1965年6月3日、アメリカ合衆国の宇宙飛行士エド・ホワイトはジェミニ4号のミッションの間、搭乗カプセルから出た船外活動に賭けていた。右手に握っているのは宇宙空間で体を移動させるための酸素ノズル付き宇宙銃で、8mある命綱が最長に張りつめる位置まで3度操作した。そして酸素が切れると命綱を手繰ってキャビンに戻ったのだった。
この時、左腕に宇宙服の上から巻かれていたのが面ファスナー付きの長いテキスタイルストラップが取り付けられたオメガのスピードマスターRef105.003だ。このモデルは64〜69年まで製造され、同社製手巻きムーブメントのキャリバー321を搭載していた。このムーブメントは年にアメリカ合衆国が世界初の月面着陸を果たした時に宇宙飛行士バズ・オルドリンが着けていたスピードマスターRef105.012にも採用されている。ちなみに人類最初の月面着陸者はオルドリンではなく、その数分前に降り立った船長のニール・アームストロングだったが、月探査船の電気式時計が故障したため彼のスピードマスターは予備対応として船内に置かれていたのだった。
月面着陸は69〜72年までに6回成功しているが、月面でも着用された時計は3種類のスピードマスターのみで、そのいずれにもキャリバー321が使われていた。
技術的な変更が加わった後継機のキャリバー861が68年に登場していたが、アポロ計画のミッションに採用されたモデルには搭載されず、こちらは月面到達を果たしてはいないままだ。
キャリバー861はコスト上の理由からキャリバー321で使用されていた伝統的なコラムホイールは外され、制御方式はカム式に置き換わり、振動数は1万8000振動/時から2万1600振動/時に上げられた。その現行バージョンが年に発表されたキャリバー1861で、この時からムーブメントの地板と受けの表面にロジウムメッキが施されるようになった。
新世代のムーンウォッチ
エド・ホワイトが着用したRef105.003はケースがシンメトリーで、リュウズとクロノグラフのプッシュボタンをガードするためのケースサイドの張り出しがない。そのためラグは真っ直ぐ伸び、後のスピードマスターで特徴的となる、緩やかにうねるような曲線がケースサイドから続く形状にはなっていない。このスタイルを踏襲したのが、2020年に発表された「スピードマスター ムーンウォッチ321 ステンレススティール」だ。
このモデルはブレスレットもヒストリカルピースが基になっている。シンプルな3連コマのステンレススティール製ブレスレットは1957年に登場した初代スピードマスターで装備され、それ以降ムーンウォッチの機能性を強調するデザイン要素として長らく使われてきたものだ。現在のスピードマスターには一層手間のかかった5連コマのブレスレットのものもあるが、それが3連コマに替わって取り入れられたのはかなり後になってからだ。
アポロ計画に参加した宇宙飛行士たちが着用した他のスピードマスターでは、サブダイアルにくぼみを付けたステップダイアルが使われ、ベゼルは〝ドット・オーバー〞だった。このベゼルは、タキメーターの数字に寄り添うドットがのところでは横ではなく少しずれた斜め上にあり、初期型スピードマスターの特徴となっている。68年以降のモデルはその〝間違い〞を修正したベゼルが使われているのだ。
スピードマスターの歴史上の変化はケースサイズにも見られる。新しいモデルの直径は39.7mm。現代の基準で考えれば控えめなサイズだが、それでも堅牢さと耐久性は向上している。これにはベゼルの素材を従来使われていたアルミニウムからセラミックスに替えたことも起因している。そして風防の素材がプラスティックからサファイアクリスタルになり、裏側もトランスパレント仕様になるという変化も起きた。これらの改良点は、皮肉なことにNASAの公式装備品の条件では避けるべきことのようだ。というのも減圧下で風防が割れた場合、サファイアクリスタルだと破片がプラスティックより尖りやすく、着用者の宇宙飛行士を傷付けたり装具にダメージを与えたりしかねない。そのため、アメリカ合衆国宇宙飛行士の公式装備品となっているスピードマスタームーンウォッチプロフェッショナルでは、現在でもプラスティック風防とムーブメントが見えない金属製の裏蓋が採用されている。
