モンブラン/ミネルバ クロノグラフ Part.2

今や、語りどころのあるムーブメントを見つけることは容易になった。しかし、ムーブメント単体だけで語り尽くせる時計は、どれほどあるだろうか?その数少ない例が、Cal.MB M13.21こと、旧ミネルバのCal.13-20CH系を載せたクロノグラフだ。約100年前にリリースされたこのクロノグラフムーブメントは、希有な変遷を経て、今なお、時計愛好家たちを魅了し続けている。

星武志:写真 Photographs by Takeshi Hoshi (estrellas)
広田雅将(本誌):取材・文 Text by Masayuki Hirota (Chronos-Japan)
[クロノス日本版 2020年5月号初出]


ジュウ渓谷の歴史が育んだ名ファクトリーの系譜

スイスには数多くの時計メーカーがある。ではなぜ、一部のメーカーしかクロノグラフを作れず、しかもクォーツが普及する以前に消えてしまったのか。ミネルバのCal.13-20CHを通して、ジュウ渓谷の時計産業がたどった歩みと、それが影響を及ぼしたクロノグラフの歴史を振り返ってみたい。

おそらく1920年代から30年代頃のミネルバの工房。規模こそ大きくなかったが、同社は優れたストップウォッチとクロノグラフを生産し続けた。ジュウ渓谷という恵まれた環境が、ミネルバに名声をもたらした大きな要因だった。

 2006年10月9日、リシュモン グループは次のようなリリースを行った。「スイスの高級品グループであるリシュモンは喜びを持って、ルクセンブルクのG.P.P.インターナショナルSAからの民間取引で、ファブリック・ド・オルロジュリ・ミネルバを買収したことを発表いたします。1858年にシャルル・ロベールが創業した時計ブランドのミネルバは、スイスのヴィルレに拠点を置いています。22人の従業員を擁し、現在は高級機械式ムーブメントの開発と製造に特化しています」。

 リシュモン グループが、事実上の休眠状態にあったミネルバを買収した一因は、同社が今なお古典的なクロノグラフを製造できる設備を持っていたためだった。1990年代後半にミネルバのオーナーだったフレイ家は、同社に名声をもたらしたクロノグラフの再生産を決定し、イタリアの投資家グループに助力を得た。しかし、それは膨大な投資を必要とし、結果としてフレイ家は、ミネルバの経営から外れることとなった。もっとも、経営を引き継いだイタリア人たちもうまくいったとは言いがたい。事実上の休止状態に陥ったミネルバは、リシュモン グループの傘下で再生を図ることとなる。

ミネルバ クロノグラフ

クロノグラフ
1930年代後半のクロノグラフ。モノプッシャーで耐震装置付きという過渡期のモデルである。ケースはおそらくステイブライト製で、裏蓋はねじ込み式だろう。30年代以降は、よくできた防水ケースを持つモデルが増えた。手巻き(Cal.13-20CH)。参考商品。

 1858年にH&C.ロベールとして創業された小さな時計メーカーは、後に名前をC.ロベール、ロベール フレール ヴィルレに改めた。ミネルバの特徴である、矢印のトレードマークが登録商標になったのはこの時代である。95年、同社は懐中時計ムーブメントの自社製造を開始。1908年には同社初のクロノグラフムーブメントである、キャリバー9CH(後の19-9)をリリース。そして16年には、3万6000振動/時という超ハイビートのストップウォッチをリリースし、一躍計測機器の世界で名前を知られるようになったのである。なお1887年には、メルキュールという名前と共に、ミネルバの名称も使われるようになった。ミネルバブランドは大きな成功を収め、1929年、ロベール フレールは社名を正式に、「ミネルバ フレール」に改めることとなる。

 現在なお、クロノグラフの製造は難しいが、90年代以前はさらに困難だった。設計自体できるし、一点ものの製作も可能だ。しかし、安定した性能を持つクロノグラフを複数本製作するには、精密に加工された歯車と、高度なプレス技術で抜かれたレバー類、そして金型を維持する職人が必要だったのである。そして幸いにも、ミネルバの存在するヴィルレの周囲、つまりジュウ渓谷には、それを可能にする環境が整いつつあった。

