフォロワー〟のひとりだ。創業222周年記念モデルとして77年に発表されたこのモデルのデザインは、開発責任者だったアンドレ・ゴア氏を通じて、イゼック氏にオファーされている。その内容は〝エベルやパテック フィリップのようなスポーツウォッチ〟というもの。当時のヴァシュロン・コンスタンタンは、シンガポールでの業績が特に目覚ましく、そこには有力リテイラーからのリクエストも多分に加味されていたようだ。
閑話休題。25年来モナコに居を構えているイゼック氏は、同じくプライベートをモナコで過ごしたジェンタと後に親交を篤くしている。20年以上も先んじて、時計デザイナーとしてのキャリアをスタートさせたジェンタに対して、デザイン手法よりもモチベーションの面で大きな影響を受けたと語る。
「彼はモロッコ王などとも親しかったから、一品製作のデザインをよく手がけていたね。しかし最大の功績は(プロダクトラインにおける)時計作りのフィロソフィーを完全に変えたことだ。ジェンタ以前にはスイス時計産業にデザインという概念はなかった。ケースやダイアルを別個に作って、組み合わせていたに過ぎない。だから彼は(名作とされる初期デザインの)ロイヤリティすら貰えなかった。君はラッキーだとよく言っていたよ」
加えてイゼック氏は、ジェンタデザインの本質を次のように分析する。
「彼のやってきたことは、非常に高級なんだけど、シリアスさをまったく感じさせないものばかりだった」
これはまさしく慧眼だろう。「私にとっての高級とは、私が創作を楽しめるもの」(「タイムシーン」2006年 第7号)、「価格への考慮が革新的なデザインを生むとは思わない」(本誌2006年3月号)など、数少ないジェンタ自身の言葉にも符合する。
ジェンタが残した最大の功績について、意外な言葉を紡いだのはバルバシーニ氏だ。
「ジェラルド・ジェンタに入ったばかりの70〜80年代には、周囲の人々はみんな、機械式時計はもうダメだと思っていたんだ。パテック フィリップですらエレクトリック・ウォッチを作ったんだよ。あの時代に本気で複雑時計を作ろうとしていたのは、ジェンタさんと、あとはダニエル・ロートさんくらいだろう。でも今になって振り返ると、あの時の冒険がスイス時計産業を守ったと気付いたんだ」
当時ル・ブラッシュにあった工房でも、ジェンタは常に絵筆を握って、水彩画などを描いていたとバルバシーニ氏は振り返る。
「ジェンタさんは、ロイヤル オークとノーチラスにすべてを注ぎ込んでしまったんだね。ジェラルド・ジェンタとして、あの2作を超えるようなデザインを生み出すことに、必死になって取り組んでいたんじゃないかな。ゴールド&ゴールドやサクセスでさえ、最初の2作を超えたと思っていなかったんだろう。もちろんこれは、横で見ていた俺が勝手にそう感じていただけだけどね」
時計デザイナーとしてのジェンタは天才か、はたまた秀才か? 初めてすべてのデザインを手がけたロイヤル オークのドローイングは、たった1日で描き上げたと、本人が明言している。しかしその最初のインスピレーションを超えるべく、ジェンタが生涯に描き残したドローイングも相当な数に及んでいる。
「ジェンタさんは、コミュニケーションがものすごく下手だったんだ。デザインや画家としての作品を発表する以外の手法で、自分の仕事を語ることができなかったんだね。だから大多数の人々は、〝ブランパンのジャン-クロード・ビバー〟が、スイス時計産業を救ったと今でも信じている。だけどそれは、(休眠状態にあったブランパンを復興させた時の)彼一流のプレゼンテーションの結果であって、実際に機械式時計を作り続けてきたわけじゃない。70〜80年代に、永久カレンダーやミニッツリピーターを作って、機械式時計の命脈を繋いできたのはジェンタさんなんだ」
実はジェンタが亡くなる7カ月前、2011年1月のS.I.H.H.にも、元気な姿を見せていたという。
「俺はもちろん、共同経営者(ミッシェル・ナバス氏のこと)と一緒に挨拶に行ったよ。でも若い世代はもう誰も、ジェンタさんのことを知らないようだった。まるで忘れ去られた人のようになっていることが、ひどく悲しかった。それで思ったんだ。本当にこの人は、自分のことを語ってこなかったんだとね」
生前の数少ないインタビューを読む限り、そして私が10数年前にたった一度だけ言葉を交わしたつたない記憶を頼りにする限り、ジェラルド・チャールズ・ジェンタという人物に、神経質な印象を見出すことはできない。しかし自分から多くの人々に向けて、何かを訴えかけるような素振りを一切見せなかったことも、一方では真実なのであろう。
スイス時計産業にデザインという概念を定着させ、機械式時計の冬の時代に、その命脈を繋いだ人物。瞬間的なひらめきで、時計史に燦然と輝くアイコニックピースを生み出した一方で、それを超えるべく10万枚にも及ぶドローイングを描き続けた人物……。やはり本当の素顔は見えてこない。残るのは生涯、筆を持ち続けたという事実だけである。