カルト的存在のムーブメント
しかしいずれにせよ、クロノスドイツ版編集部としてはスピードマスター ムーンウォッチ 321 ステンレススティールのケース両面にサファイアクリスタルを使用したことは利点としてとらえている。風防もさることながら、裏蓋側にも取り入れてトランスパレントになったからこそ、素晴らしいキャリバー321の姿がようやく見られるようになったわけだ。2年にわたる研究開発の間、オメガは何枚もの古い設計図を調べ上げ、宇宙飛行士ジーン・サーナンが宇宙服の上から着用したRef105.003をCTスキャンに掛けて断層撮影を行い解析した。サーナンはアポロ号のミッションに参加し、月面を歩いた最後の人間だ。今回のテストモデルはこの時のものを基に作られているのだ。
テストモデルが搭載するキャリバー321Bは、専用の部門を設けて開発されたのだが、ひとつひとつ初めから終わりまで同じ時計技師が組み立てを担当して完成させるようになっている。2019年に発表されたスピードマスター ムーンウォッチ 321の最初のモデルは、貴重なプラチナケースにメテオライトを使用したサブダイアルを組み合わせたものだった。
さて、テストウォッチを観察してみよう。ケース裏側からはサファイアクリスタル越しにクロノグラフのメカニズムが見え、コラムホイールによる水平クラッチ方式であることが分かる。レバー類はすべてヘアライン仕上げのステンレススティール製だが、ブリッジやテンプ受け、インカブロックの板バネ部分はオメガ独自のローズゴールド合金であるセドナゴールドのPVDで被膜が形成されている。一方、往年のキャリバー321の表面加工はムラが出やすいのが難点とされる電解メッキによって、ローズゴールド調の色で真鍮にメッキが施されていた。ヘアライン仕上げの入った秒クロノグラフ中間車受けの色味が強調されているのは、往年のキャリバーと同じく銅・ニッケル・亜鉛の合金である洋銀製のパーツを使用しているからだ。キャリングアーム式の水平クラッチ方式を採用するため、クロノグラフをスタートさせる際、常に回転している4番クロノグラフ車に連結している秒クロノグラフ中間車が秒クロノグラフ車に噛み合う様を、トランスパレントバックから見られるのも興味深い。
歴史的な名機を踏まえたディテール
新生キャリバー321Bの外観を完全に伝統的なものにしているのは、金色にメッキされた真鍮製の歯車、クラシカルなチラネジ付きのテンワ、長く伸びた緩急針がそろっているからだ。もちろん、再設計の際に緩急針を取り除いた、現代的なフリースプラング式テンプに替えることもできたはずだが、1949〜68年に使われていた当時の雰囲気を壊さず再現することの方が肝心だったのだ。
このことはリュウズを引けば秒針が止まって時刻合わせがしやすいストップセコンド機能についても同様で、新生キャリバーにもその機構がないため針合わせはやや難しいと感じることもあるかもしれない。
ムーブメントは古典的な設計を持っているが、精度には説得力があることが分かった。歩度測定器で実際に測定したところ、素晴らしさが抜きんでていたのは平均日差で、プラス0.3秒という数値が出ている。8日間にわたる着用テストでも、日較差はマイナス2秒〜プラス1秒の間に収まった。わずかに遅れ気味な傾向ではあったが優秀と言える。それとは反対に最大姿勢差は12秒という結果が出た。クロノスドイツ版のテスト採点は厳しいということを差し引いても、やはりこれは明らかに開きが大きいと判断したい。
品質の高さと使用感