ミネルバ クロノグラフ

クロノグラフ
1940年代頃のクロノグラフ。ケースはおそらく18KYG製である。搭載するCal.13-20CHの大きな特徴は、リュウズから37°の角度で取り付けられたプッシュボタンにある。なお、30分だけでなく、45分積算計付きも製造された。手巻き(Cal.13-20CH)。参考商品。

 ヴィルレという町は、ラ・ショー・ド・フォンからビール/ビエンヌに抜けるジュウ渓谷の中心部に位置する。時計産業の中心地であったのは、ヴィルレの隣町であるサンティミエと、少し離れたトラメランである。その周囲には、エクセルシオ・パーク、ロンジン、オーガスト・レイモンド(ARSA)、レコード、そしてクロノグラフの祖であるアルマン・ニコレといった錚々たるメーカーが軒を連ねていた。

 1875年の時点で、ヴィルレの隣町であるサンティミエには、1617人が時計産業に従事していた。そのうち、プレス加工に関わっていたのはわずか5人。つまりジュウ渓谷の時計産業は、まったく大量生産に向いていなかったのである。しかし90年代に入ると、イギリス(後にフランス)から良質なスティールが輸入されるようになり、それはスイスの機械産業を伸張させる引き金となった。そして新興機械メーカーの供給する自動旋盤やプレス機械は、ジュウ渓谷のメーカーの在り方を大きく変えたのである。そこには、もちろんミネルバも含まれていた。

 ジュウ渓谷屈指の大メーカーだったロンジンは、1878年に初のクロノグラフをリリースした。もっともこれには、おそらくレバー類を抜くプレスが充実していなかったためか、簡易式の垂直クラッチが備えられていた。事実、プレス加工の技術がスイスのメーカーに普及するようになると、ロンジンは凝ったレバー類を持つ、水平クラッチのクロノグラフを数多く作るようになる。91年には、エクセルシオ・パークが初のクロノグラフムーブメントを発表。続いてジュウ渓谷にあるさまざまなメーカーが、クロノグラフを手掛けるようになった。

ミネルバ クロノグラフ

クロノグラフ
やはり1940年代頃のクロノグラフ。文字盤は当時のミネルバが好んだサーモンピンクである。文字盤のANTI-CHOCSが示すように、おそらくムーブメントにはショックレジストまたはインカブロック耐震装置が備わっている。手巻き(Cal.13-20CH)。参考商品。

 精密な歯車とレバーの普及は、かつて製作が難しいとされた、小径のクロノグラフの製造を可能にした。1913年に、サンティミエのロンジンは、直径13リーニュの腕時計用クロノグラフムーブメントであるキャリバー13.33を発表。これは1897年に発表されたキャリバー18.97の小型版で、ブレーキレバーと、瞬時送りの30分積算計を備えていた。

 ミネルバ(当時はロベール フレール)が、腕時計用クロノグラフの製造を開始したのは1923年12月11日のこととされる。キャリバー名は20。後に13-20CHとなった名機中の名機である。設計に携わったのは、デュボア・デプラの創業者であるマーセル・デプラの子、ユージン・デプラ(1905〜37年)。彼は時計学校を卒業後、ミネルバに籍を置いていたとされる。ちなみに、デュボア・デプラ90周年を記念した公式本「Un siècle d’horlogerie compliquée」には次のような記述がある。

「ビジネスで移動するに際して、マーセル・デプラは鉄道を使った。彼は定期的にラ・ショー・ド・フォンや、ブライトリング、サンティミエのレオニダス、ヴィルレにある高名なロベールの工房、ミネルバなどを訪れた。マーセル・デプラはこう語った。帰り道にコンペティターに捕まらないよう、顧客は私を駅まで直接連れて行った」。このエピソードが示すように、創業間もない、しかしクロノグラフとリピーターの製作で名を上げつつあったマーセル・デプラが、ミネルバでクロノグラフの設計・製造に関わったのは、おそらく事実だろう。