スピードマスター ムーンウォッチ 321のステンレススティール製ケースは欠点が見当たらないほどの仕上がりだ。ケースにはボックス型のサファイアクリスタル風防がはめられていて、裏蓋にもサファイアクリスタルを使用。ベゼルの数字はエナメルで書き込まれている。ベゼルがケース側面に向かって張り出し気味であることもスピードマスターのデザイン要素のひとつではあるのだが、それに伴い、ふたつのプッシュボタンの間が狭いため、間にあるリュウズが巻きづらく、さらに引き出しにくくなっているのは残念だ。そしてスタート/ストップボタンを押した時の手応えが、はっきりとして明快なリセットボタンのそれと比べて弱い。こうなるとクロノグラフを操作する時の楽しみがやや少ないようにも感じてしまう。
しかしそれらのことを凌駕しているのが文字盤だ。巧みな目盛りの配置で、仕上がりには粗がまったく見いだせない。分針の長さも熟考の上で決定したのだろう。暗所で時針と分針はアワーマーカーと共に発光する。クロノグラフ秒針は時分針に比して細いため蓄光塗料の面積は少ないが、これが弱点になるというほどではない。暗い環境でクロノグラフ機能を使うと、時計が正しく動作しているかどうか判断する目安にもなる。実際、針の上とアワーインデックスにごく細く置かれた蓄光塗料のスーパールミノバは、明るい場所ではヴィンテージ風のベージュで、それほど力強いようには見えないのだが、暗くなるとはっきり判別できる緑色に発光し、周囲が再び薄明かりを取り戻すまで光り続ける。視認性についてはむしろ暗がりの方が上とさえ言えるだろう。というのも、サファイアクリスタル風防は内側に無反射コーティングが施されているが、光が強く当たる場合は反射しがちなのだ。
快適な使用感
ディテールに見所が多いケースは直径が39.7mm、厚さは13.71mm。バランスが良く、立体的にまとめられているばかりでなく、装着感も優れている。これにはリフレッシュされた3連コマのブレスレットにも理由がある。コマの両サイドをネジ留めし、フライスで削り出したバックルを使用することで、安定感を高めているのだ。
バックルの開閉はサイドボタンで行い、立体的なロゴが付いているのも年代のモデルに倣っている。ブレスレットの延長はバックル裏面の金具の留め位置を少しずつ段階的にずらして変えられるクイックエクステンション式ではなく、金具を端寄りに付け直し、2.5mmだけ長くできる作りになっているのも当時のままだ。
ヒストリカルピースを尊重した仕様のため、ブレスレットは素朴な見た目ではあるが、品質は極めて優秀だ。レベルの高さはブレスレットだけにとどまらず、このモデル全体にも表れている。それだけに価格はいわゆる〝普通の〞ムーンウォッチであるキャリバー1861や3861搭載モデルに比べると結構な差があるのも事実だ。しかし、従来のプラスティック風防とソリッドバックの組み合わせが、サファイアクリスタル風防とトランスパレントバックになり、ベゼルは傷が付きやすいアルミニウム製からエナメル仕様のセラミックス製になっている。その上ムーブメントが見られるようになっただけでなく、より美しく、より細やかに手を掛けた作りになったのは、スピードマスターの歩みにおいて意義深い。何よりも、このモデルは宇宙遊泳と月面歩行という宇宙開発史のふたつのマイルストーンを鮮やかに思い起こさせるのだ。
決して手を出しやすい価格ではないことは確かだが、人類の英知が夢を現実にしたその情熱を想うとき、心理的距離はぐっと近づくだろう。
キャリバー321
1930年、オメガはティソと共に現在のスウォッチ グループの前身のひとつである時計グループSSIH (Société Suisse pour lʼIndustrie Horlogère SA)の傘下企業となった。その2年後にはレマニアが加入している。SSIHは42年に新設計の手巻きクロノグラフムーブメント、キャリバー27 CHROを発表。積算計がふたつのものがキャリバー17p、3つのものがキャリバーC12pとして製造された。後者はその後に数カ所のマイナーチェンジを経て、最終的にはオメガが49年にキャリバー321の名前で使用するに至った。このキャリバーは68年までスピードマスターのRef.105.003、 Ref.105.012、Ref.145.012に搭載されていた。この3つのモデルは6回にわたる月面着陸時に着用され、月に到達した時計は他にはないことで知られている。