Cal.13-20CH

1945年製のモデルが搭載するCal.13-20CH。プレスで打ち抜いた肉厚のレバー類と、極めて巨大なブレーキレバーに注目。手作業をふんだんに使えた時代のクロノグラフだけあって、調整用の偏心ネジなどはほとんど見当たらない。手巻き。17または18石。1万8000 振動/時。直径28.8mm、厚さ6.4mm。

 1923年にリリースされたキャリバー13-20CHは極めて興味深い設計を持っていた。隣町のサンティミエにあるロンジンは、ブレーキレバーと非常に精密な積算計を持つ高級クロノグラフを生産した。対して、ミネルバのクロノグラフは、08年のキャリバー9にせよ、23年のキャリバー20にせよ、相対的に簡潔な設計を持っていた。クロノグラフ車と積算計を連結するのは、凝ったレバーではなく中間車。そして、多くの懐中時計クロノ同様、ブレーキレバーは備わっていなかった。ただし、レバー類や規制バネは太く、設計を見る限りで言うと、生産性は高かった(=プレス加工で抜きやすかった)に違いない。こういった設計が示すのは、当時のミネルバが、高級機ではなく、中堅機を作ろうとしたという事実である。最初期型の13-20CHのコラムホイールが、6柱ではなく、簡易な5柱であったこともそれをうかがわせる。

 生産性を考慮した設計思想は、後にランデロンが大々的に採用し、37年には、マーセル・デプラが設計したランデロン48に結実する。これは切削で作ったコラムホイールではなく、プレスで打ち抜いたカムを備え、しかもブレーキレバーを持たない極めて簡易なクロノグラフだった。

 もっとも、30年代に入り、各社がより近代的な設計を持つクロノグラフをリリースすると、懐中時計に近い設計を持つキャリバー13-20CHは時代遅れになっていた。対してミネルバは、30年代にブレーキレバーを追加し、40年代にはプッシュボタンをふたつに分けることで、他社に追いつこうとしたのである。とりわけ興味深いのは、類を見ないほど巨大なブレーキレバーだった。30年代半ば以降に設計された近代的なクロノグラフは、ヴィーナス、バルジュー、あるいはマーテルにせよ、ブレーキレバーの格納を前提としたレバーとバネ類の取り回しを持っていた。しかし、23年に完成したキャリバー13-20CHにブレーキレバーを載せるスペースはない。対してミネルバは、クロノグラフ中間車レバーの外側に、巨大なブレーキを据えて、どうにかアップデートを果たしたのである。

Cal.MB M13.21

こちらは「コレクション ヴィルレ 1858 ヴィンテージ パルソグラフ」搭載のCal.MB M13.21。設計はほぼ同じだが、積算計中間車と支えるレバーが一新されたほか、一部歯車もリムが太くなった。設計がほぼ同じためか、新旧の感触はほぼ同じである。手巻き。22石。1万8000 振動/ 時。直径28.8mm、厚さ6.4mm。

 30年代から40年代にかけて行われた〝近代化〞にもかかわらず、基本設計の古いミネルバ13-20CH系は、それ以上の拡張性を持てなかった。とりわけ重要だったのは、40年代以降に広まった、12時間積算計を加えられなかったことだろう。ライバルに当たるヴィーナスやレマニアは積算計の構造を簡素化することで、12時間積算計を加えることに成功した。しかし、懐中時計の設計思想を受け継ぐ古いムーブメントに、そのスペースはなかったのである。

 後にミネルバは、12時間積算計を持つバルジュー72をクロノグラフに採用。それに伴い、13-20CHが活躍する場は年々小さくなっていった。生産中止になったのは、60年代と言われている。

 しかし、設計が古典的であったが故に、ミネルバ13-20CHは愛好家たちの注目を集めるようになる。加えて、140周年記念に発表した「ヘリテージクロノグラフ」(残念ながらこのムーブメントはヴィーナス製だった)の成功は、再生産を決定的なものにした。加えてミネルバには、当時の工具がそのまま残されていたのである。

 2000年、ミネルバは新しくクロノグラフを再生産。この古いムーブメントは、紆余曲折を経たものの、最終的にミネルバそのものを救うことになったのである。


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